三十〼の解答用紙

三十〼

三十〼の解答用紙

「好き」って、ベンリな言葉だよね。





好きだと、そう祈っておけば、自己を暗示できる。


そう思っておけば、勇気を持てる。


でも…、





わたしは今、何が好きなのだろう。





そもそも、あれほどカオスな感情をたったの二文字で表現すること自体に無理がある。


何なら文字という枠組みにすることすらエゴだろう。


そんなことを考えながら国語の教科書に突っ伏して窓枠を眺める。



教室の外には、広大な世界が広がっている。


なのにわたしたちはこの小さな箱の中でちっぽけな常識を学んでいる。


海鳥たちが窓辺を通り過ぎた高校の四階。


わたしの顔を虚無が覆った――






「おーい、生きてるか、サヤ?」


暗転から覚めると、机面の集成材の木目が見えた。


そうか、わたし寝ちゃったのか。


「多分生きてるよ、リョウ。」


「死んだような目で何言ってんだか。どーせまだ夏休み気分が抜けてないんだろ?」


リョウはわたしの机に半分腰かけて話を続けた。


「幼馴染として言っとくけど、サヤ。お前明日テストだけど大丈夫か?」


「…わたしの方が成績高くなかった?」


カウンターを食らわしてやろうと思っていつもの煽りを放ってみたら、今日のリョウは冷静に、されど嫌な雰囲気を醸し出して、


「ふっふー、サヤに勝てるようにこの夏俺は本気で勉強したからな。もし俺が勝っちまったらサヤの唯一のマウント要素が消えちまうな〜」


「っくそ。コイツ、成長してるわ…」




わたしは自分のロングヘアをわしゃわしゃと掻いた。セーラー服にそれが一筋垂れる。


「そもそもテストなんて物自体がおかしいのよ。国語なんて特に。」


「そーいやサヤ、国語苦手だったな。」


「あんな複雑な心情を三十〼の中とかで表現するほうがおかしいのよ。」



入道雲は穏やかに水平線上を浮かんでいる。



「ま、頑張れよ。」


「当たり前じゃん。リョウに負けるなんて癪だし。」


そう言うとリョウは不敵に笑って

まあ俺が勝つんだけどね、と離れていった。


よくある日常の一コマ。



しかし時は流れ続ける。






――そして、何も変わらず日が沈み、夜が明ける。






答案用紙の前でペンを握る。






「好き」って、ベンリな言葉だよね。


複雑な感情を二文字で表現できてしまう。


そんな簡単なものじゃないよ、と愚痴りたくなるが、仕方がない。





…わたしがまだ、そのカオスを伝える術を持っていないだけのことだ。




だからまだ言わない。




そんな簡単には終わらせない。







三十〼の解答用紙は、二十八文字だけ書いて提出した。

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三十〼の解答用紙 三十〼 @sanjumas

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