カラスガールが舞い降りた!

へり

第1羽 からす

 五月、都内某所。


 付近の大学へ通うアパート暮らしの女子大生、慈黒じくろあやは自宅のリビングにて呆然と立ち尽くしていた。理由は、突如目の前に現れた一人の女の子。


 一瞬の出来事だった。ぱん、と軽い破裂音のようなものが響いた次の瞬間には、その子供は部屋の中央に立っていた。


 首筋の辺りまで伸ばされた艶やかな黒髪に、小学生程度の背丈。服装はかなりカジュアルにアレンジされているが、巫女服が近いだろうか。けれど最も目を引くのは、その背中にある一対の翼だ。鳥類を思わせる形状をした濡羽色のそれは、およそ人間の体には似つかわしくない。


 あまりにも唐突かつ、奇怪な出会い。いかに彩がマイペースな人間といえども、流石に動揺が隠せない。


 一方で、少女の方もまた冷静ではない様子だった。その整った顔には濃い焦りの色が浮かんでおり、だらだらと冷や汗をかきながら激しく目を泳がせている。


 数秒か、それとも数分か。


 しばらく続いた無言の膠着状態を破ったのは、彩の方だった。体を震わせながら片腕を持ち上げ、人差し指を少女へと向ける。


 何かされるとでも考えたのか、それを見た彼女の肩が小さく跳ね、それから固く目を閉じた。軽く息を吸い、彩が口を開く。


「……ふ、不法侵入コスプレ幼女」


「変な呼び方しないでくれるっ!?」


 かっと目を見開いた少女の抗議が、アパートの一室に木霊した。







「神様の……使い……?」


 机を挟んで対面に座る少女を見やり、今しがた聞いた言葉を復唱する。


「そうよっ! 今はまだ修行中だけど、将来が約束された『えりーと』なんだから!」


 ふふん、と見事などや顔を披露しながら胸を張る少女。普通であれば、いきなりこんなことを言われても子供のごっこ遊びとしか思えないだろう。


 しかし。


「……ふーん。……ところでそれ、本物? めっちゃ動いてるけど」


 少女の感情と連動するようにばさばさと羽搏く黒翼の存在が、その発言を戯言だと否定させてくれない。神の使い云々はよく分からないが、少なくともこの翼は作り物とは思えない動きを見せている。


「当たり前でしょ。わたしカラスだもん」


「カラス……」


 彩の脳内に、街中でもよく見かける黒い鳥の姿が浮かぶ。あいつらは恐ろしい。何故かは知らないがじっとこちらを見つめてくるし、群れる姿は妙な威圧感がある。無意識に、少女へ向ける視線に警戒心が混ざり始めた。


「…………な、何よ」


「……はっ。いや、なんでもない」


 とはいえ、自身が持つカラスへの微妙な苦手意識は今関係ない。彼女に直接危害を加えられた訳でもあるまい。そう思ったが、不法侵入された時点で害は受けているか。


「ところで、コスプレ幼女ちゃんは——」


「ちょっと!? その呼び方止めてよ! わたしには玲鴉れいあって立派な名前があるんだからね!」


「——それは失礼。んじゃあ、玲鴉ちゃん。君は何だっていきなりあたしの部屋に現れたのよ?」


 ちなみにあたしは慈黒彩ね、とついでに自己紹介しながら問いかければ、玲鴉は苦い表情を作り言葉を詰まらせる。


「玲鴉ちゃん?」


「…………」


「おーい。どしたの?」


「…………たのよ」


「ん? なんだって?」


「……だから! 転移先を間違えたのよ! ほんとはお父様の知り合いの所へ修行に行くはずだったのに、ぼーっとしてたら失敗したの!」


「……びっくりした」


 突然わっと言葉を浴びせられて思わず仰け反る。しかしそんな彩に構うことなく、玲鴉はなおも口を回す。良く見れば目の端にはうっすらと涙が浮かんでおり、決壊するのも時間の問題かもしれない。


「笑えばいいじゃないの! 転移なんて簡単な神術すら碌に使えないくせして偉そうにって! ほら、笑いなさいよぉ!?」


「お、落ち着いて……。あたし神術とかよく分かんないし、別に笑わないよ」


 訂正しよう。既に泣いていた。しかも号泣だ。


 表情から窺い知る事は難しいが、実のところ彩は内心かなり慌てていた。泣いている子供の世話など慣れていないことに加えて、ここは低家賃のアパートで壁が薄い。例えば、泣き喚く子供の声など筒抜けになってしまうほどに。


 一人暮らし。幼女。泣き声。通報。誘拐。逮捕。


 頭の中で嫌な方程式が組み上げられていき、さっと血の気が引いた。


「……あ、そうだ! あったかいココアでも飲まない? 用意するよ」


 普段はさぼりがちな表情筋を動かして笑顔を作り、精一杯穏やかに語り掛ける。子供と言えば甘い物だ。だが間の悪いことに、今は丁度お菓子のストックを切らしていた。故に苦し紛れのココア。


 可能ならプリン等のスイーツの方が効果的かもしれないが、無い物ねだりをしても仕方あるまい。これでどうにかなってくれと願いながら顔色を窺っていると。


「………………のむ」


 少しずつ泣き声が小さくなっていき、やがて玲鴉は弱弱しく呟いた。柄にもなく、心の中でガッツポーズをとる。あれだけ騒いだ時点で手遅れなのでは、という一瞬過った疑問からは目を背けることにしたらしい。


「お湯沸かしてくるから、ちょっと待ってて」


 微かに頷く玲鴉を尻目に、彩は気付かれぬよう溜息を吐きながらキッチンへ向かった。







 甘い香りが立ち昇るマグカップを両手で抱え、玲鴉はちびちびとココアを啜る。糖分を補給したことでリラックスしたのか、その顔は先ほどまでと打って変わり緩み切っていた。


 そんな少女の姿を頬杖を突きながらにやにやと眺めていると、その視線に気づいたのかはっとしたように目を丸くし、頬が僅かに赤く染まった。


 それからマグカップを置き、咳払いを一つ。


「……こほん。その…………ココア、ありがとう」


 消え入りそうな声だったが、感謝の言葉は確かに彩の耳に届いた。いじらしいその様子に、思わず笑みが溢れる。


「っ! あなた、人が素直にお礼を言ったのに何笑ってるのよ!?」


「ああ、ごめん。馬鹿にした訳じゃないんだ。……ただ、可愛いなって思って、ね?」


「~~っ!」


 素直な気持ちを伝えたのだが、玲鴉は先ほどとは比にならない程真っ赤になりながらこちらを睨みつけてくる。だが、やはり可愛いという以外の感想は出てこなかった。


 とはいえ、これ以上続けては羞恥を怒りが超えかねない。からかってみたい気持ちもあるが、ここらが潮時だ。一旦口を閉じ、玲鴉の言葉を待つことにする。


「……もうっ。……兎に角、ごちそうさま。多分お父様達に心配かけちゃってるだろうから、わたしは帰るわ」


「そう」


「…………ごめんなさい」


「うん?」


「……えっと、いきなり部屋に入っちゃったこと」


「……ああ」


 急に謝るから何かと思ったが、そういうことかと言葉に出さず得心する。椅子から立ち上がり彼女へ近づいて、わしゃわしゃと乱雑に頭を撫でた。


「わっ!? 急になによ……」


「ん~? いやあ、ちゃんと謝れて偉いなって」


「……なにそれ」


「まあいいじゃん。それに、あたしの部屋に来たのはわざとじゃないんでしょ?」


「そうだけど……」


「だったら、許すよ。部屋の壁をぶち破られたわけでもないし」


「……流石に、そんなことしないわ」


 固く結ばれていた玲鴉の口元が、微かにほころぶ。


「まあ、迷い込んだのがあたしの家で良かったと思いな」


「ふふ、そうね」


 思いのほか素直な返答に少しだけ驚いていると、玲鴉の体がにわかに発光し始める。おそらく、転移というやつの準備をしているのだろう。


「……もう失敗するなよ~?」


 彩が玲鴉の頭に手を乗せて言えば、その下から勝気そうな眼差しが返された。


「当たり前よ。わたしはすごいんだから!」


「……そうだったね」


「……じゃあね、彩」


「……うん。じゃあね」


 光が脈打ちながら強まっていく。この不思議な少女ともこれでお別れだ。玲鴉の頭から手を退けて、その様子を見守る。


 やがて一際強い光が放たれ、一瞬世界が白に染まった。そして、それが収まると先ほどまで玲鴉が居た場所には。


 何故だか、寸分違わぬ玲鴉の姿があった。


「…………あれ?」


 可愛らしく小首を傾げ、疑問符を浮かべる少女。


「……あの、玲鴉ちゃん?」


「ち、違う! 失敗じゃないもん! なんか、壁みたいのに邪魔されて……」


 思わず白けた視線を向けると、少女は身振り手振りを交えながら必死に自身の失敗を否定する。


「……状況が良くわかんないけど、つまり?」


「……えー、と」


 目を逸らし、翼をぱたぱたと扇ぐ。やがて意を決したように彩を見つめ、引きつった笑顔を浮かべて一言。


「……帰れなく、なっちゃった?」


「……不法侵入不法滞在コスプレ玲鴉ちゃん、か」


「それ止めてってば!?」




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