1−2.ふたりのミュザ

 隊商の最後尾で、ミュザはずうっと空を眺めていた。それだけがミュザに任された、唯一の仕事である。


 きょうだいの中では、一番に出来が悪かった。

 文字の読み書きが達者なわけではないし、足が速いわけでもない。話が上手なわけでもないし、見た目がよいとも言えなかった。

 それでも目と耳がそれなりよく、運が強いとはよく言われてきた。だから父からは頭ごなしに天気読みの技法を詰め込まれ、こうやって龍読みの仕事を押し付けられていた。


 龍読み。言ってしまえば見張りである。

 一時期に比べると随分と落ち着いたが、居住区コロニー間を行き来する隊商を襲う龍はいまだ多い。

 それを事前に察知し、迂回するなり、尻尾を巻くなりする。そのために天候を読み、香を炊き、ほふったけものを荷駄に積むなりするのである。


 龍。ミュザは詳しくは知らない。

 祖父さんのころぐらいに、南の方から大勢、渡ってきたそうだ。

 そうして、あのでっかい山をねぐらにして、好き放題やってくれていた。

 だから人間とか他の生き物は、猫の額みたいな居住区コロニーでしか暮らせなくなっていた。


 ミュザがこの仕事をはじめてから、幸いなことに、龍と出くわしたことは一度もない。

 それでも父はミュザの手腕は褒めず、あるいはミュザの生来の強運がそうさせていると決めてかかっていた。


「父ちゃん、今日は日照りだよ。こんな日は、龍も出てはきやしないってよ」

「龍が出なくたって、オークが出るかもしれん。いつでも何にでも備えておくことだ」

「最近は龍狩りさまだっているんだしさあ」

「他人を頼るんじゃない。これだから当てずっぽうしか能のないやつは」

 言われてぶうたれながら、それでも空を眺めるしかやることはなかった。


 龍狩りさまというのが、ちまたでは話題になっていた。

 何でも人の身でありながら、龍を殺すということをやってのけるらしい。

 今までそんな馬鹿げたことをやるひとなんて、誰ひとりいなかったから、行く先々、大騒ぎだった。

 今はどこそこにいるらしいだとか、どういう格好をしているだとか。色んな尾ひれはひれがくっついた噂が飛び交っていた。


 そんな人がいるんなら、龍読みなんていう仕事はいらないやな。全部、そのひとがやっつけちまえばいいわけだし。

 こっちのほうに流れてきているとも聞いたし、そうすれば安全に交易もできるようになるはずさ。


 ふと、見上げた空を、何か大きな影が横切った。

 それは赤い翼をはためかせながら、まるで峡谷を風が通り抜けるような轟音を鳴らして消えていった。


「龍だ」


 はじめて見たかもしれない。大きくて、速かった。

 不思議とそれほど恐怖を感じなかった。


「おい、ミュザ。龍だぞ」

「大丈夫。あれだけでっかいやつは隊商を襲わない。東の方へ行ったのだから、西づたいで迂回すれば安全だよ」

「信じるからな。その言葉」

「おれが先に行って、見てくるよ」

 そうやってミュザは、獣肉を入れた袋を持って馬に跨った。


 半里ほど先。隘路あいろのようになっていた。それほど高くない丘、ふたつ。


「おうい」

 声を上げる。龍の中には、人の声を真似るものがいる。こうやって木霊こだまが返ってくるようなら、龍がいる証拠だ。


「おうい」

「おうい」

 ぞくりと。


 返ってきた。まさか。


「助けておくれよう。足をひねっちまった」

 男の情けない声だった。

 それでほっとした。


「龍読みさんかい?」

「そうだよ。今、そっちに行く」

「すまないねえ。このごろやっぱり、物騒でねえ。あちこち余所見してたら、転んじまったよう」

「おやまあ、大変だねえ。馬もあるから、連れて行くよ」


 馬に踵をくれた。

 それで進んだ。


「すまないねえ」


 どうしてか、その声は、丘の上から聞こえた。


 何かがどさりと降りてきた。それで、馬が前足を上げてしまった。

 なんとかなだめようとしたが、どうにもならない。


「ほんとうに」


 ほくそ笑むような声。


 龍。それも八つ足の。

 飛んでいたやつとは別の個体。


「父ちゃん」

 叫んだ。それでも半里後ろ。届かない。

 手綱をさばくが、暴れてばかりで動こうとしてくれない。

 そのうち、龍は長い胴でじっくりと周囲を取り囲んでしまった。


 龍読みが読みをしくじったら、死ぬしかない。


 馬がひときわにいなないた。それでぐらついた。

 落馬。なんとか体勢は整えたが、馬はそのまま走り出してしまった。

 しかしそれも、龍の長い体に阻まれ、前肢に蹴飛ばされた。そうして何度か叩き伏せられたそれは、ゆっくりと丸呑みにされていった。


 ついてねえ。ついてねえよ。


 短刀。震えながら抜いた。

 龍は喉を鳴らしながら、じっくりとこちらににじり寄ってくる。


「こなくそっ」

 振りかざした。それまでだった。


 腹に、何かが突き刺さった。そうして吹き飛ばされていた。

 息ができない。痛みばかりが、そうやって。


 足を、握られていた。


 そこからは、あの馬と同じようにされた。

 目に入るのは地面ばかりで。

 衝撃と、痛みだけが広がった。


 そうして、放り捨てられた。


「ほんとうに、すまないねえ」


 足も手も、ぐちゃぐちゃになっているようだった。

 きっと体も。

 目が、まともに動いてくれなかった。


 誰か、誰か。助けておくれよう。



 呻き。それだけきっと、聞こえた。



 龍が退いていた。

 そして、誰かが隣りにいた。


 なにかの血で汚れたみたいに、赤黒く汚れた装束だった。


「お前は、同胞狩りの」

 うなるように、龍が叫んだ。


 そのひとは、龍に向かって駆け出した。

 叩きつける前肢。まともに食らって、吹っ飛んだ。

 それでもすぐに立ち上がる。


 大顎が開く。

 そのひとはその中に、いっそ飛び込んでいった。

 そうして中からその上顎に、その剣を突き立てた。

 雷鳴のような絶叫が響く。

 剣の切っ先は、はっきりと上顎を貫いていた。


 引き抜いた。血しぶきが舞う。

 そうして下がった頭に、そのひとは乗りかかった。

 眉間に、逆手にした剣を突きたて、そうして。



 悲鳴。鳴り響いていた。



 龍が動かなくなったのを確かめてから、そのひとはこちらに駆け寄ってきた。

 返り血で真っ黒になって、それでも必死の形相で。


 手を、差し出そうと思った。

 ぐにゃりと曲がっていた。


「俺、きっと死ぬよ」

 その辺にあるもので、ありったけの手当をしてくれていた。それでもミュザは、そう言っていた。

 何となくわかった。死んだことなんて一度もないけれど。

 体はどこか、軽かったから。


 そのひとは、何も言わなかった。

 必死そうな吐息ばかりで、声はなかった。

 ただずっと、泣いていた。ぼろぼろと、綺麗な顔を崩しながら。


「おお、ミュザ。なんという」

 父の声。

 覗き込んできた。父の顔だった。

「気を確かに持て。今、龍狩りさまと」

「父ちゃん」


 何も、きっと、感じなくなってきた。

 それでも声だけは、はっきりと出せた。


「龍狩りさま。お名を、頂戴してもよろしいですか?」


 そのひとは泣きながら、ふるふると首を振った。

 ああそうか。そういうこともあるのかな。

 きっと喋れないか。それともくわえて、名前がないのか。

 それでもきっと、人々のために、こうやって。


 ああ、ちゃんと礼をしないと。


「俺、ミュザっていうんだ」

 指は動くようだった。だからそれで地面を引っ掻いた。

 痛みの中でも、自分の名前ぐらいは書ける。


 そのひとは、ミュザの手元を見て、はっとした顔をした。

 そうして泣きながら、何度もそれをなぞっていた。


「だから、あげるよ。ミュザさまに。俺とおんなじ名前を」

「何を言う、ミュザ。きっとお前は」

「父ちゃん」

 父の方を向いた。


「ありがとう」

「ミュザ、お前」

「そして、龍狩りさま。ミュザさま」

 そのひとの顔を見た。表情までは見えなかった。


 ありがとう、ミュザさま。助けてくれて。

 きっと、ちゃんと言えたはずだった。

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