第36話 「微笑み」
「これから調味料を入れますけど、俺はいつも目分量で入れることが多いです」
「味は日によってバラバラになるんですか?」
溶いた卵の入ったカップから手を離し、調味料を入れる作業に移ると先輩が不思議そうに聞いてくる。
「厳密に計ると違うかもしれませんが、だいたい同じ味になります。何度も作るうちに身体が覚えるというか」
「さすがですね! 感覚だけでなんてプロみたいです」
まぁ、これはいつも作る甘めの卵焼きに限った話だが。
「まず砂糖を小さじ三杯」
砂糖を掬い、卵のカップに三回に分けて入れる。次に塩と醤油を少量。
「調味料を入れたらもう一度菜箸で溶かすように混ぜます」
「ふむふむ」
泡立たないように軽く混ぜると、色が少し濃くなった。
混ぜ終わったら、長方形のフライパンを引き出しから取り出す。
「いよいよメインの工程ですね」
「はい。これから焼くところです」
フライパンに油を垂らすと、先輩が少し体を強張らせる。
「先輩?」
「は、はいっ!」
「どうかしましたか?」
「いえ、なんでも…」
明らかに油を怖がっている様子。
「油が跳ねるのが怖いんですね」
「べっ、別にそんなことないですっ!」
「……怖いんですね」
まあ、油が跳ねるのは誰でも怖いものだ。
「大丈夫です。IHだからガスより熱が通るのが遅く、弱火にすれば跳ねにくいです」
「そうなんですか!? じゃあ、私がいつも跳ねさせてたのは…」
「火力がいきなり中火だとそうなるかもですね」
先輩は熱心にノートに「油を跳ねさせない」と書き込み、重要マークまで付ける。
「弱火から始めれば安全です。家で作るときも気をつけてください」
「分かりました。パッケージの裏面の指示通りにやってたので……」
「あー、油の量でも変わりますからね」
油をフライパンに広げ、準備完了。ジュウーという音が聞こえてくる。
「これから卵を入れます」
「はい!」
「でも、全部一度に入れるのではなく、三回くらいに分けます」
卵液を三分の一ずつ流し入れ、フライパン全体に広げる。
「一回で作らない理由は、綺麗に巻くためです」
「分かりました、数回に分ける、と」
卵が固まり始めたら、奥に巻いてまとめる。
「最初は粗くで大丈夫です。後の回で形を整えます」
残りの卵液をフライパンに注ぎ、既に巻いた卵の下にも流し込む。
さて、もう少しで完成だ。
形だけは綺麗に、集中して手元に意識を向ける。
「よいしょっ!」
三回目の卵液を投入し、半熟より少し硬めになった頃合いでフライパンの卵を巻く。
奥に待機していた粗い卵焼きを手前に持ってくると、長方形の形が綺麗に整った。
「完成ですか!」
卯月先輩はキラキラした目で俺を見つめる。ひなたが興味を惹かれた時の表情にそっくりで、思わず顔が熱くなる。
「完成……と言いたいところですが、焼き目を付けるためにもう少しだけ焼きます」
「なるほど。見た目も大事ですもんね。色合いがつくと美味しそうに見えます」
菜箸で形を整えながら裏返し、焼き目を確認。
そして空いたお皿にコロンと卵焼きを取り出す。
「後は食べやすい大きさに切れば完成です」
「わっ!すごく綺麗ですね〜。よく卵焼きは作るんですか?」
「家で食べる時や、ひなたのお弁当のおかずとして作ることもあります」
先輩も納得した様子だ。卵焼きの色合いを意識するときに便利なのは内緒にしておく。
「あ、あの…綾瀬くん」
「はい?」
先輩はそわそわしながら卵焼きと俺を交互に見る。
「味見してくれますか?」
「待ってました!……じゃなくて、いいんですか!」
「本音が先に出てましたね」
渡された卵焼きを小皿に置くと、先輩は箸でつまみ口へ運んだ。
「んー!」
声と表情から美味しいと伝わってくる。
「良かった。ちゃんと出来てたみたいですね」
先輩はもぐもぐしながら必死に頷く。
「にぃちゃん、はいってもいいー?」
すると、ひなたがリビングから顔を出した。
「ひなたも食べるか?卵焼き」
「にぃちゃんのたまごやき!」
「こっちおいで」
「たべる〜」
片膝をつき、口を大きく開けるひなたにそっと卵焼きを運ぶ。
「ほら、あーん」
「あー、ん!」
幸せそうに口を動かすひなたを見て、心が温かくなる。
「この顔を見るのが料理の楽しみでもあるんだよな」
「本当に綾瀬くんはひなたくんを大切にしてますね」
「はい。……あ、声に出てましたか?」
「はい! バッチリと」
先輩はひなたの頭を優しく撫でる。
「私がこの後作る卵焼きも食べてくれますか?」
「ねぇねの?うん、いいよ!」
先輩は羨ましそうに微笑む。
「妹も元気でしょうか……」
「そういえば、先輩にも妹さんがいるんですよね。元々子供は好きなんですか?」
「ええ、生徒会の活動で近くの幼稚園にもボランティアで行きますし」
「へぇ」
立ち上がった先輩がキッチンカウンターへ向き直る。
「ごちそうさま〜」
「それじゃあひなた、次は先輩が卵焼きを作るからリビングで待っててな」
「うん!まってるー!」
ひなたの後ろ姿を見ながら、料理教室後は思いっきり遊んであげようと心に決める。
「綾瀬くん」
「あっ」
先輩が近くにいたことを忘れていた。
「すみません、ちょっとぼーっとしてしまっ……て」
振り向くと、エプロン姿の先輩が箸で卵焼きを挟み、左手で落とさぬよう支えていた。
「あ、あーん」
「!」
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