第28話:川の番人


 足元に広がる波紋、そして、川の流れる静かな水音。

 視界の端に映る髪色は、本来の朱色のものだ。

 ふと、柔らかな歌声が聞こえて、マーティは歩みを進めた。


 川辺には、ふたりの白いローブを着た人物が腰を下ろし、ひとりは静かに歌を歌っている。

 素朴で、美しい歌声だった。


 歌っていた人物は背後から現れるマーティの気配に気づき、慌てた様子で歌を中断すると、仮面を取り上げ、自身の顔に装着した。


「……やっぱり。人間に聖なる力を与えた天族は、あなただったのか」


 川の番人の動きが、ぴたりと止まる。


 ――巻き戻る直前に、マーティを、この生と死の狭間で導いてくれた人物。

 今の彼は翼こそ無いが、カルレイヴの記憶の中の天族、ユルーエルと酷似していた。

 彼は諦めたように仮面を外し、気まずげな表情を浮かべている。


「……すべて、ご存知なのですね」


 次に、マーティの視線は、川辺に座るもうひとりの人物に向けられていた。

 それに気づいて、ユルーエルが静かにしゃがむと、ゆっくりとその人物の白いフードを外した。


 そこから現れたのは、無防備な表情で目を閉じた、美しい青年だった。


「……魔王カームレト」


 マーティはつぶやく。

 鮮血を思わせる赤い髪の特徴は、記録の中のカームレトと合致していたのだ。

 その中で魔物のような様相だった彼の面影が、意識のない彼の表情に、どことなく残されている。


「……今は残された身体だけ。彼の心と業は、私が浄化してしまい、存在しないのです」


 ユルーエルは、祈るように両手の指を絡ませ、目を瞑る。

 この悲劇を生み出した張本人はユルーエルだと理解していても、マーティは不思議と、彼に恨みを抱くことはなかった。


「これは私の身勝手に対する、我が君が与えた罰。むしろ、彼の身体がここに存在することで慰めを与えてくれる、我が君の温情に感謝をしなければならない立場です」


 我が君――万物の神ネレデア。

 ユルーエルは深い後悔が滲んだ表情で、マーティに向かって腰を折った。


「光の資質を持つ者に、私は二度も重責を負わせました。……あなたをこのような運命に引き合わせてしまい、申し訳ありません」


 丁寧にそう言うユルーエルに、マーティはむず痒くなる。

 彼は――天族の規律に違反し、魔族の男と恋に落ち、結果的に世界を混乱に陥れることになった。


 だが、マーティという人間の視点から見て、ユルーエルの行動は悪意に由来するものではなかった。

 突き詰めれば、カームレトとユルーエルの仲を引き離したネレデアに原因があるようにも思える。


 カルレイヴに光の力を与えたのも、魔王を浄化したのも、ユルーエルがよかれと思ってやったことだ。


 それほど自身の恋人と人間を愛した天族に、数百年もの間、光のない場所で死者の相手のみをするよう命じるのは、いささか酷なように感じなくもない。

 彼はここでひとり、途方もなく空虚な時間を過ごしたことだろう。


 マーティの心情を察したのか、ユルーエルは口を開いた。


「我ら天族は、異なる世界の者に対しては、常に傍観者であり続けなければならないのです」


 その言葉は、まるで自分自身に言い聞かせているかのようだった。

 彼の静かで重い口調の節々に、マーティは彼の途方もない孤独と、自責の念を感じとれた。


「でも……あなたは俺の前世を思い出させてくれた」

「いいえ。私は、あなたに特別な『なにか』を与えたわけでもなければ、決定的な助言をしたわけではありません。もし過去へ戻って、物事がよい方向に変わったとすれば……それは、あなた自身の力によるものでしょう」


 ユルーエルは、付け足した。


「……死した魂を川へ導くように、多少は、あなたを言葉で導いたかもしれませんが」


 そう告げるユルーエルの表情は、少しだけぎこちない。

 乏しかった表情の彼から、わずかに人間味を感じてしまう。


 マーティは一歩下がって彼の目を見つめた。


「……川の番人、ユルーエル。俺は、目的があってここに来たんです」


 そう告げると、マーティは、自身の手のひらに、光を生み出す。


 かつて人間に授けた自身の力を、ユルーエルは一瞬、懐かしいものを眺めるように、目を細めた。


「魔王の思念は、俺の命と共に、消滅しました」


 その言葉に、一瞬ユルーエルの表情に苦しみが滲む。

 しかし、それを隠すように彼は目を瞑った。


「……魔王の再臨がなくなった今、光の力は、もう俺には必要ない」


 マーティがそう告げると、ユルーエルの目が開き、戸惑うような視線を向けられた。


「欠けたクロンも光を失い、それを証明している。あなただけじゃない、ここへ来たみんなも、道に迷って光を求めているはずだ」

「しかし、これはあなたの持つものです。このようなことをすれば、あなたの光の力が――」

「俺の力じゃない」


 マーティが手を高く天に掲げた。

 生まれた光は、ふわふわと宙に浮かんだかと思えば、彼の思いを形にする意思を見せるように天高く打ち上がり、弾ける。


「これはヒナタと――あなたの力だ。あなたが人に授けてくれた光が、元の場所へ還っただけ」


 光の粒子は、暗闇の中に浮かぶ満点の星星に姿を変えた。


 ユルーエルは、瞬く星空に感嘆の声を漏らしながら頭上を見上げた。

 彼にとって光という存在は、数百年の間に忘れていたものだったのだ。



 ――彼はたしかに、規律を破り、世界に混乱をもたらした。

 その罪の重さは、マーティにも痛いほど理解できた。


 しかし、その罰として数百年もの間、生と死の狭間で孤独に苛まれてきたユルーエルに、これ以上なにを求めるというのだろう。


 ユルーエルの心に深く刻まれた後悔、孤独、愛しく思っていた人々の魂を導く、彼の想い。


 それらを尊重し、マーティは彼に対して、静かな神聖な礼をとった。


 自身を律していたユルーエルが、その礼に息を呑む気配が伝わる。

 彼は唇を強く引き締めると、マーティに対して同じように、礼をとった。


 すると、周囲の光に反応して、マーティの身体に宿っていた思念体が、ふわふわと浮遊し始める。

 ユルーエルは、それが何者か、一瞬分からなかったようだ。


 それはカームレトの肉体へと向かい、彼の身体に触れた瞬間、吸い込まれるような形で消えた。


「まさか……。そんな、嘘だ……」


 数百年もの間、動くことのなかった指が、ぴくりと動く。

 ユルーエルが口もとを押さえた。


「――ああ、……カームレト……ッ!!」


 身を裂かれるような震える声でその名を呼ぶ。

 瞬く星空の下、ユルーエルがいたわるようにカームレトに触れた。


 その瞬間――マーティの身体が輝きはじめ、なにかが彼の中で、ぱちんと弾けたのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る