第3話:魔王城(後編)【✦】

 そこは玉座の間だった。

 広い空間は何本も太い柱で支えられているおかげか、老朽化による崩壊が比較的少ないが、それだけに異質だ。


 歩みを進めたマーティは、今まで見たことのない類の魔物の存在に気づき、息を呑む。近づくにつれて、頭がぼんやりと霞むような空気の歪みを感じた。


「――これが、魔王の繭……?」


 ひな壇の玉座の上には、球体状のどす黒いなにかが収縮を繰り返している。

 黒いそれは光を反射せず、目を凝らして注視すると黒い粘液のような不思議な質感をしていた。


 混沌を思わせる闇の存在は、見た目こそ異質だが、一見ふわふわと宙を漂うだけの無害な存在だともマーティは感じる。



 不意に、魔王の繭は低い鳴き声を発した。


 呪文や詠唱の類かと一同は身構えたが、オーグストがなにかに気づいたように懐から魔道具を取り出す。


 それは魔王の繭に反応するように、光を放っていた。


「これは……」


 ――それは、一瞬のことだった。


 玉座の上を漂っていた闇が、彼らの前から消えた。

 突然のことに呆気にとられながらも、マーティは警戒を高める。先の戦闘のように、まずは非力そうな相手から狙うのが戦いの定石だ。


 しかし、マーティの予想に反して、突然消えた闇はスフェルの目の前に姿を現した。


 防御の時間すら与えられない。魔王の黒い身体の一部は鋭いナイフのように変化し、スフェルの首筋を薙ぎ払う。


 信じがたい光景に時が止まったようだった。


 スフェルは、声にならない声を発して、後ずさる。


 ネイロンが目を剥きながら駆け出し、杖を振る。

 オーグストも、動揺で魔道具を手から落とし、戦闘態勢をとっていた。


 ――なにが、起こった?


「マティアス!」


 滅多にマーティの名を呼ぶことのないオーグストの叫びに、マーティの意識はようやく現実に戻った。


 その場に崩れ落ちるスフェルの首筋からは、大量の血が溢れ出ている。


 ネイロンは詠唱もなく魔法を発動した。

 杖の先端にあしらわれた宝石は、魔法の負荷に耐えきれずひび割れている。


(――治療、治療を)


 肉親の絶望的な姿にマーティは震えながらスフェルに近づいた。うずくまるスフェルの足元には大きな血痕が広がっている。

 マーティが動かないスフェルの肩を揺らすと、ごろんと彼の身体が倒れ、その虚ろな目を見た。


「……ああ……!」


 もう、手遅れだ。

 理解はできているのに、それを否定したくて、マーティはありったけの魔力をこめてスフェルに治癒を施した。

 戦いの中の治療など、無謀だとは分かっていた。


 これほど全力で治癒をしているのに、傷だけがゆっくりと塞がるばかりで、スフェルの深い青緑の目に、光が戻ることはない。


 視界が滲み、目の前の現実にマーティの精神は耐えられなかった。

 スフェルの頬に、雫が数滴落ちる。



 ――無理だ。どうして自分は、こんなに無力なんだ?



 不意にマーティの頭上をすり抜ける形で、ネイロンの身体が吹き飛んだ。


 壁に叩きつけられたネイロンの身体に、老朽化した天井がガラガラと落ちてくる。 

 頭から血を流しながら顔を上げた彼は、スフェルの様子に気づいて愕然としていた。


「ネイロン……」


 マーティの涙で濡れた声に、ネイロンの目は悲痛に染まった。

 しかし、その目は即座に怒りで燃えあがる。



 激昂したネイロンは杖を振り、炎を生み出した。

 不死鳥の姿を模った巨大な炎は、怒りによって青く染まり、空を裂くような高い音を発して影を飲み込む。


 ネイロンは攻撃の手を緩めなかった。動かなくなった肉親に対するショックが大きく、マーティは動くこともできない。


 ネイロンは長い時間をかけて、その炎で魔を滅ぼそうとしたが、とうとう負荷に耐えきれず、杖の宝石は音をたてて砕け散った。


 彼はそれでも攻撃を続けたが、炎は次第に勢いを失い、とうとう掻き消えてしまう。



 魔力が尽きたネイロンは、力なく腕を下ろす。飛び火を浴びた彼の美しい銀の髪は乱れ、杖を握る手は無惨な火傷を負っている。


 闇の存在は、低く掠れた声でなにかを囁きながら、ネイロンの元へゆっくりと向かっていく。

 恐怖で動けなかったマーティは、阻止しようと闇の前に立ちはだかった。


「マティアス、よせ!」


 オーグストの制止も、今だけは頭に入らない。スフェルの血に塗れた手で聖剣を持つと、剣先を闇の存在に向けた。


 それは、再びなにかをマーティに語りかけているようだったが、マーティには理解ができない。しようとも思わなかった。


 魔王の繭に剣を振りかざしたマーティだったが、相手はそれよりも早く行動を起こした。


 一度に両手首と両足の腱を切り裂かれ、マーティは立つことを維持できず、その場に倒れる。


 圧倒的な力を持つ魔物は、スフェルのようにひと思いに自分を殺すことも可能だったはずだ。


 奴は――弄んでいるのだ。


 マーティの視界が真っ赤に染まる。オーグストがそばまでやって来ると同時に、背後でがれきの崩れる大きな音を聞いた。


(ネイロンさん……!)


 腕を強く持ち上げられ、マーティは顔を上げた。

 険しい顔つきのオーグストが、自分を見下ろしている。


「足を治療できるか」


 マーティは自分の足を見た。

 手首から先は動かないし、のろのろと治療したところで、どうなるものでもない。


「……できるわけないだろ」


 マーティは肉親の死を目の当たりにして自暴自棄になっていた。

 足も動かないうえ、スフェルを残して逃げる気もない。


 オーグストが口を開いたそのとき、闇の魔物の身体がマーティとオーグストを払いのけた。


 遠くへ飛ばされ、マーティはこのまま目を瞑ってしまいたくなる。

 それが、楽になる唯一の道のように感じた。



 不意に感情のない闇の声が聞こえ、粘着質な音が鳴る。

 それは、どこか咀嚼音にも似ていた。


 ――まさか。


 マーティが顔を上げると、スフェルに覆いかぶさる魔王の繭がいた。



「――このクソ野郎が!! スフェルに……触れるな……!」


 マーティが、這いずりながらスフェルに腕を伸ばす。

 だらりと下がった自分の手に、マーティは痛みすら忘れて、呻いた。


 なんでだよ。俺は選ばれたんだろ、勇者として。

 ――勇者だったら魔王を倒す魔法のひとつくらい、使えよ雑魚!


 マーティは利き腕の手首を治療する。

 まだ血は滲んでいたが、そのまま取り落とした聖剣を掴んだ。



 残った力を振り絞り、聖剣を魔王の繭に投げつける。

 聖なる力が宿った剣であれば、それに傷を負わせることが可能なのではないかと期待した。


 最後の希望だった。



 しかし、それは霧のような身体をすり抜けるだけだった。

 ガシャン、と、音をたてながら、剣が虚しく床に落ちる。


 腱を切られて動くことができない。

 仲間がいなければ、自分は、なにもできない。


 いやというほど理解したマーティは、遠くに投げ飛ばされたオーグストを探し、彼が扉の近くにいることに気づいた。

 彼は傷を負った状態で、マーティを見ている。


「……ごめんな、オーグスト。お礼するのは、無理みたいだ……」


 オーグストには聞こえないほど小さな声でつぶやく。

 絶望と恐怖で麻痺した思考の中、マーティは自然と笑った。


(――逃げろ)


 マーティは唇を動かして、オーグストに伝える。


 もともと、彼はこの旅に無関係だ。

 この凄惨な事態に彼を巻き込むわけにはいかない。

 彼ほどの力があれば、カルレイヴへ逃げることも可能だろう。


 マーティは、うつむいた。もう、なにも見たくなかった。


 ねばついた音が止み、凍りつくような低い囁きが鼓膜に響き渡る。

 魔物は、いったいどんな残酷な言葉を口にしているのだろう。


 ――闇が、来る。


 マーティが目を瞑ったそのとき、なにかがバチリと音をたてた。

 驚いて顔を上げたマーティの目に入ったのは、オーグストの背中と、彼が生み出した電気の魔法だ。


(なんで……?)


 しかし、魔王の繭はものともしなかった。

 マーティを庇うように前へ出たオーグストだったが、次の瞬間には、魔王の繭は部位を槍のように尖らせ、彼の胸を貫いていた。


「――なんで……」


 オーグストは膝をつきながらも、マーティを守るように動かない。愕然としたあと、マーティは駄々をこねるように頭を振った。


「だめだ。なんでだよ、オーグスト。……なんで! 俺を置いて逃げればよかっただろ!!」


 ――動けない俺を庇うなんて、合理的なオーグストらしくないだろ。


 オーグストの胸からは、絶え間なく血が流れている。マーティは手を伸ばすが、彼はマーティに治療をさせる気がないようだった。


「なあ、なんでだよ……。俺のことなんて……どうでもいいだろ……」


 尻すぼみになりながらマーティがそう言うと、オーグストが、ゆっくりと振り向いた。

 その真剣な表情に、マーティは口を閉ざす。



 ――なんて顔で、俺を見るんだ。

 絶望的な状況にもかかわらず、マーティはオーグストから目を逸らせなかった。



 オーグストに対して、散々逃げろと言ったが、本心は、オーグストに行ってほしくなかった。


 動かなくなった兄を見ながらひとり息絶えるのは想像するだけでも恐ろしいことだ。



 本当のオーグストは人に無関心なわけじゃない。

 皮肉屋で、人に突っかかることに精力的な、嫌味で、偉そうで……いいやつだ。


 オーグストがいるのは、この絶望的な事態の中で、せめてもの救いだった。


 魔王の繭は、この状況を愉しむようにオーグストとマーティに近づいてきている。

 闇の存在を前に、人間は脆いものだった。


 闇が、オーグストとマーティに襲いかかる。

 それはマーティの見た最期の記憶だった。

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