第16話 あたしも、ここにいるよ
夕方。学校から帰ってきた陽斗は、制服のままダンジョン用の荷物を確認していた。
「……あれ、プニは?」
呼んでも反応がない。リビングにも、階段にも、陽斗の部屋にもいない。
「……ダンジョンに行ったのか?」
いつもなら、帰ってきた時に勝手に飛び出してくるはずなのに──今日は、いない。
「……仕方ない。見に行くか」
夕食前までに帰るつもりで、物置へと向かう。
ギィ、と扉を開けると、ダンジョン独特の冷たい空気が肌を撫でた。
「どこまで行ったんだ、あいつ……」
軽く息を吐いて、足を踏み入れる。
ひんやりとした空気が足元から這い上がってきて、すぐに外との違いが分かる。
少し歩いたところで、前方の影が動いた。
──種馬。
緑色の肌、短くたくましい手足、発達した下半身。
繁殖の役目を与えられたゴブリンの♂。ここ数日で完全に慣れてきた存在だ。
だが、今日の種馬は──いつもと違った。
今日はやけに落ち着きがない。行ったり来たりで、時折こちらを見ては止まる、を繰り返している。
「どうした、今日はやけに静かじゃないか」
問いかけても、当然返事はない。けれど──種馬は、落ち着かない様子でその場を行ったり来たりしたかと思えば、ふいに陽斗の方をじっと見つめてきた。
視線の意味なんて、分かるはずもない。ただ──あの目は、何かを訴えているように見えた。
まるで「ここじゃない」「早く来てくれ」とでも言いたげな、妙な緊張が宿っていた。
「……何があった?」
陽斗は小さく息をつき、視線を種馬の奥へと移した。
“普段と違う”だけじゃ済まない。直感が、そう告げていた。
「……なんだったんだ」
結局、陽斗には理由がわからなかった。
ただ、プニが来ているとしたら──あいつにしかわからない“何か”が起きているのかもしれない。
「とりあえず、♀を探すか」
陽斗は進行を再開する。
ダンジョンの深部へ。プニを見つけるためにも、今日は少し先まで足を延ばすつもりだった。
数分後── 角を曲がった、その先で──時間が止まった。
そこにいたのは、跳ねるような丸い影──プニ。
そして、そのすぐ後ろに立ち尽くす制服姿。
──
「……美咲?」
通路の中で、お互いの姿がぴたりと止まった。
名を呼んだ瞬間、全身の血が冷えた気がした。
あまりにも想定外で、理解が追いつかない。
なんで。どうして──そこに、おまえがいる。
美咲もまた、陽斗を見つめ返していた。
けれど、目を逸らさなかった。ただ静かに、何かを確かめるように。
互いの間にあるのは、言葉では埋められない沈黙。その重さに、空気までもが緊張していく。
ほんの一秒にも満たないはずなのに──永遠に近い時間のように、何も動かなかった。
「……兄さん」
先に破ったのは、美咲だった。声は小さい。でもはっきりと聞こえた。
強がっているように見えたその顔は、けれどどこか泣きそうだった。
震えが混じったその声に、陽斗の心がわずかに揺れる。
──ぽよん。
そのとき、プニが跳ねた。境界線のように、ふたりの間に。まるで、繋ごうとするかのように。
陽斗はゆっくりと数歩だけ前へ出た。
慎重に距離を詰める。何も言わず、ただ視線を合わせる。
問い詰めるべきか、それとも黙って受け止めるべきか──
けれど、答えは美咲のほうから出てきた。
「勝手に入って、ごめん。でも、あたし──」
そこまで言って、美咲は言葉を飲み込んだ。
唇をかすかに噛み、視線を落とす。
陽斗は、それ以上を問わなかった。
「……説明は、あとでいい」
くるりと背を向け、歩き出す。
視線は前方。心を殺して進む。
いまは感情よりも、やるべきことがある。
「とにかく……ここがどういう場所か、分かってるな?」
背を向けたまま、静かに告げる。
美咲の返事はなかった。けれど、すぐあとにわずかな気配。
彼女は、小さく──でも確かに頷いた。
ぽよん。
プニが一つ跳ねた。それは、まるで“了承”の印のようで。
しばらく進むと通路の先。空気がざわめいた──
「……3体。野良のゴブリンだ」
陽斗が、低く告げた。声に力がこもる。
次の瞬間、通路の奥に、影が3つ。粗く、耳障りな咆哮が重なるように響き、岩肌の向こうから現れた。
「下がれ、美咲。来るぞ」
陽斗の手が腰のバットに触れた、そのとき──
「《ファイア・バレット》──!!」
美咲の声が空間を裂いた。
瞬間、目の前に浮かんだのは、赤く光る三つの魔法陣。そこから解き放たれたのは、鋭く圧縮された“炎の弾丸”。
ギィン、と空気が震える。
火薬の爆発に似た音が鳴り、轟音とともに3発の火球が一直線に走る。
ドン──!! ドン!! ドンッ!!!
爆発のような熱風が通路を揺らした。
ゴブリンたちは、その瞬間すら理解できないまま、火に呑まれ──焼き尽くされる。
──静寂。
焦げた匂いと、微かな煙だけが、後に残った。
転がる黒焦げの肉体の傍に、光を放つ魔石がぽつり、ぽつりと転がる。
「……やったよ、兄さん」
息を切らしながら、美咲が一歩前へ出る。
揺れる制服の裾、汗が額に滲んでいたが、目だけは強かった。
陽斗はその横顔を見つめ──わずかに目を見開いた。
「……まさか。スキル、か」
ぽよん、とプニが跳ねた。美咲の足元にぴたりと寄り添い、その身体を誇らしげに揺らす。
“あたしも、隣に立てる”
まだ、足は震えていた。
(この力があれば、もう──)
通路に沈黙が戻る。転がる魔石3つ。
「……魔石、3つ。一瞬だったな」
ぽつりと呟きながら、陽斗は近づいてそれらを拾い上げる。
横で、肩で息をする美咲が一歩下がって背中を壁につけた。
「──やりすぎ、だった?」
ふと、不安そうに顔を上げる。けれど陽斗は、首を横に振った。
「いや。完璧だったよ。……助かった」
「……そ」
素っ気なく返したつもりなのに、美咲の表情はわずかに和らいでいた。
「さっきの、火の魔法。美咲スキルだよな?」
「《賢者(レベル1)》って、頭の中に……」
その言葉に、陽斗は眉をひそめる。
「……聞いたことないな。そのスキル。というか、“賢者”って……」
魔法職っぽい名称だとは思った。けれど、具体的な内容は分からない。少なくとも、陽斗がこれまで見聞きした探索者のスキル一覧にはなかった。
「……あたしにも、よく分かんない。でも……なんとなく、使えるって分かるの。火も、水も、風も、雷も……それに、光と闇も」
「……7属性か。まさか、そんなに──」
陽斗がぽつりとこぼす。
スキル名も内容も分からないのに、初戦であの威力。
まだ詳しいことは分からない──でも、無視できる類の力じゃなかった。
「多分だけど、それぞれ“撃ち出す感じ”を意識すると、詠唱できると思うの」
「……さっきの魔法は?」
陽斗が問いかけると、美咲は少し得意げに答える。
「……3体いたから“3発で仕留める”って、なんとなく思ったの」
少し得意げに、美咲がそう言った。
「それで、《ファイア・バレット》を3つ同時に──って、イメージしたらできた。」
「三発同時に、か……」
陽斗は目を細めて、美咲を見やる。
「……フツー、そんなにうまくいかねーって」
その言葉に、美咲はちょっと胸を張る。
鼻先でふん、と鳴らす仕草に、ぽよんとプニが陽斗の足元をひと跳ねして、くるりとまわった。
「ねぇ兄さん。《賢者》って、やっぱ強いの?」
「……強いっていうか、戦闘でも探索でも使えるし、けっこう応用もきくんだよな」
「へぇ〜……じゃあ、レアってこと?」
「レベル1であれは……ちょっと強すぎじゃないか?」
「たぶん超がつくほどな。特に“レベル1”ってのは聞いたことないし」
「ふふん♪」
分かりやすく鼻を鳴らす美咲。その表情には、隠しきれない自信が滲んでいた。
陽斗はそんな様子をちらりと見てから、すぐに前を向いて歩き出す。
(……強くなった、な。美咲)
「……今日は、ここで戻るぞ」
「えっ、もう? あたしまだ──」
「魔法使ったばっかだろ。……ちょっと休んどけって」
「え、もう終わり? 魔石だけでも──」
「拾っといた。はい、これで文句なし」
「ちょ、勝手に! ……なんかムカつくんだけど」
口を尖らせつつも、美咲は素直に陽斗の隣へ並ぶ。
ぽよん、とプニが後ろからついてきた。その跳ね方が、なんとなく誇らしげで。
──こうして、ふたりは“初めて同じ道を引き返す”。
息の合った歩幅。隣で響く足音。
いまだけは、同じ地面を踏みしめてるって、はっきり分かる。
──ちょっとだけ、距離が縮まった。そんな気がした。
ぽよん、とプニが跳ねる音が響く。
ふたり並んで、ダンジョンの出口へ向かう帰り道──
「……ねぇ、兄さん」
美咲がぽつりと口を開いた。
「どうする? あたし、ダンジョンに入っちゃったわけだけど……家族には、なんて言えばいいの?」
「……」
陽斗は一拍置いて、足を止めた。
「ぜんぶ黙ってればいい、別に言う必要ないだろ。」
「……やっぱ、それしかないよね」
気まずそうに笑う美咲。
けれどその顔には、どこか吹っ切れたような強さも宿っていた。
「どうせ、バレたって“あたしが悪い”ってことにしかならないし。だったら──」
「俺が庇うよ」
「……え?」
「その時は俺が、“人手が足りないから手伝わせた”ってことにする。それくらいの嘘ならつけるから」
「……ばか」
ふいに視線をそらす。
けれど、ほんの少しだけ頬が赤くなっているのが見えた。
「ふふっ。……やっぱ、ちょっと嬉しいかも」
美咲はそう言って、前を向く。
“兄の隣に立てる自分”を、少しだけ誇らしく感じながら。
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