トラベラー
衣ノ揚
トラベラー
県外での受験を終え、春からの寮生活に向けて引っ越しの準備をしていた。
「はあ……」
ヒンヤリした床に寝そべって、換気に開けた窓と、揺れるカーテンを眺めてため息をつく。
引き出しもタンスもからっぽにしてみたら、買ってきたダンボールだけでは到底足りないことに気がついてしまった。
グズグズしていてもしょうがない。とりあえず、もう着なさそうな服をフリマアプリに出品することにした。この機会を逃したら、次いつ断捨離できるか分からない。
そうとなれば、さっそく出品の準備だ。服のシワをなるべくなくそうと、手で
5着ほど出品したところで、僕は、立ったり座ったりで疲れてしまった。少しだけ、と思いベッドに寝転がると、その瞬間悟る。あー、こりゃしばらく起き上がれない。
休憩タイムということにして、スマホのロックを解除した。せっかくだから、他の人が何を出品しているか見てみようと思った。
流し見していると、テーブルなんて、案外大きいものも売られていて驚く。どうやって輸送するのだろう。他にも、ぬいぐるみ、靴、ベビーカー、話題のカップ麺……
「あれ、なにこれ」
ふと、見慣れないものが目に留まった。用途はよく分からないが、何かリモコンのように見える。フードコートでもらう、不快な音が鳴るアレみたいなサイズ感で、ボタンはたったの2つだけ。一体何を操作するのだろうと思って、引き込まれるように説明を読んだ。
『人生再生プレイヤー!!現実世界で、動画サイトみたいに字幕、一時停止の機能が使えたら……なんて、思ったことはありませんか?そんなあなたのためのグッズです!!』
はあ、怪しい。見るから〜に怪しい。”返品不可”とも書いてある。誰が買うんだ、こんなもの。嘘をつくにしても、もう少し頑張れるはずだ。今どき、小学生でも意外とリテラシーあるんだぞ。
ちなみに、値段は……3円!?この人は何のためにこんなことしてるの?!でも、まあ、
「………3円か……」
たった3円なら、たとえ届くのがただのゴミだろうと許せる、気がする。何より、胸の奥底からふつふつと湧き上がる好奇心を無視できなかった。
少し悩んだが、僕はついに購入ボタンを押した。それからやっと重い体を持ち上げ起き上がり、また洋服の出品作業を再開した。
空気が冬の余韻で乾いているから、異常に喉の乾く日だった。
翌朝、例の
カチカチカチカチ……
カッターを使うのは久しぶりだ。少し手こずりながら、勉強机の上に置いたダンボールを開封する。僕は、こういう、個人から物を買うのは初めてだ。自分でも気分が高揚しているのが分かった。
プチプチに丁寧に包まれたそれは、写真で見た通りのものだった。カッターの刃を仕舞い、届いた物をじっと見つめる。束ねた名刺のような大きさをしており、色は灰色。並ぶ2つの丸いボタンには、ccと書かれているものと、四角形が書かれているものがある。
僕は特に何も考えず、ひとまず左のccのボタンを押してみた。
「……」
何も起こらない。音さえ鳴らない。
……いや、分かってたけどね。分かってたさ。
それでも、だんだん後悔の念に駆られはじめた。この、人生再生プレイヤーとかいうのが、僕を嘲笑っているような気さえしてきた。ほんとに、なんでこんなに一ミリも役に立たないものを買ってしまったのだろう。
「はぁ……」
本日2回目のため息のあと、僕はそれをそっとそっと勉強机に置き、母さんに見つからないようダンボールや包装材を片付けた。証拠隠滅、証拠隠滅。
さて、過去の失敗は忘れて、気晴らしに映画でも観ることにしよう。僕はベッドに寝そべった。観たいと思っていたら、いつの間にか会員特典で観れるようになっていたものがある。タブレットから映画を選択し、下から飲み物も持ってきて、準備は万端だ。
なのに、弱り目に祟り目。映画が始まった直後、僕は違和感に気がついて、映画どころではなくなってしまった。
日本語の字幕が、2つ重なって見えたのだ。
タブレットがバグってしまったのかと思った。2つのうち1つは、正常に僕のタブレット画面に表示されている。問題なのは、もう1つの方。こいつは、明らかにタブレットからはみ出している。というか、タブレットの手前にあるように見えるな。
……あれ、これ、浮いてる?
僕は宙に浮いた乳白色に恐る恐る手を伸ばし、その字幕を掴もうとした。でも、僕の手は湯気に触れただけのように貫通した。温かさも冷たさも感じない。
驚いて、怖くなって、喉から
サイドテーブルに置いてあるソーダを一口のんで、冷静になろうと努力した。目を瞑り、眉間を摘んで考える。
う〜ん、きっと見間違いだ!
それからそっと目を開ける。再生され続ける映画の音声に対応し、空中の字幕はうつり変わっていた。
ふー……。理解が追いつかない緊急事態。することはひとつ。絶叫。
小1時間かけて、上がっていた息が落ち着き、鼻呼吸ができるようになった。冷静になってみて、分かったことがある。心当たりはひとつしかない。
どうやらこれはあのリモコンのせいらしい。僕だって信じ難いが、出品者の書いていたことは嘘偽りなかった。機能は本物だったのだ。
流石にやばすぎる……。出品者は未来から来た猫型ロボットか何かなんだろうか。機能が本物なら、なんで3円なんかで手放したのか。このあと僕捕まったりする?これって何らかの法に触れる?
聞きたいことしかないので、フリマアプリを開いて、問い合わせようとした。しかし、出品者のアカウントはすでに削除されていた。
どうしようもなくなった僕は、ただリモコンのボタンをカチャカチャいじっていた。字幕ボタンを押すと音声が文字起こしされ、外国語は日本語訳に。再び押せば元の言語のまま、さらに押せば非表示になる。
試しに帰宅した母に、声をかけてみたりもした。
「お、おかえり」
「?……ただいま」
思った通り、母の話していることがすべて可視化された。あと、僕が見えている字幕は、母には見えていないようだった。
凄いものを手に入れてしまった…!
これからは日本語対応してない洋画も楽しめるし、人の言葉が聞き取れないこともないと思うと、ワクワクしてきた。
一時停止機能のボタンも正常に作動した。自室でボタンを押してみると、僕の部屋は案外いろんな音で溢れていたと実感した。エアコンが動く音がしなくなるだけで、なんだか恐ろしいくらい静かなのだなと思った。
台所まで行ってみると、母は野菜に包丁を入れた状態で完全に停止し、呼吸さえしていなかった。よくできた彫刻のようだった。
興味はあるが、母の前で時間の流れを再開させてしまうと、僕が瞬間移動したみたいになって驚かせてしまう。騒がれるとなにかと面倒なので、自室に戻ってからまたボタンを押した。
家に放置し母に見つかるのを恐れた僕は、常に人生再生プレイヤーをポケットの中に入れていた。
とはいえ、一時停止なんかは、いつでもどこでも使えるという訳ではない。時間を止める前と再開した後とで全く同じ場所で全く同じポーズを取ることは不可能だ。人前で使ったりなんかしたら、必ず不審に映ってしまうだろう。
代わりに、日曜日の夜はよく一時停止をした。周りの人間は皆停止し、時計の針や落下中の桜の花びらさえも運動を止める。僕だけが唯一この世界で動くことができた。長時間寝てみたり、本を読んだり、映画観たり。あのプレイヤーのおかげで、僕は以前まで感じていた、週末の時間を有効に使えなかったことによる後悔や焦燥感を感じることがなくなった。
なんて便利、なんて素敵。出品者がこれを手放した理由が謎なくらいだ。出品したのがこれの開発者なら、量産に成功し、1つくらい手放しても困ったりしないのかもしれないな。にしても3円で売るなんて、おかしな話だ。
まあ、そんなことはどうでもいい。これを手にしてから、僕は生活の中でぐ〜んと失敗することが減って、幸せでしかたなかった。これ以上望むことはない。
引越しが終わり、高校に進学した。
僕は一時停止する時間を少しずつ延ばしていった。時間停止中、時計は動かず、日も月も沈まないので確かではないが、3日、いや、1週間くらい時間を止めていることもあっただろう。
僕は高校で勉強をそつなくこなす事ができた。足を引っ張っていた数学とも、徐々に和解している。これは、時間を止めて勉強を先取りした
これが手に入ってから約4ヶ月。昨日から夏休みになり、自宅に帰ってきたが、お母さんは朝すっと起きれるようになった僕を褒めてくれた。実際は時間を止めてスヌーズしているだけなのだが。
土曜日の夜、ちょうど日付が変わる瞬間、僕が懐かしの机で夏課題のレポートを書いていると、人生再生プレイヤーが突如振動を始めた。初めてのことで、壊れてしまうのではないかと思って焦った。震えが始まってから程なくして、勝手に目の前に字幕が表示されはじめた。おかしい、本当に壊れてしまったのだろうか。
『本日は時間回収期日です。24時間以内にお支払いください。』
目の前の字幕を読む。
「時間回収期日……?」
『ご存知ないようですので、ご説明致します。』
僕の声が聞こえているのか、姿が見えているのか、続けて文章が表示されていく。
『あなたが使っていた時間は、我々が貸したもので、返却が必要です。』
「そんなっ、聞いてないよ!……てかお前誰だよ!開発者がコンタクト取ってきてるのか?」
『借りたものは返す、当たり前のことではありませんか?時間が無から生まれるものとでも思ったんですか?とんだお笑い草ですね。ワタシはこの人生再生プレイヤーの開発者ではありません。その人に作られたソフトウェアのようなものです。』
人工知能の類なのだろうか。まるで自我があるように癪に障る性格をしている。きっと開発者も相当性格が悪いに違いない。
「……じゃあその、人生再生プレイヤーの中の人、僕はどうしたら?」
『以下の2つの選択肢からお選び頂くことができます。
①何もない無の空間で、借りた時間が経過するのをひたすら待つ。時間が経てば、また日常生活を送ることができます。
②借りた時間分、歳をとる。』
「……2番がいいな、1番に比べたらラクそうだ。ちなみに、返さなきゃいけない時間は何日くらい?」
『約10年になります。』
「ジュウネン…?」
『10年歳をとる、でよろしいですか?』
「ちょっとまってまってまって!全然よろしくないです!1番!1番にします!」
『飲食の提供はないので、10年なら確実に飢え死にします。』
「今のナシ!嘘つきましたごめんなさい!!…………てか、この4ヶ月で10年も時間を止めたなんて……流石にあり得ない!騙されないぞ」
『そうですね、あなたが一時停止していた期間は半年にも満ちません。』
「じゃあなんで?」
『話せば長くなりますが、あなたがフリマアプリでワタシを購入したときの出品者や、その人にワタシを譲った人、更にその人に売った人……彼らの使った時間の合計が10年なのです。彼らは、私がお知らせして、回収期限の存在を知る度に人生再生プレイヤーを他人に譲りました。』
「……それって、僕が全部払わないといけないの?」
『期日中に"その時点での持ち主"が支払うのが原則です。』
持ち主が……そうか。
「つまり、僕が今日中にお前を他人に譲って、持ち主が変われば、僕が10年無の空間で耐える必要はないってことね!」
まだ何とかなるかもしれないという希望が見えてきた。
『その通りではありますが、大丈夫ですか。フリマアプリで販売して購入者に届けるには時間が足りない可能性があります。』
正論を食らって、額から汗がどわっと出た。
「………………一時停止して考えてもいい?」
『残念ながら、それはルール上不可能です。期日中は時間を借りることはできません。』
「先に言ってよ!後出しじゃん!?頼むよ!どうにかしてよ!理不尽だ!僕悪くなくない?!」
『駄々を捏ねるより、なすりつけるなら、早くなすり付けたほうが良いと思います。』
「くそおおお!!!」
生意気だが怒っている暇も惜しい。とりあえず、中の人が言う通り、僕がこれを24時間以内にフリマアプリで売るのは現実的じゃないのは確かだ。
「輸送中の所有権ってどっち?」
『触れた際に所有権が移ります。つまり、あなたです。』
輸送の時間も考えると、ますます難しそうだ。
頭を抱えていると、誰かが階段を上がってくる音がした。スリッパのペタペタした一定のリズムの足音、母だ。僕は急いで人生再生プレイヤーをベッドの下へとすべらせる。相変わらず、母がノックと同時に部屋に入ってくる。だからそれ、ノックの意味ない。
「さっきから騒がしいけど、なにしてんの?」
「いや、ちょっと、YouTubeの雑談配信を流しながら、本棚の整理を…もう終わった」
「はよねんさいよ。そういうのは昼にしなさい」
バタンッ
母はさっさとドアを閉めて部屋を出ていった。
その時、僕の頭に最低な考えがよぎる。
もういっそ母に押し付けてしまおうか。大人だし、ちょっと老けたな程度で済むのでは?いや、母は最終手段だ。知り合いに渡すのはハードルが高い。すぐに僕の仕業だとバレてしまうだろう。
人混みにでも行ってその辺の人に「これちょっと持ってください!」って手渡ししてしまう方がマシだろう 。足は早い方ではないが、人混みの中なら追いかけられても逃げ切れるかもしれない。
近頃、一時停止に慣れまくっていた僕は、物事を短時間に判断する力が弱ってきているようで、半ばヤケクソだった。
しかし、深夜のこんな時間に人がたくさん集まっている場所はここらにはそうそうない。
かの見た目は子供、頭脳は大人な少年名探偵がいれば、喜んで受け取ってくれるのになぁと思いながら、現時点で、僕にできることはもうない。寝ることにした。睡眠大事。起きてから考えよう。
「行ってきまーす」
「行ってらっしゃ〜い、勉強頑張ってね」
図書館で勉強するという嘘の口実で家を出た。本日起きたのは朝9時。この時点で、タイムリミットまであと15時間。さすがに呑気に寝すぎた。時間が待ってくれなかったので、今日の朝はいつものように早起きできなかったのだ。
母に体調が悪いのではないかと心配されてしまったので、夜更かししてしまっただけだと誤魔化した。朝食のフレンチトーストを食べて9時半に家を出た。
運動不足で、スニーカーのつま先がアスファルトに突っかかる。上りはともかく下りはそこまで疲れない。行きはよいよい帰りは怖い。マンホールを避け、転ばないようにだけ気をつけつつ、でもできるだけ急ぎ足で坂を下った。
最寄り駅からアストラムラインに乗り込む。アストラムラインは、コンクリートの走行路を走る電車だ。県庁前駅で降り、徒歩で数分、SOGOに着いた。エスカレーターで地下の食品売り場へと降りる。人がいっぱいいる場所といえば休日のデパートの地下だろう。
フラフラ歩きながら、鳥肌がたっていることに気がついた。意識すればするほど怖くなる。鼓動が早く、胃を誰かに揉まれているような気持ち悪さがあった。
僕はこれから人に10年もの時間を押し付ける。絶対なんかの法律に引っかかる。
僕だってこんなことやりたくない。けど、僕が今まで蓄積してきたもの全て崩れてしまうことほど恐ろしいものはない。今までの人もそうして人に押し付けてきたのだから、僕も同じことをするのはおかしくないはずだ。
僕は、何も知らなかった被害者だから、仕方がないじゃないかと、誰に対してか分からないが許しを乞い続けていた。
ドンッ
俯きながら歩いて、よく前を見ていなかったため、人にぶつかってしまった。そうだ、もう、この人にしてしまおう。僕はポケットから人生再生プレイヤーを取り出した。
「すみません、少しこれ持っててく……あっ」
目に入った相手のジャージの胸元に印字された苗字を見てまさか、と思った。罪悪感から直視できなかった相手の顔をおそるおそる見てみると、期待に反して予想が当たり、そいつは見知った中学校の同級生だった。数少ない僕の友人と言ってもいいかもしれない。
「おー、久しぶり!なに?これ持ってればいい感じ?」
僕は急いで手を引っ込めた。
「…あ、いや。か、返して。間違えた。」
友人は眉間に皺を寄せて僕を見下ろした。
「なんだよそのリモコンみたいなの。ここで何してんの?」
僕はまるでベテラン警察官に尋問をされているかのように、追い詰められて、滝汗が出た。
「いや、お前だとは思わなくて、まじでその、やべ、どうしよ」
頭の中がグルグル回る。かつてない緊急事態に、いい答えも行動も思い浮かばない。
「……おいお前相当顔色悪いぞ。大丈夫かよ、相談ならのってやれるから、とりあえず場所変えるぞ」
パニックになった僕は友人に若干強引に押されて、その辺の喫茶店に入った。店は空いていて、僕たちは待つことなく4人がけのソファ席に通された。友人は、さあ話せさあ話せとうるさい。僕は話すのを
「ほんとバカだなー、なんでそんな怪しいもの買うかなぁ。ほんとにバカ。」
『全くもってその通りです。』
説明のために取り出した人生再生プレイヤーの中の人と友人は、いつの間にか意気投合して僕抜きで盛り上がっている。
中の人の言葉や字幕は、プレイヤーに触れた所有者だけに表示される。僕と友人は同時にタッチすることで、中の人の言葉の共有に成功していた。
「返す言葉もないわ……他の人には黙っててほしい、奢るから」
僕がそう言った途端、友人は牛肉の乗ったオムライスをLサイズで注文した。……食べ切れるのだろうか。
『人間はおこがましいのです。借りたものは、きちんと返すべきなのです。』
中の人は熱弁している。機体が熱くなって湯気さえ上がっているように見える。
友人は中の人の話にうんうんと相槌を打ちながら言った。
「ほんとそう。君の言う通り。……でもさぁ、こいつが返しても、残りの9年半使った人たちは、返さなくていいってことなんだよな?それって、君の信条に反するんじゃないの?」
『……一理あります。』
おっと、まさかの友人が優勢らしい。財布の中身を確認していて話をあまり追えていなかったが、どうやら友人は中の人を説得しようとしてくれているらしい。
僕は余計な口を挟まない方がいいと判断し、黙っていることにした。友人は、運ばれてきたオムライスを自慢げに一口ほおばり、バニラアイスも注文した。
オムライスはSサイズでもかなりボリュームがあり、Lは人が平らげられる量とは思えない。本当に食べ切れるのだろうか。
『しかし、ワタシを説得してもどうしようもありません。ワタシは所詮案内用のソフトウェアです。』
「いいんだ。俺のお願いは、君に俺たちを開発者のところに連れてってもらうこと。その人ならどうにかできる、かもしれないだろ?」
『なるほど。』
僕は心の中で手を打った。それがあったか。中の人は珍しく少し考えてから続けてこうレスポンスした。
『ワタシとしても、罰は全ての人に平等に受けて頂きたい……やむを得ません。博士のところへ連れて行って差し上げます。』
どうやら僕も罰を受けることは確定らしいが、減軽が望めるのは喜ばしい。僕はここまで友人を頼もしいと感じたことはなかったし、感謝したこともなかった。
そうとなれば、すぐにでも出発したいところだ。友人はまだ食事中かなと目をやると、驚くべきことに既に皿はピカピカだった。ソースが少しもついてついていない。
「……お前、はしたないぞ。皿舐めただろ」
「そんな訳ないだろっ!お前!お前ほんとに反省しろよ!」
友人が立ち上がって怒号を上げたところで、アイスが運ばれてきた。店員さんは見るからに気まずそうな顔をしている。友人は真っ赤になって俯いてしまった。そのまま流れるように着席し、ゴホンッと咳払いをする。
「とにかく、善は急げだ!早く行こう」
その場を今すぐ立ち去りたくなった友人はそう言って、ディッシャーでひと
「…ぁったまぃたぃ…」
あんまりか細い声で言うものだから笑ってしまった。
いざ開発者の元へ。僕たちは路面電車に乗り込んだ。深緑色のレトロなものも走っていたが、僕たちが乗ったのはミントグリーンで丸っこいどこか近未来感のあるタイプ。路面電車が車と並んで信号待ちをする光景を見るのが、僕は好きだ。
「思ったより遠いな…」
「そうか?俺は海外じゃないだけマシだと思うけど……カラアゲうまっ」
僕の記憶が正しければ友人はちょっと前まで特大オムライスとアイスをむしゃむしゃ食べていたのだが、あろうことか友人はいま、隣で嬉しそうに駅弁を食べている。
現在お昼の12時。タイムリミットまであと半日だ。僕たちは新幹線に乗って広島駅から新横浜に向かっている。
当日の直前に、そう簡単にチケットが買える訳が無いと思って身構えていたから拍子抜けした。
「お前、案外良い奴だったんだなぁ」
「悪いな、褒めてもカラアゲは全部俺のもんだ」
「要らねぇよ。……中学生の時はもっと冷たい奴だった気がして」
友人は要領の良い奴だ。無駄なことはズルしてごまかしつつ、必要なところは自主的に勉強する。陸上部で文武両道。教員の懐に入り込むのも上手かった。地頭も絶対にいいタイプだが、努力で実力もゴリゴリに身につけてきたのだろう。
やれと言われたことだけを、ただがむしゃらにやってきた僕にとって、友人は僕の憧れでもあったし、妬みの対象でもあった。自分のやり方が拙いのに苦しむと同時に、友人のようになりたいと思っていた。
効率化を重視し、効果的なことをやり続ける。そんなコイツが、なぜ僕を助けてくれるのか。もう、ここには先生はいないのに。
「なんで僕のこと無条件に助けんの?あんまりナチュラルに着いてくるから気が付かなかったけど、わざわざ横浜まで一緒に行かなくてもいいし……」
友人は僕を鼻で笑った。
「お前は相変わらずうだうだしてんなぁ。少しは俺の事信用してくれてもいいじゃん?」
その張り付いた笑顔が嫌いだった。思うことがあるなら、正直に話せばいいのに。
「お前こそ俺のこと信用してないね」
「この話飽きた、対戦ゲームしよ」
「は!お前どうせミーハーだろ、ボコボコにしてや――」
♪ テーテーテーテーテーユーフォ
僕が挑発にのせられそうになったところで着信音がなった。……母さんからだ。
マナーモードにしていて気が付かなかったが、Lメッセージが鬼のように溜まっている。一呼吸置いてからオンフックで電話に出た。
「なんのつもり?!家出?馬鹿げたことしてるんじゃないよ!こっちはね、位置情報で全て分かってるんだから!家のことに色々文句あるのかもしれないけど母さんだってあんたのためを思って毎日毎日」
GPSつけられてるなんて初めて知ったぞ!そういうことをするなら、まず僕の許可を取って欲しい!文句は思いついても言い訳は思いつかず、僕がただ押し黙っていると、隣の友人が貸せと合図してくる。僕は首をブンブン振ったが、友人はいいから!というふうに僕からスマホを奪い取った。
「もしもし、すみません、スマホの持ち主様ですかね〜?」
友人はいつもより低い声で母と話し始めた。
「え、どちらさまですか?」
「私、警察の者でして……」
「けっ警察?!うちの子何かしでかしたんですか?!」
取り乱す母の声が聞こえる。おいおい、何を考えてるんだ。
「いえ、実はですね、今新幹線内で不審な人物の手荷物検査をしたところ、大量のスマホや財布が見つかりましてぇ……どうやらスリだったみたいなんですよぉ。お子さんも被害にあってしまったようですねぇ」
よくもまあこんな嘘がペラペラと言えるものだ。こいつ詐欺師とかになったらいいと思う。いや、詐欺師になるのはよくない。
「そうだったんですか!」
母さんもそう簡単に騙されるな。心配だな。
「スマホの方は次の停車駅から、そちらの最寄りの交番にお届けいたしますので、受け取りに来てくださるとありがたいですぅ」
「分かりました、ありがとうございます。お手数おかけしますが、よろしくお願いします」
音声通話だから姿は見えてないはずなのに、携帯を耳に当ててペコペコとお辞儀をする母の姿が思い浮かぶ。
「いえ、仕事ですので!では、失礼します!」
そういって友人は電話を切った。僕はちょっと感動してしまった。
「お前、すごいな……」
「ふっ、喋りながら全部考えてたけど意外と何とかなったぜ……お前の母ちゃん詐欺とか引っかからないようにちゃんと見といてやるんだぞ。とりあえず、スマホは次の停車駅のロッカーにでも預けろ」
確かに、スマホが横浜まで移動するのは不自然だし、友人は次の停車駅から送ると言ってしまっていた。スマホを手放すのはちょっと不安だが、そうするしか道はない。
「といっても、新幹線ってだいたい何分間駅に止まるんだ?」
友人が調べて、液晶を見ながら答えた。
「例外もあるらしいけど、だいたい1分らしい」
「無理じゃん!!」
1分の間にロッカーに預けて戻ってくるのは流石に難しい。このままだと母さんに叱られる!それどころか、通報されて大騒ぎになる可能性すらある。くそぉ、一時停止がまだ使えたらのんびりできるのに……どうしよう。
「アイハバノーアイデア」
「ミートゥー」
『ワタシに案があります。』
また、僕らの目の前、中の人の文字が表示され始めた。しばらく静かだったので完全に存在を忘れていた。でもそんなことを言ったら怒られてしまうので言わないでおこう。
『口に出ています。失礼ですね、助ける気が失せました。』
「悪かった!ごめん!許して!」
『……後で博士にワタシの大活躍を報告してくれるならいいですよ。』
「もちろん!!盛大に語るので助けてください」
博士に褒められるってのは中の人にとって嬉しいのか。給料とか上がったりするのだろうか。
『いいですか、友人さんがここで帰ればいいんですよ。』
「俺は降りない」
『じゃどうしようもないです。』
無能!友人もなぜそんなに意地を張るんだ!
「まあでも、こいつじゃなくて、次の福山駅で降りる人に託せばいいのか」
それを聞いて友人はため息をついて心底呆れた顔をした。人差し指を立て、チッチと言いながら左右に揺らす。腹立つなコイツ、本当に次で降りろと思った。
「冷静に考えてみろよ。お前だったら、知らない人にこのスマホロッカーに預けてきてください!って言われて引き受けるか?」
僕は即答した。
「まず断るな。犯罪の匂いがする」
「な?もっとマシな策を練ろう。もうロッカーじゃなくていいんじゃないか?その辺に捨てちまえよ」
ぎょっとした。ひょっとして、こいつと僕とでスマホへの価値観が違う?スマホ使い捨てだと思ってる?
「なんてこと言うんだ!他にもっとあるだろ……ほら、反対方向に走る電車の中に投げ入れるとか……」
『正気とは思えません。 そんな器用な真似があなた方にできる訳がありません。ワタシ、もう一案思い浮かびました。コンビニから荷物として送って貰いましょう。』
「それも1分じゃ無理だろ」
話し合いは難航していた。どの案も、あまりに現実的じゃない。だが、議論がまとまらなくとも次の停車駅はどんどん近づいてくる。
もう、最終手段としてスマホをぶっ壊すくらいしかないのだろうか……GPSが仕事しないようにするにはそれくらいしかできない……のか?
「お前一応、人生再生プレイヤーの開発者が作ったソフトウェアなんだろ?スマホの位置情報の偽装とかできないの?」
『できますよ。』
「やっぱそうだよな、他の道探すか……え?!できんの?!今までの会話なんだったの?!」
『しかし、犯罪ですからやりたくないです。あとあなた方の想像するよりずっとハッキングって疲れるんですよ。』
「頼むよ、位置情報を福山駅の交番に設定してください!お願いします!!」
僕は手を合わせて
『あとでワタシにもゲームやらせてくれるならいいですよ。』
助かった……
時刻16時頃。タイムリミットまで約8時間。新横浜に到着した。
ホームに降り立った僕たちの荷物は異様に少なく、周りから少し浮いていた。僕が背負っているのは黒いリュックサックで、友人のなんてせいぜいスマホと財布が入るくらいの紺色ショルダーバッグだ。
お互い、ギリ帰りの新幹線のチケットも買えるくらいのお金はあるが、高校生の自腹の出費にしては結構
僕たちは人生再生プレイヤーから出るホログラムの地図を頼りに歩き始めた。横浜線に乗り、横浜駅へ向かう。横浜に行ける横浜線、名前わかりやすくて大好きだ。ただ、混みすぎ。ミンチになるかと思った。
横浜駅に着く。休日だからなのか人がごった返している。
駅の外に出たくてとりあえず出口を探す。改札を出て、なんとなくで歩いてみると延々と高島屋が続き、信じて突き進むとビックカメラだった。じゃあ逆だ!と引き返す。ルミネや崎陽軒を抜けて階段を降りると、反対側も似たようなお買い物フェスティバルだった。出口が、出口が見つからない……!
疲れてきた。荷物が少ないのが不幸中の幸いだった。外の空気が吸いたい。歩きながら、やっぱりさっきのビックカメラのところから外出れたかも……と思い不安になる。
いや、負けない!僕たちは負けない!と思ってお互いに激励しながら突き進むとなんとか外の光が見えてきた。
「シャバの空気だー!!」
どんどん元気がなくなって、途中ほぼ無言だった友人が大喜びして階段を駆け上がった。僕もそれに続くと、青空が視界に入った。随分と久しぶりな気がする。緑の街路樹が
「それで、ここからどう行けばいい?」
マップを表示していた間喋ることができなかった中の人が言う。
『申し上げにくいのですが、反対方向です。』
僕たちは咽び泣きながら小さな背中で横浜駅の中に戻って行った。
中学校の国語の授業で、取扱説明書を読んだのを思い出した。地図を読む練習もさせて欲しい。いや、それは小学校でやったような気もする。
地図が読めないんじゃない、僕たちには計画性がないんだ。目的地から逆算して出口を探す、当たり前じゃないか。駅こんなにでかいんだから。外出て駅の威圧感にびっくりしたもん。
腹が減っては?腹が減っては戦が〜?としつこく聞いてくる友人を無視しながら
「記憶力に自信のほどは??」
「ZERO」
帰りのことが心配だ。
それにしても、友人も方向音痴なのは意外だった。ほんのちょっとだけ親近感が沸いた。
脱出してから、川沿いを真っ直ぐ行き、大手コンビニと大手学習塾の横を通る。コンビニで友人は肉まん、僕はカレーまんを買った。
そこからは徒歩で、中の人の案内通りに細い道と太い道を何度か通ってレンガの壁の小さな建物の前で止まった。
「研究室とかじゃなくて普通にアパートなんだ」
友人がつぶやく。僕も、もっと大きな研究所を構えているのか思っていた。まあ、やっていることは確実にやばいので、わび住まいしているのかもしれない。
『そうですね。仮の住まいであり、アジトみたいな感じです。博士の出身も、研究所も、横浜ではないんです。』
ふーん、じゃあわざわざ横浜まで何しに来たんだろう。
『行きましょう、博士の部屋は3階の
が、普通に怖い。ただ、ここで友人に代わってもらうほど度胸がない訳じゃない。やるぞ!やる、けど、
「……ねぇ、博士って怖い人じゃないよね?」
「早く押せや」『早く押してください。』
「ひえ〜」
僕は情けない顔をしながら、ビビっているのも隠さず震える手でインターホンを押した。
ピンポーン。
……………………。
沈黙。しばらく待っても応答がない。もう一度押してみるが、やはり返事がない。
『寝ているのかもしれません。』
友人が僕をどけて、ドアノブに手をかけて回した。
「……開いてる」
友人はドアを少し引き、空くことを確認すると、唾を飲んだ。そしてドアを閉めて、僕の後ろに回った。
「よし!行け!GO!」
「この意気地無し!!」
「俺はドアが開くこと確認したじゃねぇか!はい次お前の番」
「ビビってるだけだろうが!」
ギャーギャー言い合っていると、中の人が僕たちを急かした。
『早くしてください。……中から生体反応がありません。』
それってまさか……心肺停止していても経過時間によってはまだ間に合うかもしれない。僕は急いで部屋に入った。
「お邪魔します!!」
ピカピカのキッチンの横、洗面所及びトイレには誰もいない。ズカズカ進み、ベッドのある部屋を見るが、綺麗に片付けられており、物もなければ、人もいない。
カーテンをザッとどかしてガラスの窓を横に引く。ベランダにもいない。あるのは、アロエの鉢だけだ。
良かった、単なる外出中のようだ。それにしても不用心だ。鍵を閉めずに外出するなんて。
「誰もいないみたいだな……おい、これ見ろよ」
後から入ってきた友人が机の上に何かを見つけ、僕を呼ぶ。窓を開けたまま
【おかえり、ヨコハマ】
それは、横浜美術館リニューアルオープン記念展のポスターだった。
電話を掛けるのが手っ取り早いのだが、中の人によると開発者は携帯電話を持っていないらしい。エンジニアなのに?といささか信じられないが、そこが逆に天才っぽい。僕たちは横浜駅に戻り、みなとみらい線に乗って横浜美術館へと向かった。そこには、そうそうこれこれ!よく見る横浜!という街があった。コスモワールドの観覧車、圧倒的存在感のランドマークタワーが見える。ここからは見えない、赤レンガ倉庫にも思いを馳せた。
駅から10分ほど歩くと横浜美術館を見つけることができた。時刻は5時半。美術館は6時には閉まるのだが、5時半には入館ができなくなるため、僕たちは噴水が見えるベンチに座って、開発者が出てくるのを待った。日差しが肌をチクチクと刺す。
「あの人とか、博士っぽいじゃん」
『分厚いレンズの丸メガネで、腰が曲がっていて、白髪で、白い白衣だからといって博士とは限らないですよ。それは偏見です。』
「えぇ〜」
『博士はもっと若いです。美術館なら、カジュアルな服で来ていることが予想されます。ほら今でてきた人みたいな感じ……あ、あれ博士です!』
ここに来て初めて、中の人が感嘆符を使うのを見た。
僕たちが走って近づくと、あちらもこっちに気がついたようだった。赤いアロハシャツに短パンのおじさん……これが博士らしい。
「ちょうど会いたいと思ってたんだ。まさか君たちから会いに来てくれるとは!」
おじさんはニカッと笑って握手の手を差し出した。
僕たちはおじさんのアパートまで案内され、ソファに座るように言われた。先程勝手に入ったことは言わないでおこうと思う。おじさんは卓上のメガネを掛けた。
「まあまあ茶でも飲みなさい。コーヒーの方がいいかね?なんでもあるから、飲みたいものを遠慮せず言いなさい」
「じゃあ、僕ミニッツメイドのアップルで」
「俺ポンジュース」
おじさんはビジネスホテルなどにありがちな冷凍庫のない小さな冷蔵庫に手を突っ込んだかと思うと、僕たちが言った通りのものを2Lペットボトルで出した。たまたまにしては運が良すぎる。まさか本当になんでも出せるのだろうか。
「去年のトリエンナーレも衝撃的だったけど、リニューアルオープンも最高だったなぁ、君たちも是非行きたまえ」
おじさんは紙コップに飲み物を注いで僕たちのローテーブルに置いてくれる。博士はカバンから紅茶のペットボトルを取りだした。友人は冷たく言った。
「俺たちは今日中に帰らなければいけないので」
「そうか……じゃあ早く本題に入るとしよう」
僕はここに来た経緯を説明して、それから説得に挑戦する。
「10年も歳取りたくないです、どうにかならないですか」
「正直、私は相手が誰だろうと関係ないんだが……まあ、世界にとって変化はできるだけ自然で些細な方がいいからね。10年は支払ってもらう。使った人に、使った分だけね」
博士は机の前の椅子を持ってきて僕たちの前に座り、指をパチンと鳴らす。突然足の指先から痺れが体に広がった。痛くはないが、とてつもなく暑い。でも、汗がぶわっと吹き出たのは、恐怖のせいでもある。痺れが頭の先までたどり着いた時、頭の中でシャボン玉がパチンと弾ける音がした。
「大丈夫か?」
友人がこちらを覗き込んでいる。僕はびっくりして咄嗟に声が出なかったのでただ頷いた。今ので本当に半年歳を取ったのか。うーん、鏡もないしあんまり何が変わったかわからないな。
おじさんは些細なことしか起こってないかのように、ただ足をゆっくり組んで唸っている。
「僕も人生再生プレイヤーを世界へ放ったことは後悔していてね……バタフライエフェクトって知っているかい?」
僕は頷く、小説で読んだことがある。
「あれですよね、風が吹けば桶屋が儲かるみたいに、小さな出来事が、最終的に大きな事態を引き起こすっていう」
「そう、その通り。時間をいじるのは禁忌なんだ。実は、時間を止めることで与えられた外部への影響によって、時空難民が大量発生してしまったんだ」
「時空難民?」
友人と僕は首を傾げる。
「タイムパラドックスって言うのかなぁ……」
博士は椅子に深く腰かけて続けた。
「時間の流れの整合性が取れなくなってね。辻褄を合わせるために、この世界から弾き飛ばされて、消えた人間がいるんだよ」
あんまり恐ろしいこと言うので僕は言葉を失った。自分の行動が周りに及ぼした影響をはじめて自覚した。
「やっぱり……」
友人が興奮した様子で立ち上がり、おじさんの話を遮りまくし立てはじめる。
「おかしいと思ったんだ、お前のせいだったんだな」
友人はおじさんの胸ぐらを掴もうとした。
「おい、なんのことだよ」
僕が急に怒り始めた友人を制止しようと脇から腕をを通して固める。
「俺の妹を返せ。1ヶ月前に行方不明になった妹だ……誘拐の線も考えて、警察に捜索願も出した。でも、奇妙なくらいなんの痕跡も見つからなかった!誰も、あの日の妹を見てないんだ。人通りのある時間だったのに!」
友人は捲し立てるように喋っているうちに、声の荒々しさは徐々に落ち着き、最後はまたソファに腰を下ろした。
「調べてみたら、世界中あちこちで不自然に人が消えてる、なあ、お前のせいなんだろ……」
やっと、友人がなぜここまで着いてきてくれたのかが分かった。僕は何も聞かされていなかった。友人は床のタイルを見つめて涙目になっている。それを見て、なんでもっと早く言ってくれなかったんだ、という言葉を飲み込む。今は我慢だ。
「驚いた……約束する、君の妹さんは必ず君のところに送り届けよう」
おじさんは哀れんだ目で友人を見ていた。友人は涙目のまま顔を上げておじさんの方を見る。ブチ切れて睨んでいるのかもしれないし、希望の光を見失わないように一生懸命なのかもしれない。
「この世界には、まだその子の居場所がある。時空難民は皆同じ世界線に寄せ集められている。初めから”いなかったこと”になってしまった者はともかく、行方不明という扱いになっている人達は比較的簡単に送り届けることができる」
「待ってください、居場所のない人達はどうなるんですか」
「それは……これから考える。たとえこの世界線に帰れなくても、できるだけ近い世界線に送り届けるさ。……そんな目で見ないでくれ、私だって胸が痛まない訳じゃない」
おじさんは紅茶を1口含むと立ち上がった。
「機械の回収が済んだことだし、行こうか。送るよ」
てっきり横浜駅に行くのかと思ったが、おじさんは廊下で進行方向を直角に曲げ、向かった先は玄関ではなくバスルームだった。浴室に人間が3人もいるとなかなか狭い。
おじさんは困惑する僕たちに話し始める。
「おうちの人が心配するだろうし、君たちも日が暮れる前に帰りたいだろ?」
「まあな」
友人は一応というように答えた。おじさんは後ろ姿で「そうだろう、そうだろう」と頷いている。
「よし」
おじさんは風呂の蓋を畳んで壁に立てかけた。風呂の中を覗き込んでみると、ミルク風呂か入浴剤か、貼られた水は不透明な白だった。
おじさんは僕たちに浴槽の前から退くように言ってから、頭から浴槽に飛び込んだ。
「!?」
僕は腰を抜かしてその場に座り込む。友人は浴槽に駆け寄った。
変だ。おじさんが底に頭をぶつける音が聞こえなかった。おじさんが浮かび上がってくることもない。
友人は風呂に右腕を突っ込んだ。
「おい!?これ、底がないぞ………うわあっ!」
その瞬間友人が風呂に吸い込まれた。僕も急いで立ち上がり浴槽の縁に手をかけた。白い水は中央で渦を巻いていた。覗いていると、水から勢いよく腕が2本生えてきて僕の頭を掴んだ。しまった!
僕は情けなく叫びながらそのまま引っ張られて渦の中へ真っ逆さまに落ちていった。
恐る恐る目を開けると、目の前に友人とおじさんが立っていた。腕の正体はおじさんだったようだ。先に言ってくれればいいのに、少々手荒いんじゃなかろうか。
初めてのワープはとても不思議な感覚だった。水に突っ込んだような感覚は全く無く、実際服も少しも濡れていなかった。エアコンの効いた部屋で、冷やされた布団にダイブした時のような心地良さだった。
僕は周りを見渡して、言葉を失った。万物が、ごちゃごちゃのぐちゃぐちゃに入り交じっている。意味がわからないと思うけど、それ位以外に言いようがなかった。
チューリップの花畑の中に信号機が乱雑に生えており、線路の上を巨大なヘラクレスオオカブトのメスと立派な牙のマンモスがトコトコ歩いている。空には晴天と夕日の赤や夜の暗闇と星々が同時に存在していた。現実世界じゃありえない、気色の悪い夢のような世界がずっと向こうまで続いている。その光景には、少し力を加えればすぐにでも崩れ落ちてしまいそうな危うさがあった。何がどうなってるんだ……
友人も僕と同じく理解が追いつかないようでアタフタしている。
「人間もいるじゃないか!……なんだアイツ、
僕はこれがさっきおじさんが言っていた、時空難民たちがよせ集められた世界なのではないかと思った。僕がおじさんの方を見あげると、おじさんは「その通り」と言って満足げに笑った。
「ここでは沢山の時空難民の記憶がごちゃごちゃのぐちゃぐちゃに入り交じってる。場所の概念も時間の概念もないから、テレポーテーションにちょうどいいんだよね〜」
「なるほどな、じゃあ俺たち出発時に戻ることもできのか?」
景色に目を奪われてあまりよく話を聞いていない僕の隣で、友人が真面目におじさんと会話をしている。あ、フレンチクルーラー落ちてる……。
「君が自分自身に会った記憶が無いなら、あまりオススメしないよ。下手すると君も難民になるからね」
「……じゃあ、やめておくとしよう。なあ、少し散策してもいいか?」
「もちろん」
友人はそう言うと、僕が食べるか躊躇していたフレンチクルーラーをいとも簡単に拾い上げて一瞬で吸い込んだ。しばらくモグモグしたあと僕の肩を叩いて言った。
「いくぞ」
「Donutları ben yaptım! Lezzetli miydi?」
万里の長城のような石造りの道を歩いていると、前からサングラスをかけた長髪の女性が走ってきて何か言った。
「おい、この人お前になんか言ってるぞ。英語では無さそうだな」
「さっぱり分かんね!」
すると博士がすっとポケットから人生再生プレイヤーを出して、ただ一言、「字幕」と言った。すると字幕のホログラムが表示された。なるほど、ドーナツを作ったのはこの人で、美味しかったかどうか聞いているようだ。文を見た時に今真っ先に翻訳した画面の前の君は勉強意欲があってとても偉いぞ。
「そう言えばさっきから中の人、全然話してなかったな」
すると久しぶりに中の人は言葉を表示した。
『ワタシは出来の良い、優秀なソフトウェアですので、無駄なお喋りはしません。』
嘘つけ、博士に会うまでベラベラ喋ってただろ!
おじさんは、
「へー、中の人って呼ばれてるんだ」
なんてことを言ってまるで興味なさげだった。
会話に参加していなかった友人は、先程のフレンチクルーラーの女性と話していた。
「ベリーグッド!テイスティー!ヤミー!センキュー!」
友人は女性の手を握ってブンブン上下に振っている。友人の思いが伝わったようで女性は嬉しそうに話した。
「Yolun karşısındaki çadırda sana çok benzeyen bir Japon kızı var! Ona her zaman tattırıyorum! (この道の向こうのテントに、あなたによく似た女の子がいるんだ。その子によく味見してもらってるのさ)」
僕が字幕を読み上げていると、友人は最後まで聞かずに女性の手をパッと離して全力疾走し始めた。僕は伝わるか分からないが女性に会釈して友人を追いかけた。ちょっと待って。速い、足速い。
「このテント、昔部屋にあった子供用の室内テントだ」
さっきの女性が言っていた通り、しばらく走った道の先にはテントがあった。カラフルな三角形の柄で彩られていて、屋根のてっぺんには旗が立っている。僕はこんなに息切れしているのに、友人は何ともなさそうだ。
「……兄貴?」
女の子の声が聞こえたかと思えば、テントはドタバタと変形し、しばらくするとベチャッとつぶれた。ペラペラのビニールの中から中学生くらいの少女が出てくる。僕も会ったことがある、友人の妹だ。
「やっぱり兄貴じゃん!お
友人は大きなため息をついてその場に座り込んだあと、妹さんの方まで歩いていくと、頭を1発ぶん殴った。
「痛!今回のことに関してはうち何も悪いことしてないじゃん!!」
感動の再会とは言い難い。
「なぁ、こいつ連れて帰っていいよな?」
いつの間にか後ろに立っていたおじさんに友人は聞く。
「構わないよ」
それからしばらく、友人、その妹、僕、おじさん、中の人の5人で散歩した。中の人は翻訳で
「ふむ。じゃあもう翻訳もできないし、帰ろうか」
おじさんは僕たちをそこからピンク色の池へ案内した。池のほとりに置いてある石と思われたものは、よく見ると三角チョコパイだった。
「ダイブだ!」
我先にと飛び込んだおじさんに続こうとしたら、友人と妹さんが一生懸命に三角チョコパイを拾っている。僕は2人を池に突き落としてから自分もダイブした。
気がつくと僕は家の前に立っていた。家の鍵をポケットから出して鍵穴に差し込み、玄関ドアを開けると、母さんのおかえりという声が聞こえた。
「ただいまぁ」
「スマホ、回収してきたの?」
母が母のスマホを見ながらそう言った。人生再生プレイヤーの充電が切れて、位置情報が元に戻ったのだろう。僕がスマホを持っていると分かる。
「そう。無くしたから交番に行ってみたらあったんだ」
僕は靴を脱いで揃える。土間から床に上がると、僕を見て母さんは首を傾げた。
「あれ、なんかあんた身長伸びた?」
「……?そうかな」
随分ビビッドな空間から戻ったからか、家の景色がいつもより自分に馴染んで心地よく感じた。
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