言葉は存在の家

@yunin

第1話

 空も、雲も言葉で出来ている。青い空が浮かんで見えた。綿飴のような雲を掴めそうだった。手を伸ばせば届く。それはとても壮大であった。

 世界は言葉で出来ている。それは人々を繋ぐ共通の暗号だ。空と言えば皆、屋外の上の上を頭の中で想像する。その空に多少の違いはあれどそれもまた青色や灰色と鮮明に物事を伝えられる。テレパシーみたいで気持ち悪い。僕はとても窮屈だ。言葉の世界で僕は自由に歩くことすらままならない。突っ立っているだけだ。皆が手を広げ、指を差し、共通のイメージで物事を語る。僕はそれがずっと見当違いに見えて仕方がないのだ。言葉なんてなくなればいいと思っている。

 原っぱで寝っ転がっていた。僕は何かに囚われているわけじゃないけれど、上の空だった。強いて言うなら言葉だろうか。青々しい緑の中で一人、空を見上げていた。するとなんだか空が僕に近づいてきた。今の空は鰯の大群で溢れていた。青と白だけが眼前に広がっている。なんと手を伸ばせば空に届いたのだ。青空に飲み込まれた手で握り拳を作った。引き抜くと中には『空』があった。僕はそれを大事に胸にしまった。なんと言う夢だろうか? 気持ちが良かった。この時はただそれだけだった。しかし人に会えば誰もが空を無くしていた。皆『空』のことを遠回しに言うのだ。ある人は空のことをこんな風に言及していた。

「今日は上いっぱいに青があって心地いい」変な言い方をするものだと思った。だが、どんな奴も変な言い方をした。最終的に僕の周りは『空』のことを「最後の天井」という言葉で定着した。定着してしまえば『空』となんら大差ない。また空は暗号になった。

 言葉は獲りたい時に獲れはしなかった。いつも突然僕の前に現れる。いつも目の前にある暗号となった概念ではない。手に取ることができる物のようなんだ。今度は突然だった。手を洗っていると蛇口から『水』が流れてきた。両手の皿でいっぱいの『水』を掬い出した。それを僕はまた胸の中にしまった。皆は水を知っているけれどそれが何か説明できる者はいなくなった。今度は化学好きがH₂Oと表した。そのほかにも飲める川と言ってみたり、これは様々な表現方法が出た。故に全体で1つの定着はしなかった。盗んだ『水』は表現を自由にする余白を作っただけだった。なんてことはない。次は何が盗れるだろうか。面白いと思った。

 そうだ、感情は盗れるだろうか? 今まで思いつきもしなかった。まずは『虚無』だ。考えた結果、『虚無』ならば盗られて嫌な奴はいない。無いほうがいいのだ。言葉があるから意識する。意識するから苦しい。これはその苦しみを取り除ける。僕は躍動した。僕は地面を目一杯踏み締めて立ち向かった。しかし結果はというと、感情は盗ることができなかった。とても残念だった。

 盗れないものは生物としての名前、それと見えないものだった。目に見えないものこそ盗れるべきだ。心さえ盗れたらいかほど楽だろうか。怖い。時間が経つにつれて記憶のアルバムからフィルムを挟んで見なければならない。ただでさえあの人は写真が苦手だったというのに。

 盗れた物のどれも終着点は等しく暗号だった。なぜだ。暗号とは人と共有するためのものだ。あれからいろんな言葉を盗った。僕は『海』を盗った。どこまでも青で出来ていてたくさんの生き物が住まうあの美しい『海』も、暗号へと還った。変化があったのは固定としてあった言葉のイメージが外れた。それで何が起きたかと言うと、表現が豊かになった。数ある青色に差異を求めて『川』と『海』を表した。なかなか面白いものだった。ただそれだけだ。盗むのももう飽きた。もう何も楽しくない。

 あの『海』はまだ本物のはずだ。

 道すがら名前も知らない婆さんは僕にこう言った。

「今迎えたピカピカは強すぎるからね。飲み川をいっぱい摂りなさい。倒れてしまうよ」婆さんは草刈りをしている。自分は汗を垂らしながら勤勉に働いていると言うのに。太陽のことをピカピカと言うようだ。

「お婆さんもね。草刈り頑張って。ちゃんと水分と塩分を摂るんだよ」

「若緑はすぐ生えてくるから大変だよ。それは流行り言葉かい? 若者はいろんな言葉を使うね」

「――」この世界でこの言葉を使うのは、僕だけなのか。そう思うと疎外感を覚えた。僕は一人だった。あなたがいなくなってから。ずっと。

「じゃあ気をつけて行くんだよ」そう言って婆さんは草刈りを再開した。

 つまらない。言葉も世界によって作られている。なぜ全ての人は現象を暗号にしたがる? 自分がわかればそれでいいじゃないか。いっぱいすばらしい感性を使って現象を頭に閉じ込められる。言葉なんて窮屈だ。狭苦しいところに世界を閉じ込めるなんて無駄だ。お前を通じて感じる世界はとてつもなく小さい。そんなものがあるから知らないやつも知ったように言える。感じたこともないのに良いらしいよねなんてあやふやに表す。お前らはあのてっぺんで僕が見た雲を見たことはないだろう?あの雲を見たのは僕とあの人だけなのに。僕が言葉にしたのは言葉に輝きを見出したからだ。それを誰も彼もが遠慮なくベタベタと触り、その辺の石ころと変わりないほど鈍くさせた。また巫山の雲をみたいんだ。あなたと。この暗号はあなたとの記憶を鮮明にする魔法へとしたかった。なんてこともないほど毎日が過ぎる。あなたとの記憶が遠い昔になる。その度に僕の中のあなたがぼやける。あなたの声はフルートのように綺麗で、歌をとても上手に奏でる。あなたは笑う時、口角が右に上がってへらって笑うんだ。僕の目にはとても素敵に映った。右だっただろうか? そうだったはずだ。声すら覚えていない。頭の中にはもういないんだ。暗号だけがそうだったとおしえてくれるのだ。なぜ暗号の中だけにしかないんだ。胸にしまっていたかった。もう叶わない。僕は言葉が憎い。からっぽだった僕の胸には何も住んじゃいない。文字の羅列で埋め尽くされている。暗号でもないんだ。でたらめとたらればだ。言葉にするだけで、声にするだけで消えゆく儚さがそこにはあったんだ。少し、さびしい。

 雨だ。夕方、大粒の雨がざあざあ降っている。スーパーからの帰り道、ビニル袋を1つ抱えていた。中からネギの頭が見える。またなんてことない日を繰り返す。生きる理由はないが死ぬ理由もないから。いや、充分死ねる。けれども僕は死なないのだろう。あなたが死ぬ時も死なないといつまでも思っていた。願っていたのかもしれない。傘なんてもっていない。僕は頭から雨粒を被っていた。鬱陶しい。『雨』は盗れるだろう。僕は雨に向かってビニル袋のない左手を伸ばした。だが一向に盗れる気がしなかった。なんだかもうどうでもよくなった。

『山』を盗ろう。全てを忘れたい。全て、亡くしたのだから。あなたと行った立山に行った。さっそく盗ろうと思ったが、麓では盗れそうになかった。頂上まで行かなければならないのか? 面倒だった。登山なんて一人で行って何が楽しいんだ。だけど僕は意地になっていた。以前使った登山用の道具を埃臭い押し入れから引っ張り出した。雄山を登ることにした。あの時と違い雪渓は少なかった。あなたは花が好きだった。見かけるたび、僕に説明を始めるんだ。青紫色のベルを逆さにしたようなあの花はイワギキョウと言ったはずだ。淡々と歩いていった。整備がされていて歩きやすいのもあるだろう。歩いて行くと石畳が終わり、岩場を登る。赤い矢印に沿っていくんだ。頂上に着いた時、僕は息切れが酷かった。

「あなたと見た山頂は、こんなものだったか?」ぜえぜえと咳き込むように言った。あの時は、こう色があった。華やかでいて見る価値のあるものだった。雲が本当に掴めそうで、山々が並んでそれは言葉に表せるものじゃなかった! 言葉ごときじゃ到底足らなかった。時間はここまで無常なのか。それとも僕の心が貧しくなったのか? 僕はとうに忘れていたのか。思い出に綺麗というタイトルが付けられていただけなんだ。頭を抱えてしまう。山頂は平べったくなっており神社があった。祈ることなどないというのに。雲が近くにいた。『雲』と目が合った。あれは盗れる。だが本題は違う。岩に触れても、地面に触れても、何も変化がない。『山』を盗るにはどうすればよいのだろう? ここまできて骨折り損は嫌だ。僕には何もわからなかった。手のひらを見つめても何か起こるわけもなかった。手のひらを『雲』に伸ばした。


 知ってる? 海も空も山もみんな言葉なんだよ。

「それは人間が名前を付けたからだ。元々そこに存在した」

 違うなあ。そういうことじゃない。わかってないね。

「じゃあどう言う意味なんだよ」

 自由なんだよ。言葉だから全ての人が知っている。本当の意味では知らない人も、少しは味わえる。知らない、わからないって言うのは寂しいものだよ。世界は言葉で出来ている。だから私は自由なんだ。


 そう言うとあなたはへらっと笑った。黒い髪を靡かせて。


 天気雨が降っていた。叫びたい。あなたにもう一度会えたと。言葉などどうでもいい。貧相な頭の中だけではありえなかった。胸いっぱいだ。これだけあればいい。僕はまた生きられる。あなたにまた、会うために。

 体からポロポロと『言葉』が溢れた。

「あなたがいなくなってからずっと、苦しかった。言葉になんてならない。呻き声だけが、二人の家を支配したんだ。もうあなたがいた気配すらないんだ。花瓶にはもう花が飾られていない。あなたが大事にしたものを僕も大事にしたかった」身から出た錆のようだ。盗れないのではなく盗りたくなかった。


 立山からの帰りに婆さんからこう言われた。

「元気になったようだね」夜も更けて遅い時間だったのに婆さんは外で椅子に座っていた。

「なんでですか?」

「知らないよそれは。なんかそうみえたんだ」


 朝には雲、夕べには雨となりいつもあなたのそばにいる。巫山の雲雨。言葉の中にあなたがいるんだ。ずっと、ずっと。

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