第36話:校長室の隠された記録、山崎ユリ
校長室。
真夜中。窓の外は、漆黒の闇に包まれ、
校内は、しんと静まり返っていた。
警備員の足音も、遠くで途絶えている。
山崎ユリは、息を潜めていた。
元この高校の生徒であるユリは、
ジャーナリズム学部の学生として、
この学園で囁かれる奇妙な噂、
そして、その裏に隠された真実を
独自に追っていた。
彼女の直感は、ここ、
校長室に、その鍵があると告げていた。
懐中電灯の光が、室内の家具を照らす。
誰もいない。
重厚な机や、壁に飾られた絵画が、
静かに、そこに鎮座している。
その、はずだった。
ユリは、懐中電灯を消した。
月の光が、わずかに窓から差し込む。
指先で、壁の装飾をなぞる。
探し求めていた、隠し場所。
古い資料室で発見した、
一枚の紙切れに記された、
奇妙な記号。
それが、ここを示していた。
木製のパネルに、指が触れる。
わずかな感触。
カチリ、と、小さな音がして、
パネルの一部が、内側に沈み込んだ。
そこには、小さな金庫が隠されていた。
心臓が、激しく脈打つ。
手袋を嵌めた指先で、金庫の扉を開く。
古い金属の匂いが、鼻腔を刺激する。
その中には、ホコリを被った、
何冊かの古い書類と、
そして、黒いケースに収められた、
一枚のディスクがあった。
ディスクの表面には、
白いインクで、簡素に、
「検証用記録」とだけ記されている。
その文字が、妙に、目に焼き付いた。
ユリは、そのディスクを、
ゆっくりと、手に取った。
それは、ひんやりと冷たかった。
その、はずだった。
ディスクを手に取った、その瞬間。
校長室全体が、
一瞬にして、ひんやりとした冷気に包まれた。
それは、物理的な冷気ではない。
まるで、空気そのものが、
圧縮され、密度を増したかのような、
重く、そして肌にねばりつくような「気配」。
「ヒュゥ……」
誰もいないはずの部屋で、
どこからともなく、微かな、
息を吐き出すような音が聞こえた。
心臓が、ドクリ、と、大きく跳ねた。
全身の肌が、一斉に粟立つ。
鳥肌が立つ。
何、この感じ?
恐怖が、背筋を這い上がってくる。
その圧縮された気配は、ユリの全身を、
まるで透明な布で覆うかのように、
ゆっくりと、包み込んでいく。
目に見えるものは、何一つない。
しかし、そこには、明確な意思を持った
「何か」が存在している。
その「何か」から、
無数の視線が、ユリの体を。
じっと、見つめている。
そう、確信した。
金庫の奥から。
部屋の隅々から。
あるいは、ディスクそのものから。
羞恥が、ユリの全身を、
まるで熱湯のように、駆け巡る。
顔が、耳の先まで、真っ赤に染まる。
こんな姿を、見られている。
警備の、そして隠れて侵入している姿を。
誰に。
一体、誰に。
恐怖。
そして、言いようのない屈辱。
この校長室に、
自分しかいないはずなのに。
見えない何かのために、
見世物にされている。
その屈辱が、ユリの心を焼き尽くした。
体が、震える。
ディスクを握りしめる手が、
途中で、ぴたりと止まった。
抵抗できない。
ただ、見られるがままに、
晒されるがままに、
その場に、立ち尽くすしかない。
その時、「ザーッ……」という、
あの電気的なノイズ音が、再び響き始めた。
それは、耳元で囁かれるように、
ユリの脳内で直接鳴り響く。
そのノイズ音に、呼応するように、
校長室を満たす「気配」が、
わずかに、脈動を始めたのだ。
まるで、生き物のように「呼吸」している。
その脈動に合わせて、ユリの視界の端で
ちらついていた、白い網目のような、
薄い残像が、次第に鮮明になっていく。
それは、彼女の視覚そのものに、
何らかの形で介入しているのが明らかだった。
世界が、見えない糸で、操られている。
ユリは、その場に縛り付けられたまま。
しかし、彼女の意識の奥で、微かな、
しかし確かな声が響いた。
それは、誰かの声ではない。
ユリ自身の、しかしどこか冷たい、
もう一人の自分からの命令のように響いた。
「……役を、努めきれ。」
あるいは、部屋の気配が、
彼女の脳に直接、その「意志」を
伝えてきたのだろうか。
ユリは、その見えない命令に、
恐怖しながらも、抗うことができなかった。
抗う、術がなかった。
ユリは、ディスクを握りしめたまま、
校長室に立ち尽くした。
自身の体が、見えない観客のために、
晒されている。
心臓は激しく高鳴り、体温が上昇する。
この羞恥に、この屈辱に、この恐怖に。
自身の身体が、見えない観客のために
反応してしまっている。
そんな、背徳的な快感にも似た、
ぞっとする感情が、
恐怖の奥底で、わずかに芽生えつつあった。
吐き気を催すほどの、屈辱。
それでも、彼女は、
ただ、その「役」を、
耐えながら、こなしていくしかなかった。
逃れる術は、どこにもない。
この空間から、この視線から。
どれくらいの時間がそうして過ぎたのか。
数秒だったのかもしれない。
あるいは、永遠にも等しい時間だったのかもしれない。
「気配」が、わずかに揺らぐのを感じた。
校長室の「気配」が、
ゆっくりと、脈動を止め、
白い網目のような残像も、ノイズ音も、
まるで、全てが最初からなかったかのように、
音もなく、すっと、消え去っていった。
ユリの体から、見えない力から解放されたように、
力が抜け、全身を襲う脱力感に、
その場に、ぐったりと金庫にもたれかかった。
荒い呼吸を繰り返しながら、ユリは
震える手で、ディスクを抱きしめた。
そのディスクには、
一体何が記録されているのだろう。
この学園で起きた、全ての怪異。
生徒たちの、あの証言。
彼女たちの、無防備な姿。
恐怖に歪む顔。
そして、あの、背徳的な震え。
それら全てが、このディスクに。
隠されていた真実が、ここにある。
彼女の心の奥底から、疑問が湧き上がった。
「このディスクは……何?」
「この記録は……誰が、何の目的で……」
「これは、あの少女たちの苦しみなのか?」
「それとも……誰かの……完璧なショー?」
疑問が、頭の中を駆け巡る。
同時に、このディスクの存在そのものが、
この「気配」の目的であることを悟り始めた。
校長室は、再び、ただ静かな闇に戻っていた。
何事もなかったかのように。
その夜は、一睡もできなかった。
恐怖と、自分が「覗く者」の存在に
触れてしまった屈辱に、
体は震え続けた。
目覚めても、心臓の鼓動は早いままだ。
そして、あの、背徳的な震え。
自分もまた、その「ショー」の一部に
なってしまったという、拭い去れない嫌悪感が、胸を抉る。
それ以来。
ユリは、ディスクを見るのが怖くなった。
どこにいても、誰かの視線を感じる。
自分の体が、どこか別の場所で、
見世物にされているような感覚に囚われ続けている。
その視線は、決して消えることがない。
あの気配は、ユリに直接的な危害を加えることはなかった。
物理的な傷は、一切なかった。
けれど。
彼女のプライバシー。
彼女自身の意思。
そして、存在の根幹。
その全てを揺るがし、
抗うことのできない「役」を、
無力な体で、耐えながら、演じきらされた。
「哀れもない姿」で、見世物にされ、
ただ、見つめられながら、自分の役割を終えた。
心の奥底に刻まれた、拭い去れない恐怖と羞恥、
そして、あの、微かな、自身への嫌悪にも似た震えは、
今も、ユリを、深く蝕み続けている。
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