第27話:旧校舎の影、鈴木アカリ

旧校舎。誰も使わない教室。

放課後、窓から差し込む光は、

すでに弱々しく、部屋の隅には

深い影が落ちていた。

鈴木アカリは、掃除当番で、

一人、この教室に残っていた。

誰もいない。

箒の擦れる音だけが、

虚しく響く。

窓の外は、もうすっかり暗くなり始めていた。

その、はずだった。


隅に積もった埃を掃き出す。

体操服姿の体が、わずかに熱い。

作業の邪魔にならないよう、

体操服の袖を、少しだけ捲り上げる。

ひんやりとした空気が、肌を撫でる。

早く、掃除を終わらせてしまいたい。

そう願った。


その時、アカリは、

窓の外に、巨大な「影」のような「気配」が、

ゆっくりと迫ってくるのを感じた。

それは、形を持たない。

だが、窓の外の空間を、

まるで塗りつぶすかのように、

濃密な闇となって、教室全体を覆う。

空気そのものが、重く、

呼吸が苦しくなるほどの圧迫感。

心臓が、ドクリ、と、大きく跳ねた。

全身の肌が、一斉に粟立つ。

鳥肌が立つ。


何、この感じ?

恐怖が、背筋を這い上がってくる。

その影のような気配は、アカリの全身を、

まるで透明な布で覆うかのように、

ゆっくりと、包み込んでいく。

目に見えるものは、何一つない。

しかし、そこには、明確な意思を持った

「何か」が存在している。

その「何か」から、

無数の視線が、アカリの体を。

じっと、見つめている。

そう、確信した。

窓の外から。

教室の隅々から。

あるいは、闇そのものから。


羞恥が、アカリの全身を、

まるで熱湯のように、駆け巡る。

顔が、耳の先まで、真っ赤に染まる。

こんな姿を、見られている。

体操服の、乱れた姿を。

誰に。

一体、誰に。

恐怖。

そして、言いようのない屈辱。

この教室に、

自分しかいないはずなのに。

見えない何かのために、

見世物にされている。

その屈辱が、アカリの心を焼き尽くした。

体が、震える。

箒を握る手が、

途中で、ぴたりと止まった。

抵抗できない。

ただ、見られるがままに、

晒されるがままに、

その場に、立ち尽くすしかない。


その時、「ザーッ……」という、

あの電気的なノイズ音が、再び響き始めた。

それは、耳元で囁かれるように、

アカリの脳内で直接鳴り響く。

そのノイズ音に、呼応するように、

窓の外の「気配」が、

わずかに、脈動を始めたのだ。

まるで、生き物のように「呼吸」している。

その脈動に合わせて、アカリの視界の端で

ちらついていた、白い網目のような、

薄い残像が、次第に鮮明になっていく。

それは、彼女の視覚そのものに、

何らかの形で介入しているのが明らかだった。

世界が、見えない糸で、操られている。


アカリは、その場に縛り付けられたまま。

しかし、彼女の意識の奥で、微かな、

しかし確かな声が響いた。

それは、誰かの声ではない。

アカリ自身の、しかしどこか冷たい、

もう一人の自分からの命令のように響いた。

「……役を、努めきれ。」

あるいは、窓の外の気配が、

彼女の脳に直接、その「意志」を

伝えてきたのだろうか。

アカリは、その見えない命令に、

恐怖しながらも、抗うことができなかった。

抗う、術がなかった。


アカリは、体操服の裾を直す手を

そのままに、ゆっくりと体を動かし始めた。

まるで、誰かに操られるかのように。

手が、無意識に、窓辺に伸びる。

冷たいガラスの感触。

そのまま、窓の外の影に向かって、

体操服を、ゆっくりと脱ぎ始めた。

体操服が、肌から離れていく。

肌着が、露わになる。

そして、その奥の、柔らかな肌。

その全てが、冷たい気配に、

そして、その気配の向こうにある、

見えない「目」に、

じっと、見つめられている。

羞恥で、全身が熱い。

しかし、その動きは、淀みなく、

まるで、何か見えない演出に

従っているかのようにスムーズだった。

肌が、空気と光に触れるたび、

冷たい視線が、より深く、

肌の奥まで食い込んでくるような感覚。

本来なら、誰もいないはずの旧校舎で、

自分の裸に近い姿を、

見世物のように晒し続ける。

羞恥と屈辱。

息を吸うのも、肌を撫でるのも、

視線に晒された、演技なのだ。

そう理解しながら、アカリの心臓は

激しく高鳴り続け、体温が上昇する。

この羞恥に、この屈辱に、この恐怖に。

自身の身体が、見えない観客のために

反応してしまっている。

そんな、背徳的な快感にも似た、

ぞっとする感情が、

恐怖の奥底で、わずかに芽生えつつあった。

吐き気を催すほどの、屈辱。

それでも、彼女は、

ただ、その「役」を、

耐えながら、こなしていくしかなかった。

逃れる術は、どこにもない。

この空間から、この視線から。


どれくらいの時間がそうして過ぎたのか。

数秒だったのかもしれない。

あるいは、永遠にも等しい時間だったのかもしれない。

「気配」が、わずかに揺らぐのを感じた。

窓の外の「気配」が、

ゆっくりと、脈動を止め、

白い網目のような残像も、ノイズ音も、

まるで、全てが最初からなかったかのように、

音もなく、すっと、消え去っていった。

アカリの体から、見えない力から解放されたように、

力が抜け、全身を襲う脱力感に、

その場に、ぐったりと窓にもたれかかった。


荒い呼吸を繰り返しながら、アカリは

震える手で、体操服を拾い上げた。

肌着は、乱れたままだった。

しかし、彼女の心の奥底には、

決して消えない、深い傷が刻まれていた。

教室は、再び、ただ静かな空間に戻っていた。

何事もなかったかのように。


その夜は、一睡もできなかった。

恐怖と、自分のプライベートが暴かれた屈辱に、

体は震え続けた。

目覚めても、心臓の鼓動は早いままだ。

そして、あの、背徳的な震え。

自身の身体が、見えない誰かのために

反応してしまっていたという、

拭い去れない嫌悪感が、胸を抉る。

それ以来。

アカリは、旧校舎に行くのが怖くなった。

どこにいても、誰かの視線を感じる。

自分の体が、どこか別の場所で、

見世物にされているような感覚に囚われ続けている。

その視線は、決して消えることがない。


あの気配は、アカリに直接的な危害を加えることはなかった。

物理的な傷は、一切なかった。

けれど。

彼女のプライバシー。

彼女自身の意思。

そして、存在の根幹。

その全てを揺るがし、

抗うことのできない「役」を、

無力な体で、耐えながら、演じきらされた。


「哀れもない姿」で、見世物にされ、

ただ、見つめられながら、自分の役割を終えた。

心の奥底に刻まれた、拭い去れない恐怖と羞恥、

そして、あの、微かな、自身への嫌悪にも似た震えは、

今も、アカリを、深く蝕み続けている。

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