第16話:体育館裏の倉庫、中村ミサキ

新校舎。体育館の裏手。

そこに、古びた倉庫がひっそりと建っている。

埃っぽい空気と、古い木材の匂い。

中村ミサキは、文化祭で使う衣装の整理のため、

一人でここにやってきていた。

倉庫の扉を開ける。

中は薄暗く、様々な備品が積み上げられている。

誰もいない。

風が吹き抜ける音だけが、

ひゅー、と、不気味に響く。

その、はずだった。


衣装の山の中から、目的の箱を探し出す。

作業着のジャンパーを脱ぎ、

体操服のタンクトップ姿になる。

汗ばんだ肌が、冷たい空気に触れる。

息が、少しだけ楽になった。

大きく、ゆっくりと息を吐き出す。

早く、作業を終えてしまいたい。

そう願った。


その時、ミサキは、

倉庫の奥から、

微かな、しかし明確な、

笑い声のような「気配」が、

聞こえてくるのを感じた。

「クスクス……」

それは、人の声ではない。

だが、誰かが嘲笑っているような、

冷たく、しかし愉快げな響き。

倉庫の隅々から、その笑い声が、

反響しているかのようだ。

心臓が、ドクリ、と、大きく跳ねた。

全身の肌が、一斉に粟立つ。

鳥肌が立つ。


何、この感じ?

恐怖が、背筋を這い上がってくる。

その嘲るような気配は、ミサキの全身を、

ゆっくりと、包み込んでいく。

目に見えるものは、何一つない。

しかし、そこには、明確な意思を持った

「何か」が存在している。

その「何か」から、

無数の視線が、ミサキの体を。

じっと、見つめている。

そう、確信した。

積み上げられた備品の影から。

天井の梁の隙間から。

あるいは、闇そのものから。


羞恥が、ミサキの全身を、

まるで熱湯のように、駆け巡る。

顔が、耳の先まで、真っ赤に染まる。

こんな姿を、見られている。

体操服の、タンクトップ姿を。

誰に。

一体、誰に。

恐怖。

そして、言いようのない屈辱。

この倉庫に、

自分しかいないはずなのに。

見えない何かのために、

見世物にされている。

その屈辱が、ミサキの心を焼き尽くした。

体が、震える。

衣装の箱を抱きしめる手が、

途中で、ぴたりと止まった。

抵抗できない。

ただ、見られるがままに、

晒されるがままに、

その場に、立ち尽くすしかない。


その時、「ザーッ……」という、

あの電気的なノイズ音が、再び響き始めた。

それは、耳元で囁かれるように、

ミサキの脳内で直接鳴り響く。

そのノイズ音に、呼応するように、

倉庫の奥の「気配」が、

わずかに、脈動を始めたのだ。

まるで、生き物のように「呼吸」している。

その脈動に合わせて、ミサキの視界の端で

ちらついていた、白い網目のような、

薄い残像が、次第に鮮明になっていく。

それは、彼女の視覚そのものに、

何らかの形で介入しているのが明らかだった。

世界が、見えない糸で、操られている。


ミサキは、その場に縛り付けられたまま。

しかし、彼女の意識の奥で、微かな、

しかし確かな声が響いた。

それは、誰かの声ではない。

ミサキ自身の、しかしどこか冷たい、

もう一人の自分からの命令のように響いた。

「……役を、努めきれ。」

あるいは、倉庫の気配が、

彼女の脳に直接、その「意志」を

伝えてきたのだろうか。

ミサキは、その見えない命令に、

恐怖しながらも、抗うことができなかった。

抗う、術がなかった。


ミサキは、タンクトップ姿のまま、

ゆっくりと体を動かし始めた。

まるで、誰かに操られるかのように。

手に持っていた衣装の箱を置く。

そして、その体が、

まるで無意識に、見えない何かに誘われるように、

ゆるやかな動きを始めた。

衣装の生地を、肌に這わせるように、

体にまとわせ、それが、

露出度の高い服であるかのように、

体をくねらせる。

羞恥で、全身が熱い。

しかし、その動きは、淀みなく、

まるで、何か見えない演出に

従っているかのようにスムーズだった。

肌が、空気と光に触れるたび、

冷たい視線が、より深く、

肌の奥まで食い込んでくるような感覚。

本来なら、誰もいないはずの倉庫で、

自分の裸に近い姿を、

見世物のように晒し続ける。

羞恥と屈辱。

息を吸うのも、肌を撫でるのも、

視線に晒された、演技なのだ。

そう理解しながら、ミサキの心臓は

激しく高鳴り続け、体温が上昇する。

この羞恥に、この屈辱に、この恐怖に。

自身の身体が、見えない観客のために

反応してしまっている。

そんな、背徳的な快感にも似た、

ぞっとする感情が、

恐怖の奥底で、わずかに芽生えつつあった。

吐き気を催すほどの、屈辱。

それでも、彼女は、

ただ、その「役」を、

耐えながら、こなしていくしかなかった。

逃れる術は、どこにもない。

この空間から、この視線から。


どれくらいの時間がそうして過ぎたのか。

数秒だったのかもしれない。

あるいは、永遠にも等しい時間だったのかもしれない。

「気配」が、わずかに揺らぐのを感じた。

倉庫の奥の「気配」が、

ゆっくりと、脈動を止め、

白い網目のような残像も、ノイズ音も、

まるで、全てが最初からなかったかのように、

音もなく、すっと、消え去っていった。

ミサキの体から、見えない力から解放されたように、

力が抜け、全身を襲う脱力感に、

その場に、ぐったりと床に座り込んだ。


荒い呼吸を繰り返しながら、ミサキは

震える手で、ジャンパーを羽織った。

体操服は、汗で張り付いたままだった。

しかし、彼女の心の奥底には、

決して消えない、深い傷が刻まれていた。

倉庫は、再び、ただ静かな空間に戻っていた。

何事もなかったかのように。


その夜は、一睡もできなかった。

恐怖と、自分のプライベートが暴かれた屈辱に、

体は震え続けた。

目覚めても、心臓の鼓動は早いままだ。

そして、あの、背徳的な震え。

自身の身体が、見えない誰かのために

反応してしまっていたという、

拭い去れない嫌悪感が、胸を抉る。

それ以来。

ミサキは、体育館裏の倉庫を見るのが怖くなった。

どこにいても、誰かの視線を感じる。

自分の体が、どこか別の場所で、

見世物にされているような感覚に囚われ続けている。

その視線は、決して消えることがない。


あの気配は、ミサキに直接的な危害を加えることはなかった。

物理的な傷は、一切なかった。

けれど。

彼女のプライバシー。

彼女自身の意思。

そして、存在の根幹。

その全てを揺るがし、

抗うことのできない「役」を、

無力な体で、耐えながら、演じきらされた。


「哀れもない姿」で、見世物にされ、

ただ、見つめられながら、自分の役割を終えた。

心の奥底に刻まれた、拭い去れない恐怖と羞恥、

そして、あの、微かな、自身への嫌悪にも似た震えは、

今も、ミサキを、深く蝕み続けている。

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