恍惚
湯本優介
恍惚
湿気に群れた長い髪にまとわりつく汗を拭いながら、少しだけ広くなった駅のホームを見て、わたしは静かに絶望していました。この駅からも、ついに自販機がなくなってしまったのです。それが目当てで部活終わり、最寄りでもないこの駅まで通っていたのに。
「明日からどうしようかな……」
運動後で乾ききった喉に冷たいジュースを流し込む、あの感覚を味わえなくなるのはもちろん辛いことですが、わたしはむしろ、自分のルーティーンを奪われてしまうのが残念でなりませんでした。何よりわたしは、部活でくたくたになったその身体、その足で、最後の力を振り絞ってこのオアシスまで走る、あの艱苦の中に交じる爽快さが好きだったのです。今日でこの駅とも最後かもしれない。それが自分でも意外なほど名残惜しく思われました。
ベンチに座ると、みしっと軋む音がしました。支えている金具の片方がおしゃかになってしまっているのです。これが壊れてしまうのも秒読みのことと思っていたので、まさかわたしや自販機のほうが先にこの駅を去ることになるとは想像もしていませんでした。遠くないうちにいつかは、ここも、とは思っていましたが。
いつも通りの景色、いつも通りの駅、そこに自販機だけがない。ベンチに座るなり、わたしはすぐにその状況がむず痒くなりました。さっきまで残念がっていただけだったのが、どうも落ち着かなくなったのです。どうしてか、この場所を立ち去らずにはいられなかったのです。
ベンチから立ち上がり、スカートをぱっぱとはたいて、そのまま何かの力に引きずられてホームを出ようとしたその時、正面から同世代ほどの男の子が現れました。わたしは始め、珍しいな、と思うばかりでした。それというのも、この駅は時々おじいさんやおばあさんが利用するのを見るくらいで、後は基本的にがらんと無人な駅だったからです。特に、わたし以外の学生がここで電車を待っているような姿は、まるで見たことがありませんでした。彼はベンチに座らず、ホームの端っこで遠くの空を見つめていました。
どこの高校の子なんだろう、そんな事を考えているとふと、ハッとしました。さっきまであった心の痒みが、霧ばらいをしたように、とんとなくなっていたのです。そういえば、梅雨特有の空気の湿っぽさも、その時ばかりはいくらかましになっていたような気がします。それがなんだか彼のおかげのような気がして、わたしは不吉なほど彼に好奇心をそそられていました。
彼はまるで、元からずっとそこに存在していたかのように、判然とたたずんでいました。どこか、フランソワ・ミレーの絵画を見ているような気分でした。それはたしかに空間的なのに、「精巧に模写された風景」として、わたしの中では完結しているのです。それほどまでに彼は、絵になる容姿をしていました。
「次の電車は何分でしたっけ」
彼は突然こちらを向き、そう尋ねてきました。わたしは意表を突かれて、「へ?」と間抜けな声を出してしまいました。それから顔が熱くなっていくのを誤魔化すように、早口に答えました。
「あ、電車。そうですね、確か、次は六時五十分くらいだったはず……」
「六時五十分、まだ結構時間ありますね」
「そうですね……」
彼の声を聞いて、わたしはまた一段と惹きつけられ、呼応して心臓の鼓動が早くなっていくのを感じました。それは機械音声のように波も嫌味もない、それなのにどこか懐かしくて安心する声でした。いつしかわたしの身体は、彼の声を聞きたいという、湧き上がってきた熱のようなものに支配されていました。
「この駅、普段は使ってないですよねっ……」
その言葉は衝動的で、自分で抑えが効くものではありませんでした。正確には、その言葉でなくてもよかった。何でも良かったのです。彼と話すきっかけになれば何でも。でも、わたしはすぐに後悔しました。完成された絵に、軽率な気持ちで描き足して台無しにしてしまったのです。絵を見るだけでは飽き足らず、自分もそれに組み込まれたいという風な傲慢さに、自分のことながら鳥肌が立ちました。
その一方、彼の様相はいたって冷静でした。特段驚く素振りもなく、友人との何気ない会話に返答を考えるように、平気そうな顔を浮かべていました。
「そうですね、最近ここに引っ越してきたので」
「そ、そうなんですか」
「でも、この駅は好きです。やけに落ち着く感じがして」
その時のわたしは、色々なものがいっぱいいっぱいで、彼の言葉もよく聞けていませんでした。返事をしてくれたことへの喜びなのか、彼への恋心のような興味なのか、はたまた絵を崩してしまったことへの悔いがいまだ残っていたのか。いずれにせよ、いっぱいいっぱいでした。
「さっきの言い方だと、あなたは毎日この駅を使っているんですね」
「は、はい。えっと、学校の最寄りは、もっと前なんですけど、この駅、自販機があって。あ、もうなくなっちゃったんですけど」
「それは……残念でしたね」
そう言った時の彼の表情は見えませんでした。実際はどうかわかりませんが、わたしにはそれが、意図して表情を見せないようにしているとしか思えず、不安で仕方ありませんでした。彼はベンチに座って、駅のひさしを見上げていました。
「この駅、いいですよね。囲まれてないから、電車を待ってたら、否が応でも風を感じられる。雨が降ったら少し濡れてしまうけど、トタンに雨粒が当たるのは聴き心地がいいし」
それを聞いて、わたしは初めて気が付きました。彼の表現したことは、わたしが無意識に好きだと思っていた、この駅のことだったのです。自分は自販機のためだけじゃなく、その無意識に動かされてここに通っていたのだという可能性を、彼が言葉にしてくれるまで、全く考えたこともありませんでした。寂しさはこのためだったのかもしれません。自販機がなくなってしまうそのことにではなく、自販機に次いで、ベンチやら何やら、この駅から失われて、最後にはこの駅自体もなくなってしまって。無意識が予感していたその未来が、わたしの寂しさやかゆみだったのかもしれません。
「見てみてください。燕があんなに低くを飛んでますよ。こういう翌日は雨が降るんです。楽しみだなぁ」
「それじゃあ、明日もここに?」
「はい。……ここも、いつなくなっちゃうかわからないので、せめて来れる間は、ここに通いたいんです」
彼の言葉に、わたしは妙に貫かれました。気づけば立ちながらにして、手に持っていた靴袋の口を、固く握りしめていました。そこから彼はそれ以上話すことなく、また一枚の絵の中に帰っていきました。
しばらくすると、遠くから高い光が差してきて、とうとう電車がやってきたのだとわかりました。わたしは静かにベンチに座って、わざとその電車を見送ることにしました。彼も一切動くことなく、それぞれが肖像のように固まったままで、電車の背を遠くに眺めていました。それにつれて、わたしも次第に絵の中に加筆されたものとして、自然とそこに馴染んでいくのがわかりました。さっきまであれだけ望んでいたこの世界は、入ってみれば意外となんでもない、ありふれたものでしたが、わたしは言い得ない幸福感に満ち満ちていました。
次の電車が来るまでに、わたし達が会話を交わすことは一度もありませんでした。待っている間、時々わたしはお尻で、古んだベンチをわざと軋ませました。キィキィと耳に痛い音を、わたしは黙って胸の奥に閉じ込めました。
これからもこの駅を使おう。お目当てだった自販機はなくなってしまったけれど。冷たい雨が思ったよりもずっと早く降ってきて、トタンのひさしにぱつぱつぶつかるのを聴いていました。その音が消える頃、ふと見れば、彼はもう居なくなっていました。
恍惚 湯本優介 @yusuke_yumoto
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