第15話
ためらいは消えなかった。それでも決断して、口にする。
「出掛けます。市民街へ行くから、相応しい装いを考えて」
「市民街へですか!?」
エメラダと同じく、外出と言えば貴族街なのだろう。指示をされた侍女は驚きの声を上げた。
「それは、危険ではありませんか?」
人心が荒み、町が物騒になっているという話を耳にしていない者はいないだろう。反して、実感している者は少ない気がした。
それでも想像するには十分なので、侍女の表情は渋るものになっている。
「分かっているわ。けれど、知りたいと思うの」
「……かしこまりました」
ややあって、侍女は恐れを残しつつも迷いを吹っ切った強さで承諾の返事を選んだ。
「ありがとう」
「いいえ。わたくしも、昨今は王宮と町で温度差が広がっている気がして、気になっていたのです」
知ったところで、女の身でできることは多くない。男性が持つ多くの権利が、女性には与えられていないのだ。
(でも、側にいる方に働きかけることはできる)
自分がどうしたいかを見定めるためにも、絶対に必要だという確信があった。
たとえそれが、直視したくない現実であろうとも。
同意を示してくれた侍女――シシリィを連れて、エメラダは市街地へと出かけて行った。
服装は、王妃が着るには質素なドレス。シシリィが実家から持ってきてくれたものだ。
エメラダからすれば十分に格の落ちる装いだが、市民街に入った途端にそれでもまだ足りないと思い知る。
人々が身にまとう服の中で、新品に近い物を着ている者などほとんどいない。皆、数年は経過しているだろう生地の痛みが見て取れる恰好をしている。
(布も、貴重になったわ)
まず真っ先に納められるのは、王族や貴族。そして消耗が激しい戦場だ。
自然、値段は高騰する。一般の民にとって、手を出しにくい品になっているのかもしれない。
(ここは、王都だというのに)
都から遠く離れた地方では、どうなっているのだろう。想像するだけで恐ろしくなった。
「……」
町の人々から滲み出る生活の貧しさが同じく予想外だったのか、シシリィも絶句して唇を引き結んでいる。
数字は知っていたはずだ。しかし、本当の意味で理解はしていなかった。そのことをエメラダは思い知る。
(ヴィージールは、いつからこんなにも貧しくなったの)
果たして帝国から独立する前よりはいいと、まだ言えるのだろうか。
この貧しさを引き起こしている最大の理由は、戦だ。
エメラダは知らなかった。しかしユラフィオは知っていた。おそらく、ずっと前から。
「エメラダ様……」
「あ……」
そっとシシリィに囁かれて、エメラダは自分が目的地の側にまで来ていたのを知る。
雨風に晒されて劣化した木製の看板が、手入れの行き届いていない金属の棒に掛けられて軋みを上げている。
若干読み難いが、確かに『ロージーベーカリー』の名前が描かれていた。
看板と比べて、店先の手入れはまだしっかりしている。飾り気はなくとも、毎日掃除されていることが窺えた。建物の周りは清潔だ。
「随分、手の入れ方に差がありますね」
「大人の手がないのかもしれない」
「えっ」
看板まで、手が届かないのかもしれない。
そうエメラダが呟き、シシリィが驚いた声を上げたその時、少年が店の前に出てきた。そして店の壁を拭き始める。
声を掛けるのさえ憚られた。少年は余裕のない厳しい表情のまま、店の外を整えるとすぐに中へと戻って行く。
(評判の、店……)
ユラフィオの言い回しを反芻して、エメラダは目が眩む気持ちでいた。
きっと、味が評判なのではなかった。暮らしに困窮して難儀していることが噂になっていて、この地区を歩いていたユラフィオの耳に入ったのではないか。
切り詰められた素材は、そのまま使える材料が真実無いことの表れ。技術が拙いのは、きっと最近始めなくてはならなくなったから。
(あの出来では、この店を、住む人を助けようという善意を持つ人しか買わない)
残酷であるが、商品としての価値を持つ出来ではなかった。
だから、ユラフィオは購入したのだろう。
「……」
連想して、思い起こすことがあった。
もしかすればユラフィオが頻繁に開いていたパーティーも、意図は同じではないだろうか、と。
生活を切り詰めねばならなくなったとき。真っ先に対象となるのは娯楽だ。そして雑貨、食品と進んでいく。
それさえ購えなくなれば、ついにはある所から奪うしかなくなる。飢えの苦しみは目の前に食料があってなお耐えられるものではない。
人が生活を切り詰めるというのは、物が売れなくなるということでもある。売れなくなれば、それを商いにしている者たちの仕事も成り立たない。
(だからせめて、無駄な贅を買っていたのかしら。自身の遊興であれば、いくらか自由にできる部分もあるから)
負けることを決めているユラフィオだ。いっそ戦費にこそ手を付けても構わない、ぐらいの気持ちだったのかもしれない。
正しくはない。しかしそれしかできなかったのではとも思う。
「……戻りましょう」
「……はい」
重たい物を飲み込んだ気分で、エメラダは来た道を引き返していく。顔を俯けがちにしてしまっているシシリィも、おそらく気持ちは似たようなものだ。
「……エメラダ様。わたくしたちは、このままで良いのでしょうか」
「良くないわ」
民が幸せではない。それはもう間違いなかった。
では、どうすればいいのか。
――答えが出せない。
本当は、答えを得るためにこそ民に直接望みを訊ねてみたかった。しかしこの有様では諦めざるを得ない。
(きっと、誰も話してくれない)
上等すぎるエメラダの装いを、警戒されてしまうだろう。権力を持つ相手から難癖を付けられるのを恐れて、無難な話を選ぶ可能性が高い。
「シシリィ。お願いがあるの」
「どのようなことでしょうか」
「人々から話が聞ける服がいるわ」
「……かしこまりました」
王妃として褒められた行いではないのを承知で、シシリィはうなずく。彼女の表情も、エメラダと同じく強張っていた。
知らねばならない。その意思が一致していた。
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