最終話 たった一つのファンタジー

 衝撃と共に、私の体は硬いアスファルトの上に投げ出された。目を開けると、そこは、名古屋城の外堀沿いの快適なサイクリングロード。緑の木々と石垣、そしてオフィス街のビル群が作るコントラストが、私のお気に入りの風景。外堀に線路も敷かれていない、いつもと変わらない見慣れた景色だった。

 現代に戻った私は、すぐに栄に向かってロードバイクを走らせた。


 ――行かなくちゃ。ケッタマシーンのもとへ。


 栄の街中にある三越の屋上。静まり返ったその場所で、錆びついた観覧車が、動きを止めていた。

 一番高い位置で止まっているゴンドラ。目を凝らすと、その中に、陽炎のようにぼんやりと、あの黒い自転車の輪郭が見える気がした。

「石橋くんのケッタマシーン……。こんなところに、いたんだね……」

 実体はない。でも、確かにそこにいる。ずっと誰かを待ち続けていた、黒鉄くろがね色の魂。


「君も、これに会いに来たのかね。私の、大事な相棒に」

 涙ぐむ私の背後から、静かで、どこか懐かしい響きを持つ声が聞こえた。

 振り返ると、そこにいたのは、上質なジャケットを着こなした、品の良い初老の、ふくよかな男性。

 彼は観覧車を見上げていたが、ゆっくりと私の方に視線を移す。

「綾菜……いや、高坂綾菜さん。ずっと、待っとった」

 私の顔をじっと見つめ、驚くでもなく、慌てるでもなく、ただ静かに、深く息を吐いた。

 彼のあまりに穏やかな態度に、私は言葉を失う。それでも。

「私も……私も、会いたかった……! もう一度、会えるって信じてたから……!」

 あふれ出す想いを、私は抑えきれなかった。でも、彼の皺の刻まれた優しい目元と、穏やかな佇まいが、残酷な現実を突きつける。


 ダメだ、私。何を期待してたんだろう。

 彼には彼の、私には私の時間が流れている。

 分かっていたはずなのに。

 会えたら、またあの夏の日に戻れる。

 そんなこと、あるはずなんてなかったのに。


 嗚咽を漏らす私を、老年の石橋くんはただ静かに、慈しむような目で見守っている。やがて、彼はぽつりと言った。

「私にも、たくさんの出会いはあった。結婚を考えた人も、おらんかったわけじゃない。でも心のどこかで、いつも君がケッタマシーンの後ろで笑っとる。そんな幻に勝てる人間なんて、一人もおらんかった。結局、私は君というたった一つのファンタジーと、一生を添い遂げたんだわ」

 その言葉は、決して悲壮なものではなく、自分の人生を誇るような、穏やかで力強い響きがあった。

 彼は、ふっと、自嘲気味に笑った。

「でも、今、目の前に、本物の君がおる。……あの夏の日の、あの時の姿のままでな。 私は、こんな年寄りになってしまったというのに。ああ、そうか、と。やっと、目が覚めたんだわ。私たちは、もう、同じ時間を生きることは、できんのだと」

 彼の瞳は、澄み切った哀しみを湛え、微かに揺れ動いていた。

「君は、私の……誰かにとってのヒロインではない。君自身の物語を生きる、立派な主人公なんだわ。……だから、もう行け」

 彼の言葉に、私は涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、それでも、決意を込めて、精一杯の笑顔を作った。

「さようなら、石橋くん。私の、たった一人のヒーロー」

「……ああ。達者でな、綾菜さん。君は、私の人生を救ってくれた、たった一つの星だった

 最後の最後に、彼の口からこぼれた、コテコテの名古屋弁。私たちは、もう一度だけ、お互いの顔を見て、穏やかに微笑み合う。

 やがて、彼の方が先に、出口へと続く扉に向かって歩き出した。私は、その背中が見えなくなるのを、最後まで見届けていた。


 私たちの恋は、今、この瞬間に、本当に終わったんだ。でも、私たちの物語は、時を超えて、確かに繋がっていた。

 これでいい。これが、一番美しい終わり方だ。


 ふと、私は観覧車の方を振り返った。

 一番高い位置にあるゴンドラ。そこに陽炎のように揺らめいていた黒い自転車の輪郭が、夕暮れの最後の光を吸い込むように、ふわりと輝きを増した。

 光は、一瞬、強くまたたいた後、まるで役目を終えた星が静かに消えていくように、淡い光の粒となって、茜色の空に溶けて消えていった。

 ありがとう、と私には聞こえた気がした。観覧車のゴンドラの中は、もう、からっぽだった。


 ケッタマシーンは、逝ったんだ。

 持ち主に捨てられた哀しみから解放されて。もう一度だけ、私たちを引き合わせるという、最後の願いを叶えて。

 安らかな、眠りについたんだ。


 茜色の名残が消えゆく空に、一番星が強く、そして優しく輝いていた。

 私は、ポケットからスマホを取り出す。開いたのは、声優オーディションの応募フォーム。今まで何度も、書いて、消して、を繰り返していたページ。

 ――君の声には、物語がないね。

 その言葉が、ずっと私にかけられている、もう一つの呪いだった。


 私は、自分の声が嫌いだった。特徴もなくて、平坦で、誰の心にも届かないと思っていた。

 ――でも、違った。

 私の声は、時を超え、彼の心を揺さぶり、絶望の未来を変えることができた。彼が教えてくれたんだ。私の声が持つ、本当の力を。物語を紡ぐ、この声を。


 大丈夫。もう、迷わない。

 彼の人生を救った星が、私だと言うのなら。今度は、たくさんの人の心を照らす星になってみせる。

 私の、私だけの、この声で。


 私は応募フォームの「送信」ボタンを、強く、押した。


 錆びた観覧車が、風を受けて懐かしい歌のような音を立てる。石原裕次郎の、あの『白い街』のメロディーが、風に乗って微かに聞こえてくるかのようだった。


(了)

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黒鉄色のケッタマシーン解 平手武蔵 @takezoh

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