第10話 現代へ

 翌日、私たちは以前にタイムスリップした場所、再び東山の杜を訪れた。昭和から、元の時代の令和に戻るために。

「なあ、綾菜。神様は言っとっただろ。『白き街の歌に込められし希望の心を重ね』って。俺の希望は、もう呪いから解き放たれた。だから今度は、あんたの番だ。……未来へ行け、綾菜。 俺のことなんか忘れてまって、この歌の始まりみたいに、真っ白な未来を創れ!」

 私は強く頷いた。過去への執着を、未来への決意に変える。二人で自転車――黒鉄くろがね色のケッタマシーンにまたがり、『白い街』を歌い上げた。

 私たちの歌声に、ケッタマシーンが「キーン……」という高い共鳴音で応える。金色の光が、私たちを包んだ。ペダルがひとりでに回転し、チェーンが静かな音を立てる。そして、ふわり、と。鉄の塊であるはずの自転車が、地面から浮き上がった。

 その瞬間、世界が激しく揺れた。

「綾菜!」

「石橋くん!」

 私の脳裏に、凄まじい光景が、濁流のように流れ込む。


 ――そこは、私がいなかった世界。救われなかった、石橋和也の未来。


 がらんとした工場。油の匂いだけが、かつての活気を虚しく伝えている。床には、差し押さえの赤い紙。その中央で、首を吊っている父親の姿。もう、動かない。

 大学のキャンパス。モノづくりへの夢は、父親を死に追いやった「呪い」へと変わっていた。彼の目は光を失い、誰とも口を利かず、ただ分厚い本の中に現実から逃げるように沈み込んでいた。

 そして、昭和五十一年、廃線になった名鉄瀬戸線のお堀区間。真夜中、荒涼としたその場所で、やつれ果てた石橋くんが、ケッタマシーンを引きずって現れる。

 彼は、お堀の線路を見下ろし、呪いの言葉を吐き捨てた。

「なんでだ……なんで、アンタが死ななきゃならんかったんだ、親父……。モノづくりなんて、真面目にやったって、馬鹿を見るだけじゃねえか……!」

 彼は、ケッタマシーンを高々と持ち上げる。その瞳には、涙もなかった。ただ、空っぽの絶望だけが宿っている。

「親父、すまん……。俺にはもう、アンタの魂を守ってやれん……。こんな鉄クズへのチンケなこだわりが、アンタを殺したんだ……! こんな鉄クズ……アンタの魂ごと消えちまえ!」

 静寂を破る雄叫びと共に、ケッタマシーンは暗いお堀へと投げ捨てられた。


 ――重く、悲しい金属音。


 これが、私が昭和時代に来なかった場合の、本当の歴史。ケッタマシーンは、この最悪の未来を回避するために、私を過去に送り込んだんだ。そして、石橋くんに本当の絶望が訪れる前に、私に救ってほしかったんだ。


 その光景から目覚めると、ケッタマシーンはすでに名古屋の上空にあった。車体は激しく揺れ、私たちは振り落とされそうになっていた。

「うわっ!」

 私は必死で、彼のシャツにしがみついた。その背中も、小刻みに震えている。

「綾菜! しっかりしろ! あんたの心が揺れとるんだ!」

 風の音に負けじと、彼が耳元で叫んだ。

「こいつは、あんたの心に反応しとる! あんたが未来へ帰ると決めん限り、道は開けん!」

 彼の言ったこと。頭では、分かっていた。

 この激しい揺れは、私の心の揺れそのもの。彼の背中から感じるこの温もりが、私を行かせないと叫んでいる。心が、体が、この一瞬に永遠にしがみつこうとしている。

 私は、震える唇を噛みしめ、彼の背中から一度、体を離した。そして、最後の力を振り絞って、夜空に向かって叫んだ。

「石橋くん! あなたは、私と出会って、救われたんだよ! 感謝するんだからね!」

 叫びと共に、私の意識は光に包まれる。意識が遠のく中、石橋くんの姿が消え、主を失ったケッタマシーンが一条の光となって、まっすぐ街の中心……栄のデパートの屋上へと吸い込まれていくのを、私は見ていた。

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