第9話 是非に及ばず
下宿先に戻ると、静かな部屋の中、石橋くんがぽつりと漏らした。
「今日一日、あんたと街を巡って、よう分かったわ。俺は、親父の死から逃げるために、文学に走ったのかもしれん。だが、あんたや、大須の未来の話を聞いて、それだけじゃいかんと思ったんだわ。逃げとるだけじゃ、何も生まれん」
私は、彼の言葉を黙って待った。その瞳は、迷いながらも、何かを見据えようとしていたから。
やがて、意を決したように、私の目をまっすぐに捉えた。
「綾菜」
「……うん」
「俺の長髪、切ってくれんか」
「え……?」
唐突な申し出に、私は戸惑う。
「新しい夢に進むのも、古い夢と向き合うのも、中途半端な今のままじゃ、どっちもできん気がするんだわ。この鬱陶しい髪と一緒にな、俺の心の中にある迷いごと、全部、あんたに断ち切ってほしいんだ」
どうして、それが私なんだろう。
いや、そんなの、分かり切っている。
私でないと、ダメなんだ。
私だからこそ、お願いをしているんだ。
「分かった」
私は、彼からハサミを受け取った。弟の髪を何回か切ったことがあったから、少しは慣れていた。
ジョキ、ジョキ、とリズミカルなハサミの音が、四畳半の部屋に響く。
髪を切るうち、私たちの体はぐっと近づく。私の指が彼の首筋に触れ、石橋くんが息をのむのが分かった。
「おい、くすぐったいがね!」
「じっとしてて! 変な髪型になっても知らないよ!」
「……あんたに任せるわ」
鏡に映る彼は、どんどん昔の、精悍な顔つきに戻っていく。その姿を見ながら、私はぽつりと呟いた。
「いいなあ、石橋くんは」
「何がだ?」
「夢があって。昔も、今も。ちゃんと自分の道を見つけてる」
「……まだ見つからんのか? 三年前も、そんなこと言っとったな」
「うん……。私ね、あの時は言わなかったんだけど、声優になりたいって、ちょっと思ってて。物語を読むのが好きだから。でもね、自分の声、好きじゃないんだ。なんか、特徴もなくて、平坦で……。オーディションにも、落ちてばっかりで」
それは誰にも、三年前の石橋くんにも言えなかった、私の本音だった。
「ほうか」
彼は、鏡越しの私をじっと見つめて言った。
「俺は……ええ声だと思うけどな」
ジョキッ。
古びた畳に、一束の黒髪が、パサリと落ちた。
「あんたの声は、まっすぐだわ。俺が忘れてたもんを、思い出させてくれるくらい、強い芯がある。未来の大須の話をしとる時の綾菜、どえらい生き生きしとったぞ。物語を語る才能、あるんじゃないか?」
「……そう、かな」
思ってもみなかった言葉に、胸が熱くなる。
「そうだがね! だから、自信持て。俺が保証したる」
切り終えた後、私は彼の頬にそっと触れた。
「いいね。こっちのほうが、ずっと好き」
その言葉に、彼は私の腕を掴み、そっと引き寄せた。彼の顔が近づいてくる。あの夕立の日が蘇る。汗と、夏の青の匂い。彼の匂い。
彼の唇に、自分のそれを重ねる。三年前より少しだけ大人びた、でも変わらない彼の感触。三年前の夕立の雨の匂いが、学ランの硬い感触が、時間も、理屈も、何もかもが溶けていく。これ以上を求めてしまう自分に気づいてしまう。
彼の大きな手が、どうしたらいいのか分からないみたいに、私の背中のあたりをさまよう。
――私が唇を離そうとした、その瞬間だった。
彼は、私のシャツの裾をぎゅっと握りしめた。
激しい抱擁よりも、ずっと雄弁だった。そんな不器用で、誠実な彼がたまらなく愛おしくて、私はもう一度だけ、今度は少しだけ深く、唇を重ねた。彼の体は、びくりと小さく震える。
唇が離れた後、彼の息遣いがすぐ近くに聞こえる。彼の瞳に、私が映っている。その瞳が、あまりに優しくて、そして切なくて、私は自分の心が、この瞬間に永遠に囚われてしまえばいいとさえ、願ってしまった。
「どうした? さっきから、何か思い詰めとるだろ。三年前のあんたなら……」
彼の優しい問いかけに、こらえていたものが、ぷつりと切れた。涙が、私の瞳からあふれ出す。
「石橋くん、覚えてる? 熱田神宮で聞いた、あのお告げ……」
「ああ、『歌の心を重ねて、鉄の魂を鳴らせ』とかいうやつか」
「あの時、神様はこうも言ってたんだよ。『されど、乙女の心が過去に縛らるる限り、時の扉は開かれじ』って」
「まさか……」
石橋くんは、全てを察したようだった。
「お告げの『乙女』が、私のことだって、頭のどこかでは、きっと分かってたんだと思う。でも、心が、それを認めるのを、ずっと拒んでた」
「綾菜……」
「だって、それを認めたら、本当に帰らなきゃいけなくなるから! あなたとの思い出に縛られてる心が、帰るための邪魔になってるなんて、そんなこと、考えたくもなかったんだよ!」
私は、彼のシャツをぎゅっと掴んだ。嗚咽が、喉の奥から込み上げてくる。
石橋くんは、そんな私を、ただ黙って、強く抱きしめた。彼の胸の中で、私は子供のように泣いた。帰れないかもしれない不安も、彼を好きでたまらないこの気持ちも、全部が涙になってあふれ出していく。
どれくらい、そうしていただろう。
石橋くんは、私の背中を優しく叩きながら、静かで、でも力強い声で言った。
「分かった。よう分かったがね、あんたの気持ち」
彼は、そっと私の体を離し、涙でぐしゃぐしゃになった私の顔を、まっすぐに見た。
「だったら、俺が、その呪いを解いたる」
「え……?」
「あんたの未練に、全部背負わせるわけにはいかん。これは、俺たちの物語だでな。終わらせるなら、二人でだ」
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