第8話 黒鉄色の魂
喫茶店を出て、夕暮れが近づく静かなアーケードを、石橋くんが自転車を引き、私たちは並んで歩き始めた。昼間と変わらず、人影はまばらだ。
私の数歩前を、大きな背中が黙って歩いている。さっきまでの、あの熱っぽい瞳はどこへやら。今の彼は、また少しだけ不機嫌そうに口を結んでいた。
――きっと、照れているんだ。
彼の心、その温かさを、もっと近くで感じていたかった。私は意を決して、少しだけ早足になり、彼の大きな手の指先に、自分の指をそっと絡ませた。
ガシャーン!
石橋くんに引かれていた自転車が倒れ、彼の体が石みたいに固まる。驚いて振り返った彼の顔は、耳まで真っ赤に染まっていた。そういうところ、三年前と何も変わっていなくて、ちょっと笑ってしまいそうだった。
私は絡ませた手をぎゅっと握り、彼をまっすぐに見上げた。ほんの少し、挑戦的な表情を意識して。
「石橋くんが、また遠くに行っちゃいそうだったから」
私の言葉に、彼はぐっと息を詰まらせた。何か言いたそうに口をぱくぱくさせた後、大きなため息を一つ。観念したように、ぷいと前を向いてしまった。
「好きにしろ」
そのぶっきらぼうな声は、降参の合図だ。私の手を振り払う代わりに、ごつごつとした彼の指が、私の指に不器用に絡みつき、ぎゅっと、力強く握り返してくれた。
いったん自転車に乗り、彼が私を連れて行ったのは、大須観音のすぐ近くにある万松寺だった。現代とは違って本堂のビルもなく、広い境内には、時折聞こえる鳩の鳴き声だけが寂しく響いていた。
「ここは、織田信長の親父さんの寺なんだわ。昔はよく、この辺で開かれとる骨董市に、親父と来たんだ」
静かな境内を歩きながら、彼がぽつりぽつりと話す。
「親父がな、よく言っとった。『古いモノには、魂が宿る。作った人間の魂も、使った人間の魂も、全部吸い込んで、ただのモノじゃなくなるんだ』ってな」
彼の横顔は、遠い昔を懐かしむように、少しだけ穏やかだった。
私たちは、小さなお堂の前に置かれた縁台に腰を下ろした。彼は、繋いだままだった私の手を見つめ、そして、ゆっくりと話し始めた。
「ずっと考えとった。あんたが、なんでまた俺の前に現れたのか」
「……うん」
「最初は、ただの偶然かと思った。でも、違う。熱田さんで聞いたお告げ、綾菜が話してくれた未来の話、そして、さっき喫茶店での言葉……。全部が、一つの線で繋がり始めた気がするんだ」
彼は、繋いでいない方の手で、隣に置いた自転車――ケッタマシーンのフレームをそっと撫でた。
「親父の言う通り、もし、こいつに『魂』があるとしたら……。親父が俺のために組んでくれた想い、俺がこいつと走った時間の思い出。そして……三年前、あんたと出会ったあの夏の日の、強烈な記憶。そういうもんが、全部こいつに詰まっとるとしたら、それはもう何だと思う?」
突然、話を振られた。私は、戸惑いながらも、必死に言葉を探す。
「……物語、かな」
「そうだ。こいつはもう、ただの鉄の塊じゃない。俺たちの物語そのものなんだわ。……なあ、綾菜。あんたは、物語が好きか?」
「……うん。好きだよ」
好きなのに。好きなはずなのに。
――君の声には、物語がないね。
落ちてしまった声優のオーディション。審査員のあの言葉を思い出し、胸の奥が、ちくりと痛んだ。
彼の声には、次第に熱がこもり始める。
「じゃあ、聞くが。もし、あんたの好きな物語が、どうしようもなく悲しい結末――バッドエンドを迎えそうになっていたら、どうなってほしいと願う?」
「……ハッピーエンドに、なってほしい。たとえ、それが奇跡だったとしても」
「だろ? なら、結論は一つだ。こいつ自身が、自分の物語の結末を変えるために、奇跡を…… あんたを、ここに呼んだとしたら? 物語が始まった、あの夏に――」
それは、あまりに突飛な、しかし、不思議なほどに説得力のある仮説だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます