第5話 白き街の歌
下宿先に戻ると、私は石橋くんに尋ねた。
「神様が言っていた『希望の心』ってなんだろう。『白き街の歌』とも言っていたけど、やっぱり、あの歌のことだよね。あ、石橋くんは聞こえてなかったから分からないよね。……ねえ、石橋くん。どうして、あの『白い街』って歌が好きなの?」
彼は少し照れたように、窓の外を見つめて語り始めた。
「あの歌はな、希望の歌なんだわ。『白い街』ってのは、まだ何色にも染まっていない、未来そのものだ。この名古屋で、俺たちの手で、幸福や美しいものや、忘れられない思い出を創っていくんだっていう、そういう決意の歌なんだ」
彼の言葉に、私は頷く。
「うん、なんとなく分かる気がする。一番の歌詞は、まさにそんな感じだもんね。『この道の はるか彼方の 雲流れる下に 幸福がある』って」
石橋くんは、遠い目をして続けた。
「あの歌詞はな、汗水たらしてモノを作っていた親父の姿そのものだった。工場で、ラジオから裕次郎の歌が流れると、下手くそな鼻歌を歌いながら、鉄を叩いとった。あの時の親父の背中が、俺の原風景なんだわ。だから、俺も職人を目指した」
「じゃあ、二番の歌詞は? 『青い空に浮かぶ 美しい
ちょっと期待して、口にした私の言葉。彼の表情がふっと曇った。
「それは……」
彼は言葉を探すように、部屋に積まれた本の山に目をやった。
「それは、俺にとっては……美しい物語のことなんだわ。俺はもう、職人にはならん。モノは創らん。これからは、言葉を創る。編集者になるのが、俺の新しい夢だ」
彼は、まるで自分に言い聞かせるような、早口で言った。この時代に来て、彼から聞いた新しい夢だった。最初に聞いた時は、それ以上、何も聞けなかった。
――いや、聞かなかったのだ。
今、この時、一番の歌詞を語る時の彼と、二番の歌詞を語る時の彼とでは、声の温度が、まるで違っていた。
だからこそ、私は聞かなければならないと思った。彼の最も深い傷に触れることになる、最後の質問を。
「どうして? どうして、モノづくりの夢を、諦めちゃちゃったの?」
私の言葉に、彼の顔から表情が消えた。
「親父は、死んだんだわ」
絞り出すような声で告げられたのは、想像以上に重い事実だった。
「知っとるかもしれんが、今、日本はオイルショックでえらいことになっとる。うちの工場も、その煽りを受けてな。去年、潰れたんだわ」
淡々と、彼は続ける。
「職人だった親父は、仕事も、生きがいも、全部なくした。毎日、酒ばっか飲んで、抜け殻みたいになっちまってな。俺は、どうすることもできんかった。あんなに誇りを持っとったモノづくりが、時代が変わったら、いとも簡単に人を絶望させる。それが悔しくて、許せんかった」
歴史に記された出来事、それは過去にあった事実なんだ。考えてもみなかった現実を目の前に突きつけられ、彼にかけるべき言葉を見つけられない。
「工場が潰れて、借金だけが残った。希望をなくして、あの工場で……自分で命を絶った。一番の歌詞はな、希望なんかじゃなかったんだ。親父を殺した、呪いの歌にさせちまったんだ。……だから、そんな夢、もう考えたくもねえ」
彼の声は、乾いていた。私は、何も言えなかった。彼の、一番触れてはいけない傷に、土足で踏み込んでしまったのだから。
その夜、部屋の対角線上の、一番遠い場所に布団が敷かれた。電気が消えた暗闇の中、彼の布団から、シーツを噛みしめるように、微かなすすり泣きが聞こえてきた。私は息を殺し、眠れないまま、自分の愚かさを責め続けた。
気まずい朝。ちゃぶ台に並んだ質素な朝食を前に、どちらも口を開けない。お箸の音だけが、部屋に小さく響いていた。
沈黙を破ったのは、彼だった。
「悪かったな、昨日。重い話して。綾菜には関係にゃあことだ」
「ううん、私こそごめん。何も知らずに、勝手なこと言って……本当にごめんなさい」
私が頭を下げると、彼は「いや」と首を振った。
「俺も、あんたがどういう気持ちでここにいるのか、ちゃんと考えとらんかった。自分のことばっかで……悪かった」
「私も、私が知ってる石橋くんを押し付けてた。ごめん……」
謝罪の言葉が、空回りするように部屋を漂う。私たちの視線は、交わろうとしているようでいて、決して交わらない。
「なあ、綾菜。あの歌の、三番の歌詞、覚えとるか?」
石橋くんの唐突な問いに、私は顔を上げた。彼の目は、ちゃぶ台の上の湯呑を見つめている。
「『楓にひめた東山 杜にのこした 雨のくちづけ』……」
彼の口から紡がれたその言葉に、あの夏の日の、ひんやりとした夕立の匂いが、鮮やかに蘇る。ゴワゴワした学ランの感触。そして、彼の硬い唇。
彼は、ゆっくりと顔を上げて、初めて私の目をまっすぐに見た。
「一番の歌詞は、親父との思い出だ。二番は、俺がこれから目指す夢だ。……けどな、三番だけは、違う。あれは、あんたとの思い出だがね」
「石橋くん……」
「親父が死んで、夢も希望も、全部呪いに変わっちまったと思った。けどな、昨日、あんたがあの歌のことを聞いてくれた時、思い出したんだわ。あの歌には、呪いだけじゃにゃあ、あんたとの、たった一つの、輝くような思い出も残っとったんだってな」
彼の瞳は、少しだけ潤んでいた。
「だから、悪かった。俺は、あんたに八つ当たりしとっただけかもしれん。……許してくれ、綾菜」
その言葉に、私の涙腺も、もう限界だった。
「私の方こそ、ごめん……ううん、ありがとう。石橋くんに、会えてよかった」
私たちの視線が、今度こそ、まっすぐに繋がった。
「まあ、ええわ!」
彼が照れを隠すかのように、大きな声で言った。
「出かけるぞ、綾菜! 神様が言っとる、希望の心を重ねるために、もう一度、名古屋の街を巡るでよ! 今日こそ、けりをつけにゃいかん!」
その声は、三年前に聞いた、あの自信に満ちた少年の声に、少しだけ戻っているような気がした。
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