第4話 過去に縛られる乙女

 朝食の時間、私は彼に言った。

「石橋くん。私、熱田神宮に行きたい」

「熱田さんか? なんでまた急に」

「夢で誰かに呼ばれたの」

「あんた、また馬鹿なこと言っとるな。……まあ、ええわ」

 あきれながらも、彼は立ち上がった。

「今日は午前中の講義が一コマだけあってな。それが終わったら付き合ったる」


 そうは言われたものの、また一人になるのは少し心細かった。それに彼のことをもっと知りたい。そう思った私は、こっそり彼の後をつけて大学へ向かった。

 文学部の講義室。一番前の席で、彼は偉そうな……実際に偉いのだろう教授の話に熱心に頷いていた。講義が終わると、友人らしき学生と「サルトルの実存主義は……」なんて、私にはちんぷんかんぷんな議論を交わしている。

 モノづくりとは、まったく違う世界。でも、そこにいる彼は、確かに生き生きとしていた。彼の新しい夢は本物なんだと実感して、なぜだか胸がちくりと痛んだ気がした。

 私は、彼に気づかれないようにして、そっと講義室を出た。


 午前中の講義が終わり、石橋くんが下宿先に戻ってきた。駐輪場に停めてある自転車のところまで移動する。

「ほら、乗れ。熱田さんまで乗せたる」

 私は恐る恐る、大きな荷台に腰を下ろした。ゴツゴツした感触は、三年前と同じ。でも、目の前にある背中は、硬い学ランではなく、柔らかなシャツに包まれている。

 どこに手を置けばいいのか分からず、私は荷台の冷たい鉄の端をぎゅっと握りしめるしかなかった。三年前は、あんなに迷わず彼の裾を掴めたのに。


 風を切り、熱田神宮へ向かう道すがら、大きな看板が目に入った。

「わあ、あつた蓬莱軒! 当たり前だけど、この時代にもあるんだね! せっかくだから、この時代の蓬莱軒で、ひつまぶしを食べてみたいかも!」

 キィィィィ!

 突然の急ブレーキ。体がつんのめり、危うく彼の背中にダイブしそうになった。

「そ、そんな贅沢なもん、学生が食えるか!」

 石橋くんが自転車を停め、怒鳴るように言った。

「大丈夫、大丈夫。お金なら私が出すし」

「女にそんなこと、させられるか!」

 私は得意げに財布を取り出し、一万円札を見せた。その瞬間、はっとする。そこに描かれているのは、福沢諭吉。

「なんだ、その札は?」

 石橋くんが私の手元を覗き込む。そして、私の顔を真剣な表情で見た。

「分かっとったけど、やっぱりあんたは……この時代の人間と違う、未来の人間なんだな」


 目も合わさず、言葉少ななまま、私たちは熱田神宮の境内へと足を踏み入れた。樹齢千年を超えるという楠の巨木が作る木陰は、夏の熱気を遮り、ひんやりとした空気が漂っている。

「ごめん、石橋くん。さっきは、なんだか変な空気にしちゃって」

 熱田の森の神聖な雰囲気に促されるように、私はぽつりと謝る。

 本当に私、どうしちゃったんだろう。変に明るく振る舞っちゃって。

 石橋くんは、自転車を押す手を止め、ふっと息を吐いた。

「いや、俺の方こそ……変な目で見て悪かった。うまく言葉が出んかった。言いたかったのは、やっぱ、あんたは不思議な奴ってことなんだわ。三年前も、いきなり現れて、俺が言ったケッタマシーンの言葉の響きに、いきなり笑い転げて……。今も、そうだ。いきなり、ひつまぶしを食いたいって言って、わけの分からん札を出してくるしな」

「石橋くんだって、じゅうぶん不思議だよ。将来の夢が変わってしまったと思ってたら、昔と全然変わらないところもあったりして」

「そうか。俺は、変わっとらんか?」

「うん。根っこの部分は、きっと変わってない。まっすぐな石橋くんのままだよ」

 私たちは熱田の森を進む。相変わらず目は合わさないけど、お互いに不思議さを認め合ったことで、張り詰めていた空気が少しだけ解けた気がした。


「それで、だ。綾菜。夢で呼ばれたのはええけど、どうすりゃあええ?」

「うーん……。分からないけど、とりあえず祈ってみればいいのかな」

 私は自転車にそっと触れながら、目を閉じて真剣に祈る。すると、どこからともなく、重々しい声が頭の中に響いた。


『汝、その時代に還りたくば、白き街の歌に込められし希望の心を重ね、黒の魂を鳴らすべし。されど、乙女の心が過去に縛らるる限り、時の扉は開かれじ』


「今の声! 石橋くんは聞こえた!? もしかして、熱田神宮の神様……なの?」

「……俺は、何も聞こえんかった。綾菜の気のせいだろ」

 石橋くんは笑うけど、私は確信していた。

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