第3話 熱田の森に誘う声
その夜、石橋くんが作ってくれたのは、袋タイプのインスタントラーメンだった。
「ほらよ。少しは腹の足しにはなるだろ。お湯を入れて三分だ。どえらい文明の利器だがね」
「わあ、おいしそう! ありがとう、石橋くん!」
差し出された丼から立ち上る、チキンラーメンの香ばしい匂い。でも、変な感じ。きしめんの時もそうだったけど、日本にいるのに海外で食べる日本食みたいな……。
湯気を目で追っているうち、ふと、私は思った。
「そういえば、この時代って、もうカップに入ったラーメンもあるよね?」
「日清のやつか。テレビで見たことあるわ。けど、ありゃ高いがね。学生が食うもんじゃない。贅沢品だわ。こっちの方が、卵も入れられるし、よっぽどうまいがね」
彼は、どんぶりの中で白くなった生卵を指差すと、少しだけ得意げに胸を張った。
「そっか……。私の時代ではね、もうほとんどがカップなんだよ。お店も棚も、全部、カップラーメンで埋まってる。味も、信じられないくらい種類があって……こってりした豚骨とか、辛い味噌とか、有名なお店の味を再現したものとか、大きなチャーシューが入ってるものまであるんだから」
「ほうか、そりゃすごいな。チャーシュー入りのラーメンが、お湯入れるだけで食えるんか……」
石橋くんは、心底感心したように目を丸くした。
「そうなの。それでね、私、日清のカップヌードルに入ってる謎肉が好きなんだ。発売当初から入っているって聞いたけど、本当なのかな」
「うーん、食べたことないから分からんなあ。あんたの時代で言われとる謎肉、一回食べてみたいもんだわ」
そんな、何気ない会話を交わす。その一つ一つに、私たちに流れている時間の違い、埋められない時間の溝を改めて感じてしまった。
石橋くんから、女子が着ても変ではない服をいくつか借りると、下宿先のお風呂を貸してもらった。温かい湯船に肩まで浸かると、一晩中ペダルを漕ぎ続けた疲労が一気に押し寄せてくるようだった。石橋くんが客用の布団を敷いてくれるのを、私はもう、半分まどろみながら見ていた。
「ほら、疲れたんだろ。今日はもう寝ろ」
「……うん。ありがとう」
彼の言葉に甘え、布団に倒れ込むように横になる。障子一枚を隔てた向こうに、彼の気配を感じながら、私の意識は遠のいていった。
私は、夢を見た。あの夏の日の夢。
アスファルトが陽炎を揺らす、八月の午後。私は、自転車の後ろに乗っていた。目の前には、時代錯誤の学ランに包まれた、彼の広い背中。
「どうだ、ええ歌だろ。今日はこの歌になぞらえて、昔の名古屋を案内したる。俺のケッタマシーンの特等席で見とりゃあよ!」
昭和の時代の歌謡曲、石原裕次郎の『白い街』を情感たっぷりに歌い、ニカッと歯を見せて笑う、今より少しだけ幼い、夢の中の彼。その声は、自信と、未来への希望に満ちあふれていた。
自転車に揺られながら彼の背中を見ている。そうしていたら、頭の中に直接語りかけるような、人間とも機械ともとれない、不思議な響きの声が聞こえてきた。
『どうか私を見つけて。熱田の森へ。
そこで目が覚めた。
障子の向こうから、静かな寝息が聞こえる。夢の中の彼の姿と、今日会った、少し大人びて、どこか影のある彼の姿が、頭の中で交錯する。
たった三年。でも、その三年が、彼から何を奪い、何を変えてしまったんだろう。私の知らない時間が、もどかしくて、彼に聞くのが少し怖かった。
そして、耳の奥に残る、あの不思議な声。『熱田の森へ』という言葉は、一体なんだったのだろう。
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