第2話 失われた夢の匂い
学生食堂は、たくさんの学生でごった返していた。石橋くんは慣れた様子で食券を買い、私の前に湯気の立つきしめんを置いてくれる。
「うわあ、醤油とおだしのいい香り……」
だし汁に浸かりきらない、てんこ盛りの花かつおがステージの上、ひらひらと舞い踊っていた。
「いただきます!」
お箸を割り、くたくたに煮込まれた幅広の麺をすする。温かいだし汁が空っぽの胃に、一晩中走り続けた体に、ゆっくりと染み渡っていく。
口に残った花かつおを、ぎゅっと噛み締める。塩味と旨味に隠れた、ほのかな酸味がじわりと染み出て、ボロボロになった体を癒してくれる。
「おいしい……」
半ば脊髄反射で出た言葉だった。きしめんに夢中になっている私を黙って見ていた彼は、だし汁を一口すすってから切り出した。
「それで、だ。一体全体、どうなっとるんだ? 三年前、あんたは未来に帰ったはずだがね。その格好も、相変わらず変わっとるし」
「それは……私にも分からなくて……」
「だろうな」
彼はあっさりとそう言うと、一つため息をついた。
「それより、綾菜。今晩どうするんだ? 行くとこ、あるんか?」
私は黙って首を横に振るしかなかった。
「しゃあない、俺んとこ来るか」
「えっ、でも、迷惑じゃ……」
「俺がええと言っとるだろ。迷惑とか気にすんなて。俺んとこはただの木造アパートだで。大家のばあさんも隣町に住んどって、めったに来やせん。まあ、汚くて男臭いけど、それでもよけりゃ、来い。……別に変なことなんて考えとらん」
石橋くんは俯くと、恥ずかしそうに頭を掻いた。
「ありがとう、石橋くん……」
変わらない、不器用な優しさ。当時の学ラン姿ではないし、髪も長く伸びているけど、目の前にいるのは、やっぱり、あの石橋くんなんだ。そう思うと、少しだけ救われた気持ちになった。
石橋くんの下宿先は、四畳半の、いかにも学生らしい部屋だった。壁には難しそうな本のタイトルが並び、畳の上には書きかけの原稿用紙が散らばっている。
私は、彼に一番聞きたかったことを切り出した。
「ねえ、石橋くん。どうして、工学部をやめちゃったの?」
「ああ、そのことか。……色々あったんだわ」
彼は、少しだけ目を伏せた後、部屋の隅に積まれた本の一冊を手に取った。
「今はな、こっちの方が面白いんだわ。モノはいつか壊れる。だが、ええ物語は人の心に残り続ける。俺は、そういうもんを創る手伝いがしたい。才能ある作家を見つけ出し、最高の物語を世に送り出す編集者になる。それが、今の俺の、新しい夢だがね!」
「なんで、石橋くんは……」
「それよりもな、綾菜、聞いてくれ! この本に書かれとることはだな――」
彼の目は、三年前に見た時と同じくらい、強く輝いていた。でも、その匂いは違っている。油の匂いではなく、インクの匂いがする夢。その匂いに紛れさせるように、何かを隠していると思った。
なぜ、あんなに誇りを持っていたモノづくりの夢を諦めてしまったのか。その一番大事な理由を、彼はまだ話してくれそうになかった。
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