黒鉄色のケッタマシーン解
平手武蔵
第1話 再会
息が弾み、鉄が軋む。先の見えない、暗い坂道。
車のヘッドライトが、夜の川を駆けていく。
あの言葉だけが、私にとって、本当の光だった。
私の名前は
現実逃避のサイクリング中に、いきなりタイムスリップしてしまったのだ。昔の名古屋――昭和四十五年の名古屋に。そこで出会ったのは、
でも彼は、未来が見えなかった私に、まっすぐな夢を語ってくれた。
「俺は名大に行く。日本一の職人になる」と。
たった一日、彼の自転車の後ろに乗って巡った、昔の名古屋。そして、東山の杜。夕立の中、不器用に触れ合った唇。
奇跡みたいな時間は終わり、私は再び時を飛び越えた。でも、そこは元の時代じゃなかった。それから三年後の昭和四十八年。絶望しかけた私を救ったのは、彼の言葉と、一緒に時を超えてきた、あの「ケッタマシーン」だった。
絶対に会いに行くんだ――その想いだけを胸に、私は夜の名古屋を、彼がいるはずの名古屋大学へと、ひたすらペダルを漕いでいた。
東山の丘を上る坂道は、私の体力を容赦なく奪っていった。お腹はペコペコ、体はもう限界。
――なんで、こんなところにいるんだろう。
元の時代でも、うまくやれてたわけじゃない。声優のオーディションに落ちて、「君の声には、物語がないね」なんて言われた。声だけじゃない、全てが嫌になって……現実から逃げるみたいに、自転車をかっ飛ばしてた。
――石橋くんは、あんなにまっすぐ夢を語ってくれたのに。
私には、魂を込めて語れる物語なんて、何もない。それでも、ペダルを漕ぐのをやめなかった。
ようやくたどり着いた、名古屋大学の東山キャンパスは、すでに朝の活気に満ちていた。私の格好は、現代ではごく普通の、少しだけおしゃれな、機能性を重視したサイクリングウェア。でも、この時代の学生たちの目には、それがひどく異質に映るらしかった。
「おい、見てみやあ、あそこの女。なんちゅうカッコしとるんだ」
「うわ、どえらいナウいがね。ピッチピチだぞ」
「ありゃ、ほとんど外人さんだがね。スタイル、バツグンだわ」
「おい、声かけてこいよ、お前」
「やめとけって。なんかオーラが違うがね。俺たちとは住む世界が違う感じだがや」
遠巻きに聞こえてくる、ひそひそとした、ささやき声。好奇だけではない、からかいの混じった視線が肌に突き刺さる。
そんな視線から逃れるように、私は、いかにも工学部らしい、厚い眼鏡をかけた学生を捕まえて尋ねた。
「すみません、石橋和也さんっていう人、知りませんか?」
「石橋? ああ、和也なら知っとるけど、あいつは工学部じゃないぞ」
「えっ!?」
「去年、文学部に移ったんだわ。理由は知らんが、モノづくりの夢、諦めたんだとよ。でも惜しいよな。あいつ、頭いいし、手先も器用だったのに」
学生の言葉に、純粋な驚きなんかより、疑問符で私の頭はいっぱいになった。
どうして? あんなに楽しそうに、モノづくりの夢を語ってくれたのに。この三年間。たったの三年で、石橋くんに一体、何があったって言うの?
途方に暮れ、学食の前のベンチにへたり込んだ、その時。
ぐぅぅぅぅ。
静寂を破る、情けないほど大きな音。
周りに聞かれたら、恥ずかしすぎる……!
「どえらい腹の虫だがね。あんた、大丈夫か?」
思わず顔を覆った私の耳に、懐かしい声が降ってきた。顔を上げると、そこに彼がいた。
――石橋くん。
でも、その姿は私の記憶とは少し違っていた。もちろん高校生の着る学ランではなかったけど、当時流行りのベルボトムに、少し伸ばした長髪。手には難しそうな哲学書を抱えている。
私の顔を見て、驚きで目を見開いた。
「綾菜か!? どえらい久しぶりだがね! なんで、あんたがここに! ま、ええわ! 会えて嬉しいがや!」
彼は心の底から、無邪気に再会を喜んでくれた。見た目は少し変わっていたけど、その笑顔は、三年前と少しも変わっていなかった。
「石橋くん! ああ、会えてよかった! 石橋くんのケッタマシーンのおかげで、ここまで来れたんだよ!」
私が懐かしさからそう呼ぶと、彼の笑顔がふっと消え、少し眉をひそめた。
「ケッタマシーン? マシーンてなんだがや。そんな呼び方、もう古臭くてかなわん。ただのケッタでええ」
彼の冷たい反応に、胸が締め付けられる。三年前にあれほど誇らしげに語っていた彼の熱は、どこかへ消えてしまっていた。
気まずい沈黙が流れる。私の顔を見て、彼は何かを察したように明るい声を出した。
「まあ、ええわ。それより、腹減っとるんだろ。学食のきしめん、うまいぞ。俺が奢ったるがね」
ぶっきらぼうな優しさに、私はこくりと頷いた。
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