東京から逃げなさい。
板花青
第1話 私の姉が変なことを言い始めました。
*このお話は、東京都内で不動産会社に勤務する私が経験した本当の話です。
よって、作中に登場する人物・会社名・地名などは仮名や仮のものだったり、
別の物に変更したりしている場合があります。
また、作中の描写から会社名や具体的な人物などを特定することはおやめください。個人などに関するするご質問にもお答えできませんので、あらかじめご了承ください*
私には少し歳が離れた年上の姉がいます。約5年前に結婚して、このお話の当時は都内に住んでいました。そんな姉から電話があったのは、その年の夏のことでした。
「ユースケ、わたし離婚することになった」
あっけらかんとスマホの向こうで喋る姉の声は普段と変わらないものでした。ユースケというのは私の名前ですが、申し訳ありませんが以下、登場人物名はすべて仮名ということでご納得ください。
姉のリョウコは埼玉に実家があり(ということは、とうぜん弟の私も埼玉出身です)、服飾系の専門学校を卒業してから都内で働いていましたが、仕事先で出会った当時の旦那さんと結婚していました。
結婚後すぐ子宝に恵まれ、4歳になる娘さんが居ます。姉の旦那さんと私は、結婚式以降は数回会うことがありましたが、夫婦仲がうまくいっていないという話は全然聞いていませんし、そんな雰囲気もありませんでした。
とつぜん「離婚する」という姉の唐突な言葉に私は面食らうばかりです。「え、なんで?」という私の二の句を待たないまま、姉は続けました。
「そんで来月さー、引っ越しすることになったから、引っ越し手伝ってくれない?」
いやいや、引っ越しはともかく、その前に離婚の原因を話してくれなければ納得できません。そもそも姉は、旦那さんと結婚するときに、都内に中古のマンションを夫婦名義で購入していたのでした。
不動産を夫婦の共同名義で持っている場合、離婚となると、その財産をどうするのかなど、様々な手続きが必要です。学生の身分での付き合った・別れたという話とは全く別次元の、解決するべき権利の問題が発生するのです。
「姉ちゃん待ってよ。手伝うのはいいけど、離婚の原因は何なの。リョージさん(姉の夫の名前です)と仲良さそうだったじゃん。それに、キッカちゃん(姉の娘の名前です)はどうするの。いきなり言われても・・・」
「うん、キッカの親権は私が持つことになったから。そんで、離婚の原因は、電話だと上手く話せないから、あんたに会ってから言うよ」
こんな感じで、姉は有無を言わさず弟の私に引っ越しの手伝いを強引に納得させたのでした。姉は基本的には勝気な性格で、こうと決めたら即座に動くタイプではあります。
姉はすごく派手というわけではありませんが、中学・高校時代は異性にかなりモテるタイプでした。控えめな性格だね、とよく言われていた私とは正反対の性質です。姉の彼氏が毎度実家にやってくるのですが、数か月の期間で別の男子と入れ替わっていたのを弟の私はよく目撃していました。
そういった姉のこれまでの男性遍歴を考えると、もしかしたら姉の離婚原因は姉自身の不倫・浮気が原因ではないかと疑ったのです。
私は翌週、水曜日の朝に姉のマンションに向かいました。私は大学を卒業してから宅建(宅地建物取引主任者)の免許を取って都内の不動産会社に勤務しています。
不動産屋の定休日は、ほとんどが週の真ん中の水曜日です。土曜日・日曜日は物件を見たい(これを”
また水曜日が休みという業界特有の慣習は、水曜日の「水」という漢字が、「流れる」という意味を持つので、「物件の契約が流れてしまう(キャンセル)」というのを嫌った、というゲン担ぎの意味もあります。
ともあれ貴重な私の休日が、姉の引っ越しの手伝いというのは、いささか「トホホ」という思いです。
姉が旦那さんと結婚してから買ったその中古マンションは、最寄駅から徒歩20分ほどのところにあり、3LDKで築10年という物件です。これを姉夫婦は、ローンを組んで買ったのですが、不動産のプロである私の目から見ても、すごく良い物件でした。東京都内の中古マンションは、当時から値上がりが激しかったので、少し無理をしてでもローンを組んで買う、というカップルは多いです。
なぜなら将来の値上がりを見込んでいるからです。今ローンを組んで買っても、将来、価値が上がるのであれば売却して利益を得ることもできます。ですから、少し高くても今買っておいたほうがお得な場合も多いのです。
姉のマンションは、駅から少し遠いというのがネックでしたが、当時まだまだ値上がりしていないエリアでした。だから相場よりも少し安い価格で売り出されていたのです。まさに「穴場」という感じでした。
広さも資産価値も十分あり、私は「姉ながら良い買い物をしたな」と思ったものです。姉の旦那さんは都内の貿易会社に勤めていて、安定した収入があります。新婚夫婦の住まいとしては最高だな、と思っていただけに、よもや離婚とは・・・という残念な気持ちが私の頭をよぎりました。
準備の良い姉はマンションの前に大型のバンを停めていました。レンタカーのその車に、家財道具を積み込むという訳です。このとき姉とは半年ぶりに会ったのですが、特にやつれたとか疲れたとかいう風でもなく、普段通りの姉の姿がそこにありました。姉はデニムにタンクトップ姿で、引っ越しにやる気満々といった感じです。
まずまっさきに姉の離婚理由を聞かなければ・・・、と思ったのですが、「それは引っ越しが終わってから」という風に言いくるめられ、5階の姉の部屋から段ボールをバンに詰め込んでいく作業に2時間を費やしました。
せせり立つような積乱雲が真っ青な空に浮かび、セミの声が鼓膜にこびりついてきます。姉に言われるがまま、私は汗だくになって引っ越し屋に徹したのです。
すべて終わったあと、姉はおもむろにスマホを取り出して「この住所に行け」と言います。私は驚きました。カーナビに入力された住所は、長野県の某所だったのです。てっきり首都圏での引っ越しだとばかり思いこんでいた私は、つい、
「長野お!?」
と叫んでしまいました。
「そう長野。長野に引っ越しするの。言ってなかったっけ?」
長らく埼玉で生まれ育った私たちにとって、長野は縁もゆかりもありません。親戚縁者も一人もいません。
「なんで長野なの?長野で暮らすの?キッカちゃんと二人で?仕事は?生活は?どーすんの?」
「そうそう。もうあっち(長野)にはマンション借りてるんだよね」
洪水のような質問をさらりとかわすように姉は答えました。この日、姉の子供は近隣の保育園に預けられていましたが、行きがけにそれを拾って、私と姉とその子供の三人がレンタカーで長野の「姉の新居」に向かうことになりました。
姉の娘のキッカちゃんは、叔父である私のことを「ユースケ」ではなく、「ユー」と短縮して呼びます。長野に向かう高速道路の中で、早くもキッカちゃんは後部座席で寝てしまいました。
「なあ姉ちゃん、なんで旦那さんと別れたの?そろそろ聞かせてよ」
時刻は正午を過ぎていました。カーラジオからは、高校野球の実況中継が聞こえてきます。私は少しだけボリュームを下げてみました。
「さては、お姉ちゃんが不倫したと思ってるだろ?」
と姉は笑いながら聞いてきました。
「違うの?」
「違うって。不倫も浮気もしてないし。協議離婚だから、お互いに慰謝料もなんもないよ」
「ならなんで離婚したの?」
そういうと、姉は少し黙りました。車は遠くの青空にそそり立つ、入道雲を目指して吸い込まれるように高速道路を突き進みます。
「うん・・・。なんかすごく悪い予感がして」
「悪い予感?」
悪い予感、というのは姉の旦那さんの、リョージさんのことだな、と私は思いました。何かリョージさんの会社が倒産しそうだとか、そういうことだなと私はすぐさま思いました。
「いや違うの。リョージのことじゃなくて」
姉は私の思考を読み取って、質問に対して先に回答してくるようなことがあります。血を分けた姉弟だから、と言ってしまえばそれまでですが、姉は幼少のころから何かとカンが良いような部分があるのです。
「リョージさんのことじゃなかったら何なんだよ?」
またも姉は少し黙ったあと、
「なんか、このまま東京に住んでいたら、悪い予感がするんだよね」
と言います。私にしてみればこの姉の回答は「ハア?」なわけです。姉の回答の意味がまったく分かりません。”このまま東京に住んでいたら悪い予感がする?”そんな曖昧な理由で、離婚する原因になるのか。しかもまだ幼い子供もいるのに。そんなことで東京での生活を捨てて長野に引っ越す理由になるのか。私の脳内には数十個の「?」が瞬時に点滅しました。
「悪い予感ってなんなんだよ(笑)」
半ば軽蔑の意味を込めて、私は語気を強めました。
「東京に居たら、悪いことが起こるような気がするんだよ。だから、東京から遠い、”頑丈”なところに引っ越すんだって、色々調べて決めたんだよ。リョージとも話した。一緒に長野とか、山梨でもいいから、とにかく山のほうに引っ越さないかって。移住しないかって。でも、そしたらリョージは東京に通勤できないじゃん。仕事辞めなきゃならないじゃん。だから話し合って、離婚してワタシがキッカと二人で”逃げる”ことにしたの」
高速道路を走る車は長野県に入りました。私と姉は、自然と黙ったままでした。その間、私はいろいろなことを考えました。もしかしたら姉は、本当は別の離婚理由があるのだが、それを弟の私には言いづらいから、テキトーな作り話を言っている説。
もうひとつは、姉が子育てとか夫婦生活の中でストレスにさいなまれて、ちょっと精神的におかしくなってしまったのではないか説。しかし普段と変わらない
姉弟として生まれてからこの方、姉がナイーブになっているときは、私は姉の感情の
そしてすでに離婚をして、娘の親権も獲得して、長野の引っ越し先のマンションも契約している以上、私がいくら異議を唱えても、これをひっくり返すことは難しいと思いました。
新居での荷物搬入が終わって、夜も更け、私がレンタカーで東京に帰ろうとするとき(つまり私が東京に帰ってレンタカーの返却もしなければならないのですが・・・)、見送りに来た姉の言葉が忘れられません。
「ねえユースケは、いつまで東京で暮らすの?」
「え・・・、いつまでって。そりゃあ今の不動産屋に勤めてる間は、都内が仕事場だから、東京で暮らすしかないでしょ・・・」
姉はそのときふっと、寂しいような、悲しいような表情を見せました。姉がそんな表情を観せるのは、ほとんどないことです。
「そっか。でも・・・」
「うん?」
「できるだけ・・・」
「・・・うん」
私はすでに車のキーをひねってエンジンをかけていましたが、姉のその言葉ははっきりと、エンジンの振動の背後で聞こえたのです。
「できるだけ早く、東京から逃げなさい」
(第2話に続く)
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