無明の剣聖~両目を失明したけど夢を諦めきれずに剣を振り続けたら、いつの間にか“見える者”より強くなっていた~
WING
第1章
プロローグ
──その剣は、
その夜、空には月すらなかった。
ただ無数の星が、深い闇に散らばる宝石のように煌めいていた。
まるで静寂の海に浮かぶ光の島々。
緑に包まれた小高い丘の上に建つ屋敷。
そのバルコニーで、一人の母が、幼い息子を胸に抱いていた。
風が静かに吹き抜ける。
母は夜空を仰ぎ、遥かな星の海を指さした。
「この空の上にはね、まだ誰も知らない世界があるのよ」
少年は母の胸に身を預け、小さな顔を夜空へ向けた。
柔らかな黒髪が揺れ、紫の瞳に星々の光が宿る。
彼は、夜風に溶けるような母の声に耳を澄ませていた。
「誰も行ったことがないの? ……飛べる魔法とかでも?」
「いいえ。
そう言いながら、母はやさしく少年の髪を撫でる。
その声には、どこか懐かしさと、憧れにも似た熱が込められていた。
「でもね……たった一人だけ、そこに至った人がいるの」
「え?」
「その名前は——【
それは、遥かな星の名のようだった。
手を伸ばせば届きそうで、けれど決して掴めない。
幻想めいた、誰も知らぬ英雄譚。
その夜、少年は——運命と出会った。
◇ ◇ ◇
これは、【天斬りの剣聖】と呼ばれた、ある少年の剣と空の物語。
むかしむかし、まだこの世界に『空の果て』という言葉が信じられていた頃のこと。
辺境の山々に抱かれた、とある小さな村に、一人の少年が生まれた。
名は伝わっていない。
ただ、風のように静かで、雨のように優しい眼をしていたという。
その村は、空が大地に触れるように広がる『果ての地』にあり、古くからこう言い伝えられていた。
『空の向こうには、神々の座す楽園がある。だが、それは誰にも届かぬもの』
けれど、少年は信じなかった。
——どうして届かぬと、決めつけるのか。
——剣で空を斬れば、その向こうに行けるかもしれない。
そうして少年は、剣を握った。
朝も夜も、雨の日も、雪の日も。
空に挑むには剣を極めるしかないと信じ、ただひたすらに振り続けた。
やがて少年は旅に出た。
世界を巡り、剣士たちと斬り結び、技を盗み、命を削って修羅の道を歩いた。
気づけば、十余年が過ぎていた。
彼の前には、幾百の剣豪たちが立ちはだかった。
「その剣は、風よりも速く、光よりも鋭い」
「だが、空を斬るなど愚かだ。剣への冒涜だ」
それでも青年は笑った。
言葉を返さず、ただ剣を振り続けた。
そしていつしか、人々は彼を――【剣聖】と呼ぶようになった。
剣の頂に至ってなお、彼は剣を振るい続けた。
そして、ある日――。
雲をも貫くほどの高山の頂にて、青年は最後の剣を天に向かって振るった。
その刹那――世界が裂けた。
空が、悲鳴を上げた。
大気は渦巻き、雷鳴が響き、天が裂けたその先に、まばゆい光の道が現れた。
人々はその奇跡を目にした。
空の果てに、楽園のような未知の世界が広がっていたという。
だが――その青年の姿は、二度と誰の前にも現れなかった。
残されたのは、天を裂いた剣のみ。
それは今もなお、雲を割った大地に突き刺さり、光の門を守るかのように佇んでいる。
それが、【天斬りの剣聖】――
◇ ◇ ◇
その語りを聞き、少年の胸は熱を帯びた。
母の言葉は、夜風に溶け、焚火の残り火のように彼の心の奥で燃え続けていた。
まだ何も知らぬ幼き心が、たしかに理解したことがひとつだけあった。
「……僕も、
ぽつりと、誰に聞かせるでもなく呟いたその言葉は、憧れが、夢に変わった瞬間だった。
母が小さく微笑んだのがわかった。
「そう。あの
それは祝福のように、柔らかな言葉だった。
あの日以来、少年は空を見上げるたび、剣を振るようになった。
広い庭の隅にある小さな訓練場で、彼は毎朝一人で剣を振った。
木剣を握りしめ、小さな身体を振り回して、空に向かって何度も何度も打ち込んだ。
大地に足を据え、腕を真っ直ぐに伸ばし、風を斬る音を夢中で追いかけて。
剣の形も知らない。技も知らない。構えも、重さも。
それでも——彼には夢があった。
「お母様……いつか、僕もあの
「いつかきっと、斬れるわ。あなたは、世界で一番努力できる、自慢の息子だもの」
その言葉が、彼の剣の礎となった。
誰よりも高く、誰よりも遠く、空の向こうへ。
それからというもの、少年の剣は――空を目指して振り続けられることとなる。
少年の瞳には、まだ強い光が宿っていた。
夜空を映す紫の瞳は、未来の希望に煌めいていた。
――その日、世界は、音だけになった。
その兆しは、まるで夕立のように唐突だった。
最初は、朝焼けが霞んで見えた。
次に、母の笑顔の輪郭が曖昧になった。
遠くの木々の緑が滲んで、まるで絵の具が水に溶けたように色を流し始めた。
そしてある夜、星を数えていた彼は、目を擦っても空の煌めきが見えないことに気づいた。
不安に駆られ、寝所にいた母を揺り起こす。
「お母様……星が、
母はすぐに医師を呼んだ。
屋敷の使用人たちが慌ただしく動き、父も異例の早さで寝室へ駆けつけた。
だが――それからの数日は、嵐のように過ぎ去った。
どれだけ腕の立つ医師を呼んでも、名のある治癒士に診せても、症状は進行を止めなかった。
少年の瞳から、確実に世界の色が消えていく。
音はある。匂いもある。風の感触もある。
だけど、あの星も、あの空も、あの剣の輝きも——何一つ、もう視えなかった。
「……おそらく“
——星盲症。
極めて稀な視覚障害性の疾患。
特に幼少期から思春期にかけて突然発症し、急速に視力を失い、やがて失明する。
眼球に異常はなく、治療も困難。魔法診療でも原因は不明のまま。
古くから「星を目指す者がかかる病」と呼ばれ、今では『星盲症』の名で知られている。
「……進行を止める手段は、今の医術では……」
医師の静かな宣告が、刃のように室内を切り裂いた。
その日を境に、少年の世界は変わった。
それから程なくして、世界は音だけになり、少年はの目は視えなくなった。
家の階段を上がる音。
母の振るうスプーンの音。
使用人の歩く音。風に揺れる木々のざわめき。
すべての音が、輪郭を持って彼に迫ってくる。
しかしそれは、優しさではなかった。
それは、自分が“もう見えない”という事実を、毎秒刻みつけてくる現実だった。
歩くこともままならず、剣が振れない。
自分の位置がわからない。
的の距離も、軌道も、相手の構えも、何一つ掴めない。
恐怖が、ただ剣を握ることすら躊躇わせる。
あの星空を目指して振っていた剣。
空に届く日を夢見ていた木剣。
それが、今やただの棒になった。
的外れに振り回すだけの、虚しい棒切れだ。
その日、彼は庭の訓練場に立ち、一人、ふらつきながら剣を振ろうとした。
けれど、振りかぶった瞬間、バランスを崩して転んだ。
額を打ち、土の匂いが鼻をついた。
痛みにも気づかず、彼は声を上げた。
「なんで……っ、なんで僕だけ、目が見えないんだ……っ!」
小さな掌で地面を何度も叩く。
涙が止まらなかった。
母は駆け寄ろうとしたが、少年はその気配に気づくと、必死に拒絶の声を上げた。
「来ないでっ! ……お願いだから、放っておいて……!」
「大丈夫。大丈夫よ。きっと――」
「お願いだから、もう、やめてよ……! 優しくしないでくれ……っ!」
「……」
まるで、自分の弱さを突きつけられるようで。
誰かの手が触れるたびに、剣士ではない自分が露わになる気がして。
少年は、誰にも触れてほしくなかった。
夜。
ベッドの上で、布団を頭からかぶり、彼は震えていた。
怖かった。
このまま、ずっと見えないままなのかと。
剣も、夢も、全部、もう掴めないのかと。
それなのに、心の奥には、あの物語の残骸が、今もなお残っていた。
『天を斬った、ただ一人の剣士』
見えなくなった今、なぜかその物語がやけに鮮やかに思い出された。
天を斬ったという、あの剣聖。
彼はきっと、空を見ていた。光を、風を、剣を――全部を視ていた。
だから、
なのに――自分にはもう、それができない。
「夢を、見たことが……間違いだったのか……」
ぽつりと、彼は呟いた。
涙が、枕を濡らす。
「僕が……剣を好きにならなければ……夢なんて、持たなければ……こんなに苦しまなくて済んだのに……っ」
誰にも届かない声。
閉ざされた世界の中で、少年は一人、静かに沈んでいった。
それは、まだ幼き少年にはあまりに酷な現実であった。
夢を抱いた少年が、それを叶えるどころか、触れることすらできず、ただ、見えない闇の中で足掻き、もがき、沈むことしかできない――そんな絶望。
世界は、静かだった。
ただ、己の息遣いだけが、夢の残骸に響いていた――……
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます