第3話 日本アイドル協会
エアコンのよく効いたビルを出るともあっとした熱気に包まれ、袴田真佐志はネクタイを緩めた。夕方という時間なのに外は昼の暑さも明るさも残している。これから始まる帰宅ラッシュの前触れのようにワイシャツの背中を汗で透かせた恰幅の良いサラリーマンが早足に横を通り過ぎていった。
袴田は駅に向かいながら今しがた聞いた話を整理した。被害者はIDOL SUMMER STAGEにいたと考えるのが妥当で、当日出演していたアイドルの誰か、もしくはグループを「推していた」ことになる。
ライブに足繁く通って特典会に参加し、SNSで交流してアイドル本人や他のファンに顔やハンドルネームを「認知」され、同じ「推しメン」を持つグループ―具体的な形を持つものではなく自然発生的なコミュニティー―に所属する。それが今どきのアイドルファンの生態だと矢内が話した。身元がわかればその辺りはすぐに判明するだろう。
夏はアイドルの季節で毎週末どこかしらでイベントが開かれ、同じアイドルが出演すれば同じファンが集まる、と矢内は出演した10組が掲載されたIDOL SUMMER STAGEのチラシをくれた。アイドルに疎い袴田もテレビCMや歌番組に出演する有名どころはグループ名ぐらいは認識しているが、10組全て初見だった。
世間的に知られたグループなら一度は耳にし、おぼろげながらも把握しているから若者の間では有名というわけでもなく、いわゆる『地下アイドル』という括りだろう。メジャーとマイナーの境界はアイドルに限ったことではなく、袴田が若い時代から存在していた。
「現在日本には3000組以上のアイドルグループが存在すると言われています。全国津々浦々、北は北海道から南は沖縄まで無数のグループがありますし、日々新しく生まれていますから正確な数は僕も知りませんし、把握している人はいないと思います」矢内は昨今のアイドル事情をそう説明した。日本アイドル協会のような登録必須の団体は存在せず、グループを結成あるいは加入すれば即アイドルを名乗れるということらしい。
袴田の青春時代は、現在では「アイドル冬の時代」と語られる空白期に当たる。小学生だった80年代は空前のアイドルブームで、歌番組やお笑い番組でアイドルの歌がひっきりなしに流れていた。あの頃はほとんどがソロだった。
いつしかテレビでアイドルの歌唱を見る機会が減り、中学生を迎える頃にはほぼ消滅した。昭和とともにアイドルブームが終焉を迎え、平成入るとバンドブームに移行した。アイドルに地上と地下があるように、バンドはメジャーとインディーズの区分けがあった。
再びアイドルが脚光を浴びるようになった時は二十歳を過ぎていた。興味を持たなかったわけではなくCDを買ったりもしたがそこ止まりで、当時はインターネットの黎明期で今のようにSNSでアイドルと交流することななく、握手会もまれだった。いまでは中学生の一人娘の父親で、アイドルどうこういう年齢ではなくなっていた。
IDOL SUMMER STAGEの会場でトラブルはなかったと矢内はいった。しかし人目に付かない場所あるいは終演後に起きた可能性は否定できない。殺害されたのはこの日でも動機はイベントと無関係とも考えられる。顔見知りの犯行との指摘もある。やはり被害者の身元の特定が急がれる。
現場となった豊洲のN公園周辺で聞き込みが行なわれていた。子どもも多く訪れる公園のトイレで起きた殺人事件に近隣住民、特に幼いこどものいる家庭は不安を煽られた。一日も早い犯人検挙を願い、聞き込みに積極的に応じてくれる人も多かったものの、めぼしい情報はあがらなかった。
事件当夜の雨は強くはなかったが、しばらく降り続いた。夜更けの雨は公園から人足を遠のかせる。公園を訪れていた被害者は雨宿りにトイレを利用し、そこで殺害されたというのが捜査本部の見立てだった。
同じ豊洲にあってもN公園とTOYOSUmeetは直線距離で約2キロ離れており、近いとはいえない。IDOL SUMMER STAGE観覧後被害者はなぜこの公園を訪れたのか。犯人に呼び出されたのか。一緒に来たとすると夜といえどもこの距離を歩けば人目に付く。殺意は公園到着後に生まれたのかその以前か。あるいはクルマで来たのか。タクシー会社に問い合わせているが、いまのところ同時刻に被害者らしき女性を乗せたという証言は得られていない。
IDOL SUMMER STAGEは12時30分開場し午後1時に開演。10組のアイドルが順にライブを行い、途中時間調整や休憩のためのインターバルを挟んで19時に終演したが終演後も特典会は続き、すべての客が退館したのは21時を回っていたと矢内が証言した。ただし目当てのグループの出番が終了次第そそくさと会場をあとにするファンも多く、退館時間にはばらつきがあったとのことだった。
被害者が会場を後にしたのはいつか。最後まで残っていたのか途中で抜けたのか。途中で抜けてどこかで食事をとっていてもおかしくない。身元のみならず足取りも全く見えていない。TOYOSUmeetの周辺でも聞き込みを行っているが、いまのところ被害者につながる情報は得られていなかった。
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