第6話 冷たい正義ー決戦前夜
クラウス殿下は、ゆっくりと立ち上がった。
背筋を伸ばしたまま、足音も立てずに玉座の間の奥へと歩き出す。
「ついてきてくれるかい?」
そう一言だけを残し、彼は背を向けた。
まるで――それ以上の説明が不要だと言わんばかりに。
私とアリシアは顔を見合わせ、小さくうなずき合う。
そして、重々しい石造りの廊下を抜けていくクラウスの後を、無言のまま追いかけ
た。
向かった先は、王城でも最も立ち入りが制限されているとされる場所
――“封印の間”。
クラウスは、その扉の前で立ち止まり、手をかざす。
複雑な紋章が淡い光を放ち、やがてゆっくりと、重厚な扉が軋みながら開いていく。
そして、その奥にあったのは――一本の杖だった。
まるで血を凝固させて削り出したかのような深紅の核を中心に、黒い枝が絡みつくように形成された杖。
見る者を拒絶するような異質さと、それ以上に“呼びかけるような力”を纏っていた。
「これが…… “昼間の魔力”の正体だ」
クラウスの声は、まるで夢から醒めた者のように淡々としていた。
「〈戦禍の魔杖〉――最古の魔女が最期まで手放さなかった、遺産のひとつ。
だが、この杖が使うのは魔力ではない。……血だよ」
彼は懐から小瓶を取り出した。中には、澄んだ紅――保存された血液が揺れていた。
「見せよう。君たちが真実を求めるなら――その目で確かめてほしい」
クラウスは杖を手に取ると、小瓶の血を宙に解き放った。
一滴、また一滴が空中で跳ね、渦を巻き――それは、形を得る。
槍、剣、盾、鎖……そのすべてが、彼の意志に従って変化する。
「これは“魔力”じゃない。血を操る力だ。正確には――“他者の血を素材として使う術式”だよ」
「……誰かが流した血を、戦場に落ちた命の痕跡を……武器に変える」
アリシアの眉がピクリと動いた。私は、クラウスの手の震えを見逃さなかった。
けれど、彼は疲労の気配を一切見せず、むしろ平然と――笑った。
「もちろん、代償はある。集中力、精神力、そして使いすぎれば神経が壊れる。
だけどね、それは“大したことじゃない”。この術の本質はそこじゃない」
彼は杖をひと振りし、宙に浮いていた血の武器を全て霧のように散らす。
そして、はっきりと私たちを見据えた。
「いいかい? 戦場で流れる血は、毎秒のように増えていく。敵も味方も関係ない。そこにあるのは、死体と、それに付随する“リソース”だ」
「……リソース?」
アリシアが問い、クラウスは頷く。
「ああ。戦場で人が死ぬたびに“素材”が増える。
つまり――この力は、戦えば戦うほど“強くなる”んだ。
人間の数が減れば減るほど、こちらが有利になる。そんな簡単な理屈さ」
その声音には、哀れみも悲しみもなかった。
ただ、勝利への最短距離を語る者の、それだけの響き。
「自己犠牲? そんなのは無意味だよ。
生きていなければ、指揮も取れない。使える知恵もなくなる。
だったら僕は、勝つために“使えるもの”は全部使う。
それが人であれ、血であれ――魔女の遺産であれね」
彼の瞳には、炎も氷もなかった。ただひとつ――“冷徹な知性”だけが宿っていた。
私もアリシアも、何も言えずにいた。
けれど不思議と、否定の気持ちは湧いてこなかった。
この男は、 “王の器”ではないのかもしれない。
でも――“戦場を終わらせる男”には、なれる。
そんな確信を、私たちは抱いた。
***
夜中の王城には、二人の女性の話し声が静かに響いていた。
そう。ミレイナとアリシアだ。
彼女たちは、月明かりの差し込む回廊の片隅、細長い窓のそばに腰を下ろしていた。
「……いよいよ、後、7日後には初陣ですね。ミレイナ」
「そう。私が生きる為には帝国は必要だもの」
ミレイナは、まるで自分自身に言い聞かせるように呟いた。
その目は前を見据えているけれど、焦点はどこか遠く――過去と未来、その狭間にあった。
アリシアは、ミレイナの横顔をそっと見つめながら、少しの間、言葉を探した。
「戦いが終わって、帝国が元に戻ったら……ミレイナの家族、紹介してよ。」
アリシアは、月光に照らされ、サファイアのように碧く澄んだ瞳にふらりとポニーテールの金髪を揺らして、
宝石のようにはにかむ。
その笑みを見て、ミレイナの頬が、ふっと緩んだ。
「きっとあの子たち……ミルザにミリアも喜ぶはずだわ。
楽しみにしておくわ。」
「確か、ミルザって元帝国貴族からの王国の子爵様なんでしょ?」
アリシアが困惑した様子で尋ねる。
「……ええ。まぁ、いろいろあったのよ。」
ミレイナの声は少しだけ陰を帯びていた。
「彼がその地位に就くまでは、家族も、私も、ただの傍観者だった。けれど、それは彼にとっても重荷よ。」
アリシアはその言葉に小さく息を呑んだ。
「でも、そんな彼が――」
「だからこそ、ミルザは必死に”戦っている”わ。守るべきものがあるから。」
ミレイナの瞳が強く揺れた。
「だから、ミルザに負担を掛けないように、私は一人、自分を見つけるの。」
アリシアはその決意に深く頷いた。
「私、ミレイナについていくよ。
……戦争が終わっても変える場所なんてないし…ね。」
彼女は再び笑顔を咲かせた。
月明かりの下、二人の影が静かに重なり合う。
その姿は、これから訪れる嵐に立ち向かうための、揺るぎない誓いだった。
***
ここからの七日間は、どこもかしこもが忙しく慌ただしく過ぎていった。
クラウスにより、魔導の金の指輪が追加で各軍に五千ずつ配布された。
さらに、簡略化され統一された詠唱が各“指”へ研修付きで送られ、
アリシアと私を中心に、衛燐隊の千人規模の分隊の将にそれぞれ伝授している様子も、兵舎の至るところで見られた。
兵士達の中には、魔導と訓練する者、自身の剣技を信じる者、魔導と剣……時代の流れに乗る者で別れた。
衛燐隊の1万の内、3千は衛生兵だ。老若男女問わず医療の知識がある者たちの部隊だ。
そんな彼らを守りつつ、時には追撃、遊撃をするのが残りの7千の兵だ。装備は各々自由で、軽装なのもいれば重装な兵もいる、そんな感じだ。
そして、戦いの前の余波から。衛燐隊の中で、決闘が流行っていた。
それは、ただの遊びではなかった。
命のやり取りにはもちろん至らないが――
“誰が、先に斃れるか”を測るには十分な、実戦さながらの打ち合いだった。
「魔導より剣が速い!」
「いや、距離を取れば魔導が勝つ!」
「剣と魔導の融合こそが生死を分ける!」
そんな言い合いが、昼夜を問わずあちこちで繰り広げられ、
兵舎の裏庭、荷車の影、訓練場の隅に、自然と“決闘の輪”が生まれていった。
アリシアはそんな光景を横目に、深く息を吐いた。
「みんな、怖いんだよね。だから剣を振るうことで、恐れを忘れようとしてるの」
その言葉に、私は黙って頷くしかなかった。
確かに、 “訓練”では心が満たされない。
“戦”という現実が刻一刻と迫る中で、誰もが自分の力を、確かめたくなる。
特に、若い兵士ほど。
そんなある日、私の耳に入ったのは、奇妙な噂だった。
――「 “氷咲(ひょうしょう)”の異名を持つ少女が、二十四戦二十四勝」
まるで、風のように現れ、
剣の届かぬ間合いから、詠唱一言で相手を沈めるという。
その“少女”の名は、リュミエル。
アリシアの直属の部下で、早くも魔導を身につけた天才――
決闘場の片隅、彼女は何も言わず、ただ静かに立ち、
そして“ただの一度も、魔導を詠唱した素振りすら見せない”まま、相手を退けていたという。
「リュミエル。やりすぎはよくないわ」
私が声をかけると、彼女は一瞬だけ、細い銀のまつげを揺らした。
「……ミレイナ様。私は、 “殺す練習”をしているのではありません」
「じゃあ、何のために?」
「 “生き延びる練習”です」
その答えは、胸の奥に鋭く突き刺さるものだった。
彼女の目には、私たちの“迷い”よりも、もっと深くて静かなものがあった。
それは――覚悟だった。
衛燐隊は、確かに変わり始めていた。
かつて“追放者たちの寄せ集め”と呼ばれたこの隊は、
今や、魔導と剣を併せ持つ、唯一無二の部隊へと進化している。
だが、それでも。
その“進化”の影には、剣を交え、拳をぶつけ合い、互いの恐れと向き合う者たちの姿があった。
そして、私は気づく。
この“決闘の流行”こそが、衛燐隊の“魂の鍛錬”だったのだと――。
***
その日……戦を3日前に控えたある日の事。
多くの衛燐隊の兵士が、王城に備わる練兵場に集まっていた。
彼らのお目当ては、副将のアリシアと、主将のミレイナ、魔導の新星のリュミエルを含める、衛燐隊の中で実力のある者たちの間で行われる決闘だ。
「…………なんでかしら? 私まで出なきゃいけないなんて」
ちょうど今、ミレイナは練兵場の傍の木の下で、うなだれている。
肩にかけた軽装の防具すら煩わしそうに揺れて、彼女の愚痴が風にまぎれた。
「副将ならともかく、私は“頭”であって、剣士じゃないのよ? 演説ならいくらでもしてあげるのに……」
小声でこぼすその口調には、わずかに拗ねたような響きすらあった。
それでも彼女の纏う気配は、否応なく”魔女の香気”からの威圧を帯びていて、
見物に集まった若い兵士たちの視線は、彼女の背から離れることがなかった。
――実戦で百を救った女。
――剣より速く命令を飛ばす、冷徹の参謀。
そんな噂と期待が、いつの間にかミレイナという人間を“化け物”のように膨らませていた。
「ミレイナ」
そっと声をかけたのは、決闘の仕切り役を任されたアリシアだった。
「気が進まないのは分かるわ。でも、兵たちは、貴女が戦う姿を見たいの。
ただの命令じゃなく、 “背中”で示してほしいのよ」
その言葉に、ミレイナは小さくため息をつく。
けれどその目の奥には、戦場で幾度も“引き金を引いた者”だけが持つ、研ぎ澄まされた光が宿っていた。
「……ったく。アリシア、あなたって本当に、 “正しいこと”しか言わないわよね」
「それが副将の仕事です」
くすっと笑い合う二人の傍らに、銀を帯びた碧い髪がひらりと揺れた。
「ミレイナ様。次の出番、私の次に回しておきました」
リュミエルだ。
淡々とした口調ながら、そこには微かな気遣いと、尊敬が滲んでいる。
「ありがとう。……ほんと、みんな、私を舞台に立たせるのが好きなんだから」
やがて、陽が天頂に差し掛かるころ――
練兵場の空気は張り詰め、群衆は水を打ったように静まりかえった。
中央には、既に数名の決闘士たちが立ち、火花を散らした後だった。
そして、次なる呼び声が、広場に響く。
「――次、ミレイナ・アズベル主将、対するは、《灰色の重装》エラン・グレイス中隊長!」
ざわめきが走る。
エランは、衛燐隊でも屈指の重装兵であり、 “三度の矢を防ぎ、敵陣を一人で抜いた”と噂される鉄壁の男だった。
「わざわざ、硬いのを当ててくるわけね……」
ミレイナは小さく肩を回し、
空を見上げながら、にやりと笑った。
「……ちょっと、大人げないけど、呪縛の力使うしかないか……。」
その瞬間、周囲に魔力の気配が走る。
冷たい風が、草をなでるように流れた――。
そう、それはただの決闘じゃない。
これは“誓い”だ。
この戦を、終わらせる者は誰か。
この戦を、生き抜く者は誰か。
そしてこの戦で、誰の名が刻まれるのか。
静かに構えるミレイナの足元に、魔力が集まりはじめていた。
それは、彼女が最近、操れるようになった――死者の手
そして、決闘の開始が、宣言された――。
「では!」
号令と共に、エラン・グレイスが地を蹴る。
鉄塊のような重装を纏い、その質量全てを武器に変えた男が、真っ直ぐにミレイナへと突き進む。
その速度、質量、風圧――どれを取っても一撃で沈む威力だ。
観客たちが息を呑む中、ミレイナは動かない。動けないのではない。動く必要がないのだ。
彼女の両の指先から、わずかに紫紺の魔力がほとばしる。
地面に、円形の“呪環”が浮かび上がった。
「……縛りなさい――」
その詠唱と同時に、ミレイナの足元から“闇”が伸びる。
いや、 “影”ではない。土の中から這い出す、禍々しい紫の手だ。
それは人の形をした”魔女の魔力”
過去に死地で消えた無数の兵士の魂の“残り火”を束ねた、ミレイナの魔導だ。
「ぐっ……!?」
ブレードを振りかざしたまま、エランの脚が止まる。
否、止められたのだ。足首を、脛を、太腿を、 “死者の手”が絡め取るように縛りつける。
「な、なんだこれは……!?」
観客たちの間にどよめきが走る。
ミレイナは、その様子を冷ややかに見つめながら、静かに歩み出た。
「……悪いけど、剣だけじゃ勝てないわよ?」
彼女は、右側の腰に差していた、アズベルの双頭の鷹を天に泳がせて、エランの顎に止まらせた。
「……ぬ。ぐぅ」
エランは足を踏ん張り、全身の筋肉に力を込めるが、闇の手はまるで意志を持つ蛇のように、逆に絡みついてきた。動かない。
「一応、私、アリシアとは互角なのよ……。」
彼女はそう言って呪縛と剣を収めて、エランに背中を向けて歩き出した。
誰もが、ミレイナの力を――その魔導の深淵を、見せつけられたのだ。
そして。
「……勝者、ミレイナ・アズベル主将!」
声高に勝利が宣言された瞬間、兵士たちから歓声とも悲鳴ともつかぬ声が漏れる。
それは熱狂でも賛美でもない――畏怖だった。
ミレイナは、ただ一つだけ小さく息を吐く。
「……思ってたより、私って強いのね……」
けれど、その背は、誰よりも堂々としていた。
「さすが。ミレイナ」
アリシアはそう言って、私の肩をポンッと叩く。
熱を帯びた観衆の視線が、彼女へと向きを変える。
「それじゃあ、次は私の番ね。」
言葉とは裏腹に、アリシアの瞳はまるで凪いだ水面のように静かだった。
彼女の剣は、決して派手ではない。
だが、その一太刀には、積み上げた訓練と実戦の全てが込められている。
「――対するは、衛燐隊副将・アリシア・バレンタイン! 迎え撃つは、 “黒犬”の異名を持つ、ガロス・ベルド中隊長!」
ざわめきが再び走った。
ガロスは、前線で幾度となく死線を越えてきた古参の兵士。
その鋭さと残忍さは敵だけでなく、味方からも恐れられていた。
「……あの人ね、好きに斬るから」
リュミエルが肩越しにぽつりとつぶやく。
アリシアは静かに頷き、鞘から細身の剣を引き抜いた。
銀の刃が陽光を反射して、まるで月の光のように白く輝く。
「私の剣は、”みんな”の道標になる。それだけ」
小さな声。
けれど、その意志は、練兵場にいる誰よりも揺るがなかった。
――号令が響く。
次の瞬間、アリシアは地面から消えた。
速い、というより“滑った”ような動きだった。
風すら斬り裂くように、白銀の線が閃き――刹那の瞬く間に、彼女はガロスの懐にいた。
「おしまい……」
そのつぶやきは、音ではなかった。呼吸に紛れるほどの微かな気配。
ガロスが反応する間もなく、アリシアの剣がひと閃、彼の肩口から斜めに走る。
血は出ない。否、出る暇がない。
攻撃ではない。抑止――その技は、まさに“静かなる斬撃”だった。
「……ぐ、ぉ……っ!?」
重い身体が、膝から崩れ落ちる。
ガロスの目が驚愕に見開かれたまま、理解が追いつかない様子でアリシアを見上げた。
だがアリシアは、もう彼を見ていない。
剣を納め、静かに観衆へと向き直る。
――その姿は、まるで冷たい月のように、静かで、美しかった。
「……勝者、アリシア・バレンタイン副将!!」
その声に、誰も歓声を上げることができなかった。
ただ、心臓の音だけが、全員の鼓膜を打った。
ミレイナが、観衆の中からそっと微笑む。
「やっぱり……アリシアって、 “完璧”なのよね……」
――この日、衛燐隊は知ることになる。
“指揮官たち”は、ただの頭ではない。
誰よりも速く、誰よりも深く、 “命”と“誓い”を戦場に刻む者たちなのだと。
***
程なくして、七日間の融和な一時は、ある者には成長を、ある者には挫折を与えて過ぎていった。
剣を鍛えた者、術を磨いた者、誰かと心を通わせた者、そして……敗北の悔しさを味わった者。
だが、誰もが確かに“何か”を得た。
それは、命のやり取りを前にした時、人が本能的に掴み取るべき「自分だけの在り方」だったのかもしれない。
空は、曇り始めていた。
王都の東の空、帝国の砦がかすかに見えるその方向から、冷たい風が吹いてくる。
風は、戦の匂いを運んでいた。鉄と血、焦げた魔素の匂い。
この”ガナディア平原”に8万もの帝国人の意思と野望が集結していた。
その先頭に立つのは、齢19にして、帝国の繁栄を後世に約束した銀髪の皇太子。
――――クラウス・アウグスト=ライエル=エーゼルバルド…現皇帝だ。
8万の兵、そのすべての視線が彼の背に集まっている。
クラウスは、旗も掲げない。
凱歌も奏でない。
ただ、風を受けるように両腕を開き、微笑む――それは、神を演じる者の笑みだった。
「これは、 “正義”の証明に過ぎない」
静かに、吐き出すように呟いたその声は、なぜか背後の将軍たちの耳にも届いた。
「我らは、過去に贖う。だが、それは悔恨ではない。
――選ぶのだ。この国にとって、最も冷たく、最も鮮やかな未来を」
馬を返し、ゆっくりと軍の列を眺め渡す。
その瞳には、憐れみも、激情もなかった。
だが、確かに燃えていた。終わらせる者の覚悟が。
そして、クラウスの右手が上がったとき――
それは、戦の始まりの合図ではない。
“帝国の歴史”が書き換えられる、その第一声だった。
「進軍を開始する」
――その日、大陸中が驚愕することになる。
今まで自分らは帝国という巨躯の掌で遊ばれていたと。――――――
***
一方、ガナディア平原の西。
そこには、かつて「西部の砦」とまで言われた、トリスラブ公国の軍が陣を敷いていた。
その数、十二万。各都市から徴集された兵士たちと、鉄甲をまとった古参の歩兵団が整然と並ぶ。
だが、その整然さの裏にあったのは、油断だった。
帳の中では、地図の上に駒を置きながら、何者かが笑っていた。
「……まさか、帝国が真正面から出てくるはずがない」
「せいぜい、俺たちの軍を小突いて引き返すだけだろうよ」
「奴らはいつもそうだ。威圧だけして、手を汚すのは後――昔から変わらんさ」
天幕の外では、馬を繋ぐ兵たちが、他愛もない博打をしている。
誰が最初に本陣へ突入するか――などと。
その笑い声には、命の重さも、戦の匂いも、何一つなかった。
北方もまた、似た空気に満ちていた。
大草原に幕を張る、遊牧の騎馬隊。数は九万。
風を読むことに長けた彼らでさえ、この“嵐の気配”を感じ取ることはできなかった。
「西は遠い。帝国のことは公国に任せればいい」
「俺たちは公国が疲れ切ったところから突けばいいだけさ」
鍛えた馬の毛を撫でながら、戦士たちは空を仰いでいる。
乾いた空、星の瞬き、そして火を囲む静けさ。
“勝利”は、風が運んでくるものだと信じて疑っていなかった。
誰もが、こう思っていた。
――帝国は、動かない。
――帝国は、沈黙を貫き通す。
――帝国は、威光で支配しても、剣は振るわない。
そして、その誤解が――帝国という巨躯の掌の上にいたという現実を、
彼ら自身が最も遅れて知ることになる。
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