ヴェルトハイム男爵譚

和泉

第1話 リオ・ヴェルトハイム


俺の初めての冒険は、痛みから始まった。


 リオ=フェルド、十七歳。

生まれ育った田舎の村を出て、港町アラセラの冒険者ギルドに登録したのは三日前。

 剣術の訓練は村で受けていたし、小さな魔物相手に手柄もあった。

 けれど、それが通用するのは“村の外”までだった。


「……くそっ……!」


 森の奥――フォレストルの細道。

 手にしていた剣は震え、太ももから流れる血が泥に混ざる。

 相手はホブゴブリンと呼ばれる二足歩行の魔物。

 爪が深く、動きが速い上に体が俺と変わらない。それを甘く見ていた。


 逃げる途中で右腕を木にぶつけ、さらに足を挫いた。

パーティの仲間には逃げろと叫び、自分が囮になった。


  英雄になる――

 

そう口にしたのは、自分の方だったのに。


 剣士を夢見て、ギルドの門をくぐったその夜。

 リオは、同い年の戦士や魔法使いの卵たちと酒場で大声で宣言していた。

 「いつかこの国で一番の英雄になってみせる!」と。


 今、そんな言葉が惨めだった。

 足は動かず、夜は深く、森は静かすぎた。


 だが、不思議なことに、恐怖はなかった。

ただ、やり残した後悔だけが、胸を焦がしていた。


(せめて、村の母さんに手紙でも出しておけばよかったな……)


 ――だが、彼は生き延びる。


 逃げ道で再開した仲間に背負われて森を出たリオは、かろうじて街の灯を見る。

仲間には町の入り口で降ろしてそのままギルドへは戻らず、「寝床だけでも」と舗道を歩く。

血の匂いと疲労で、視界は揺れていた。

次第に雨が降り始め、土砂降りになっていった。

 まるで、俺を嘲笑うかのようだった。


 足がもつれる。

 そして、ポフッと何か柔らかい布のようなものに当たって、視界がふわりと沈んだ。


 ――それが、彼女だった。


 ***


「……少年?」


 やわらかな声が、闇の奥から響いた。

 香のような甘い匂い。

 手が頬に触れる。


「……傷、深いじゃない。こんなになるまで……」


 かすかに瞼を開けたリオの目に映ったのは、

 黒髪の女だった。


 長い髪が夜の帳のように揺れ、艶めいた目が、月よりも光をたたえていた。

 その手にあるのは、灯のついた赤い提灯。


 (……娼館……)


 赤い灯の看板が、雨の中で揺れていた。《月影亭》。

 町で最も有名な、妓女たちの館。

 その入り口に立っていた女が、彼を支えていた。


 

「動かないで。……このままだと、傷口が開くわ」


 彼女はリオの腕を取り、細身の体で彼を抱きかかえるようにして歩き始めた。

 力強くはない、でも不思議な安定感があった。

 彼女は、俺を娼館のフロントのソファーに降ろす。

 

「ねえ、なんでこんなになるまで無茶をしたの?」


 問いかけに、リオは答えなかった。

 答えられなかったのかもしれない。


ただ、彼女の髪に、淡く香る柑橘の匂いがした。

  そのまま俺は気を失った。



 ***


 目が覚めると、そこは赤いカーテンのかかった部屋。

 雨音は消え、灯の明かりだけが揺れていた。


「……ここは……?」


「月影亭。……って言っても、仕事部屋じゃないわよ。休憩室」


 声がして、振り返ると、先ほどの女がいた。

 椅子に座り、手元で薬草を刻んでいる。


 白い指先が、刃物を扱う手つきとは思えぬほど静かで――それでいて、慣れていた。


「名前は?」


 思わず口に出していた。


 彼女は手を止めた。

 細い眉がわずかに動き、微笑んだ気がした。


「娼婦に名前を訊くのは、子供のすることじゃないわ」


「だったら、大人になって……その名前を呼べるようになる」


 リオの声はまだかすれていた。

 でも、その瞳は真っ直ぐだった。


「ふふ……変な子」


 その笑みに、少年は思わず息を呑んだ。

 今まで見たどんな笑顔よりも、切なくて、綺麗だった。


 ***


 手当ては、驚くほど丁寧だった。

 消毒の薬草は苦い匂いがしたが、痛みは不思議と和らいでいった。


「……どうして、こんなに慣れてるの?」


「薬学を習ってた時期があるのよ。昔ね」


「娼館で、薬学……?」


「娼婦だって誰かの命を繋ぐくらいのことできるわ」


 その声は静かで、どこか自嘲を含んでいた。


「でも、君は違うでしょ?。君は、戦ってる」


 彼女がふと目を伏せる。

 その瞳の奥には、誰にも見せない夜があった。


「名前、教えてよ」


「……言わない」


「俺はリオっ!……じゃあ、今度また来る。強くなって、金も貯めて、君を指名する」


「指名、って……それ、冗談じゃないわよ?」


「本気だよ」


 リオは、少しだけ照れながら、でもしっかりと目を見て言った。


「君みたいな綺麗な人に、もう一度会いたいって思った。それだけじゃ、だめ?」


 彼女は答えなかった。

 ただ、包帯を結び終えた手で、そっとリオの髪を撫でた。


「じゃあ……リオ、生きなさい」


 その言葉が、妙に胸に残った。

 彼女は、ただの娼婦じゃない。

 なぜか、そう確信できた。


夜明け前、リオは礼を言って立ち上がった。


 彼女の名前は、まだ聞けなかった。

 けれど、ひとつだけわかったことがある。


 ――自分は、彼女に恋をした。


あれから、半年が経った。


 傷は癒えた。足の痛みも引いた。

 だが、胸にできた傷だけは――いや、むしろ、それこそが彼を生かした。


 リオはあの夜を忘れなかった。

 赤い灯。黒髪の女。雨音と、柑橘の匂い。

 そして言葉。


「生きなさい。」


 それが、彼女の名前の代わりだった。


 だから彼は、生きた。

 そして、働いた。

 戦った。

 すべては、もう一度彼女に会うために。


***


 彼の冒険者としての評判は静かにだが確実に広がっていった。


 「沼地のトロール討伐に参加したらしい」

 「十代でゴブリンの森を単独で歩いた?」

 「運がいいだけだろ」

 「いや、腕は本物らしいぞ」


 ギルドの一階の酒場では、謎の新星のリオの事で盛り上がっていた。

 名声は望んでいたものだった。

 だが、今はもう、英雄の名声などどうでもよかった。


 ――必要なのは“金”だった。


 彼女を指名するには、金が要る。

 《月影亭》は格式が高く、貧乏な男が通える場所ではない。

 だがリオは、生活費を削り、武器も最小限でやりくりし、

 月の半分を冒険に費やして、金を貯めた。


 剣の鍔に刻んだ線が、六本目に届いた夜。

 彼は、扉の前に立った。


 赤い灯が揺れていた。


「いらっしゃいませ。指名は――?」


「……黒髪の彼女。あのとき助けてくれた人を」


 女給が微かに驚いた顔をして、扉の奥へ消える。

 数分後、同じ灯の下に、彼女が現れた。


 変わらずの黒髪。

 変わらずの、あの香り。


「……あなた、本当に来たのね」


「約束したから」


「名前も知らない女を、半年も追って?」


「名前を呼びたいんだ。ちゃんと、大人になって」


 彼女は、ため息のように微笑んだ。


「ふふ……リオ、って言ったかしら」


「覚えてたのか!」


「忘れるほど、薄くないのよ。あの夜」


 それだけで、報われた気がした。


***


 だが、その夜――何も起きなかった。


 リオは部屋に通され、彼女と向かい合って座った。

 彼女は酒を注ぎ、リオはその香りだけを胸に染み込ませた。


「ねえ……未来の英雄様」


「やめてよ。そんな呼び方」


「じゃあ、なんて呼べば?」


「……リオ、って。名前、呼んでよ」


「リオ。……まだまだ子供だわ、ほんとに」


 彼は赤くなった。


「俺、あの夜からずっと君のことばかり考えてた。

君の笑った顔とか、声とか、髪の匂いとか…

他の誰とも違ったんだ」


「リオ」


「ん……?」


「これは、娼館よ。恋なんて、売ってないの」


 その言葉は、ナイフのようだった。

 けれどリオは引かなかった。


「知ってる。……でも、君だけには本気なんだ。

お金を払ってでも、君と“本当の会話”がしたいって思った。

誰に笑われても、バカにされても構わない。

君に好きだって言いたくて、強くなったんだ」


 彼女は、しばらく黙っていた。

 酒を口に含み、そして瞳を閉じる。


「それは……一番手強い口説き文句ね」


 それが、彼女なりの“肯定”だった。


***


 その夜以降、リオは毎月のように彼女を指名し続けた。

 それでも、彼女は一線を越えさせなかった。


 酒を酌み交わし、会話をするだけ。

 けれど、リオにはそれが幸福だった。


 彼女の名前は、ミラ。

 月の夜に灯る女、という意味だという。


「偽名よ。娼婦の名前なんて、幻想でしかない」


 そう言う彼女に、リオは笑った。


「幻想でもいい。俺の中では、本物だから」


 そのたび、彼女は視線を逸らした。


 彼女は、何かを背負っていた。

 過去か、誰かとの約束か。

 それでも、リオは彼女の影を愛した。


 そんなリオを、街の者たちは囁いた。


 「次代の英雄候補が、娼館に通い詰めてるらしい」

 「よりによって、あの女を指名し続けてるとか」

 「狂ってるんじゃないのか?」

 「たしか、アイツは帝国の…………」


 リオは、構わなかった。

 構える理由も、言い訳も要らなかった。


 好きなものを好きだと言える強さが、

 本当の“英雄”なんじゃないかと、彼は信じていた。


その日、港町アラセラの冒険者ギルドは、朝からざわついていた。

 王都から来た使者が、正式にリオ=フェルドを“次代の英雄候補”として認定し、

 特別勲章と剣を授けたのだ。


 20もの討伐依頼。数えきれないほどの命懸けの任務。

 仲間を守り、町を救い、単独で1年で中堅冒険者に……リオの名声は確かに実を結び始めていた。


 祝賀の酒場で何杯も飲まされ、肩を叩かれ、女たちに笑いかけられても、

 リオの視線は、ただ一つの方向を見ていた。


 赤く灯る娼館月影亭


「――行ってくる」


そう呟いて、彼は夜の娼婦街を歩き出した。


***


 雨は、春には珍しく冷たかった。


 防具も外し、薄い上着のまま歩いた道は、濡れて光っていた。

 けれど、彼の心には、そんな冷たさも関係なかった。


 扉の前で深く息を吸う。

 雨粒が睫毛を伝い、唇まで落ちる。


 ――今日こそ、想いを伝えよう。

 今日こそ“英雄として”じゃなく“リオとして”向き合いたい。


 扉が開く。

 女給が彼を見て、少し目を丸くした。


「……ミラを、指名したい」


「……かしこまりました」


 通されたのは、いつもの赤い部屋。

 香の匂いが、かすかに甘く、湿った夜に溶けていた。


 そして、少し遅れて、彼女が現れた。


「……来たのね、リオ」


「うん。今日は、どうしても話したいことがあって」


 彼女は、どこかいつもと違っていた。

 髪は濡れておらず、装いも完璧なのに――瞳が揺れていた。


「ねえ、知ってるわ。あなたが“英雄候補”になったって」


「知ってたか……」


「街中で騒いでるもの。あなたの顔、あちこちに貼られてる」


「……光栄だけど、それより……今日は、君に会いに来た」


 ミラは、視線を逸らした。


「……ダメよ」


「え?」


「もう、来ないで」


 その言葉が、何よりも冷たかった。

 火に手を伸ばしていたら、水をぶっかけられたような衝撃だった。


「どうして……?」


「あなたには、もっとふさわしい人がいる。

 街の娘でも、貴族の令嬢でも、誰でも。

 娼婦に通うような時間があるなら、もっと……」


「それは、君の本心なのか?」


 問い詰めるような声ではなかった。

 リオはただ、震えながら言った。


「……英雄になったって、そんなの関係ない。

 ずっと前から、君が好きだった。最初に助けてくれた日からずっと……

 君の声で生きようと思った。君のために強くなった。

 俺の全部は、君の名前のためにあったんだよ」


「……バカね」


 ミラは微かに笑った。けれど、その笑みはどこか痛々しかった。


「バカだから言うんだよ。好きだ、ミラ」


 その言葉に、彼女の手が震えた。

 グラスの水が揺れ、落ちる寸前で止まった。


「……リオ。あなたは、優しすぎる」


「それの何が悪い」


「だから、捨てられるのよ。こういう世界じゃ」


 ミラは、テーブル越しに彼を見た。

 真っ直ぐに、でもどこか遠くのものを見るような目だった。


「お願い。もう来ないで。私、もう……ここにはいない方がいいの」


「――逃げるのか?」


「違う」


「嘘だ。君は、何かを隠してる。俺には分かる。

 本当は、君も……」


「リオ!」


 彼女の声が鋭く割れた。

 それは、娼婦の声ではなかった。

 剣よりも強く、涙よりも冷たい、女の声だった。


「……お願い、もうやめて。

 好きとか、優しいとか、そんな言葉で、私を壊さないで」


「……っ」


「私は、誰かに救われるような女じゃない。

 選ばれる価値も、愛される資格もない。

 あなたが傷つくのを見るくらいなら、私が拒むほうがいいのよ……!」


 雨が、音を増していた。

 外の空が、泣いていた。


 リオは、何も言えなかった。


 ミラは、背を向けた。


「帰って。お願い。もう、終わりにして…」


 そして、扉が閉じた。


***


 外に出ると、雨は横殴りになっていた。

 誰も通らない夜道を、リオはひとり、歩いた。


 歩きながら、涙を流した。

 痛みがあった。苦しみも、怒りも、悲しみもあった。


 でも、それ以上に――


 彼女の声が、胸に焼き付いて離れなかった。


「私を壊さないで」


 ミラは、何かから逃げていた。

 それは過去かもしれない。誰かとの約束かもしれない。

 けれど、確かに彼女は、俺の名を呼んだ。


 それが、答えだった。


 家に帰っても、眠れなかった。

 ただ、窓の外の雨を見ていた。


 そして、誓った。


 ――君がどれほど拒んでも、俺は、何度でも会いに行く。

 君が本当に壊れる前に、俺が全部、受け止めるから。

 

扉は開いた。だが、彼女はいなかった。


リオが《月影亭》を訪れたのは、今月三度目だった。

ギルドの依頼を三つこなし、名声も金も増えた。

もはや彼の名は、この街の誰もが知っている。

だが…彼女の姿だけが、どこにもなかった。


「……今日も、ミラは?」


 問いかけに、女給は目を伏せた。

 言葉を探すように、一拍、二拍と間をあけて――


「……ミラは、もう……この娼館には、いません」


 静かな声が、雷のように脳を揺らした。


「え……? やめたってこと?」


 女給は、さらに目を伏せたまま、小さく首を振った。


「違うの……彼女は“買われた”の。

 貴族の屋敷に、お妾として……連れていかれたわ」


 頭の中が真っ白になった。

 耳鳴りがする。立っているのがやっとだった。


「ミラが……? 誰に……?」


「南の領主、アストン家。

 彼女は最初、断ったそうよ。でも……あの家は、拒否を許さない。

 金と立場で、無理やり連れて行かれた。

 私たちも止められなかった……」


 リオは、その場に崩れ落ちた。


 自分が指を伸ばす前に、灯は消えていた。


***


 その夜、雨が降った。


 リオは、部屋に戻っても何も食べなかった。

 ベッドに横たわり、ただ天井を見つめていた。


 鼓動の代わりに、雨音だけが響いていた。


 そのとき、誰かが戸を叩いた。


「リオさん……これ、ミラから預かってたの」


 それは、あの娼館の女給――マリアだった。

 彼女が差し出したのは、一通の封筒。

 薄い羊皮紙に、ミラの香りが染み込んでいた。


 震える手で封を開ける。

 文字は、いつか彼が見たあの整った筆跡だった。

―――――――――――――――――――

      《リオ様へ》

 

 最後まで、あなたを拒み続けてしまってごめんなさい。

本当は、私も――あなたに惹かれていました


あの夜の「さようなら」は、本心じゃなかった。

でも、あなたがあまりに真っ直ぐで、まぶしすぎて、私にはもう、抱えきれなかった。

 

それでも、あなたがくれた言葉、あなたが呼んでくれた名前、そのすべてが、私の中に灯を灯してくれました。

 

  ありがとう、リオ。

 

私は、この手で幸せを選べなかった。

でも、あなたには――どうか、本物の光を。

 

                  ミラ

――――――――――――――――――――


 手紙が、ぽたりと落ちた。

 続けて、涙が冷たい床に落ちた。


 「……クソかよ……」


 嗚咽が喉を詰まらせた。


 灯が消えた――その痛みよりも、

 彼女が自分を“無価値”と信じたまま去ったことが、

 何より胸をえぐった。


***


 夜が明けた。


 空はまだ灰色だったが、雨は止んでいた。


 リオは、剣を背にし、鎧を締めた。

 そして、手紙を懐に入れ、静かに立ち上がった。


「行くよ、ミラ。

 君が自分に価値がないと思っても、

 俺にとっては、誰よりも美しい灯だった。

 迎えに行く。

 この命に代えても、君をもう一度――」


 そして、リオは歩き出した。


***

 

それから3年が経ったある日。

この港街アラセラではある記念式典が催された。

 …そう。この街で名を上げた英雄を称える式典。


 「ふーー。あの夜から丁度3年……。」

リオの背中は、依然と比べ1.5倍は大きく背も伸び英雄の後ろ姿だった。


街を治める領主から、白銀に輝くロングソードを授り、そこで式は大歓声に包まれ、昼間からお祭り騒ぎが始まった。


彼は、かつて夜に彼女と飲んだ葡萄酒を片手に一人、街の展望台から港を眺めていた。

3年前、彼女が貴族の嫁にさせられたという言葉が俺の中で響いていた。


この式典も彼女に見せられたら……


彼女の夜を買う為に金を稼いでいたのに……会えないんんじゃ意味が無い。


王国の13人目の英雄に選ばれる……田舎で英雄に夢見ていた少年時代の憧れだったはず。

けれど、港町で妓女に貢ぐ金を稼ぐために名声を上げた青年時代。


「ゴクっ‼」

……惨めで哀れな夢を見ている自分を、かつての夢に酔い呑まれていた頃を思い出し丸い底の瓶に入った葡萄酒を一気に飲み干した。


そのまま俺は、あの頃の夢に酔うように、

13人目の英雄リオとして町中で担ぎ上げられ

酒を呑み、かけだしの頃の仲間に絡み酒を浴びた。


――――気づけば、俺は、あの娼館にいた。


相変わらず、娼館の一室は灯の明かりだけこじんまりとしていてあの頃のままだった。

 俺の横には女給だったマリアさんが居た。


「……あれ。……俺、手ぇ出して無いよな……?」


「はい。大丈夫ですよ。何もされてませんし、してませんよ。ただ、英雄さんの寝言を拝聴していただけです。

……今の昔も、英雄さんにはミラしかいませんから」


彼女は、懐かしむように、寂しそうな顔をしていた。


俺は【もう、ミラという妓女はいない】という現実を実感した。

いい加減忘れないきゃいけない。そう思わせた。


「マリアさん。ゴメン…このまま朝まで寝かせて……」

「はい……ごゆっくり……。」


嫌な事は寝て忘れようと、俺と彼女は、その簡単な言葉を交わして、その夜を明かした。


 

***

 翌朝。

 宿酔の頭痛が、まだ夢でも見ていろ。と俺の起床を拒む。


 俺の隣には、妓女のドレスを着たまま眠る、長い茶髪のマリアが居た。

「あれ……起きたのですか?」


彼女は眠たそうな、こっちを見る。

「ゴメン、起こしちゃったな……」

「いえ、これも仕事の範疇ですから……

  ふあーーーっ。よく寝ました」

 

マリアは大きく欠伸をし、柔らかいベッドから起き上がり、水差しからグラスに水を灌ぐ。


「はいっ。英雄さん。」

彼女はそう言って、水の入ったグラスを俺に渡す。

 「ありがとう。」


俺は、そのまま一気に飲み干して、身支度をした。

 「……もう行くんですか?……いえ、すみません。調子に乗りました。……行ってらっしゃいませ。」

 

振り返らなかった。そのまま「あぁ、また。」ただそう告げて娼館を発った。


――ミラではない、アストン家の妾の彼女を探し求めて――――



***

 さらに半年後。


 世界は平和で英雄なんて仕事が無く、ただ王国内の都市や村を訪れて、領主や町長に挨拶をする……そんな日々が続いた。


 そして今日。ついにアストン家の領地へと足を踏み入れた。

いつも身に着けている白銀の鎧は、いつもよりも重く感じ、緊張を感じていた。

 ……しかし、そんな緊張なんてする必要なんてなかった。


 アストン男爵邸に向かい入れられ、

早速豪勢な昼食を頂いた。

 入り口で、鎧だけ脱いで、執事にロングソードの持ち込みは許されていたから軽装で上がらせてもらった。

 

 男爵は背も低く、団子のような体系で四肢は短く、食べ方も汚い。

 噂は聞いていたがアストン男爵は名ばかりの、先代が優秀だっただけの能無しだと分かった。

 彼は、メイドや給仕の女性に対して、命令口調で小馬鹿にした話し方で接していた。


 俺は、なぜこんな男が、彼女を迎え入れたのか疑問で、悔しかった。


 我慢できず、口から、その不満は出てしまった。


 「アストン男爵……少しいいですかな?」


「なんだ?騎士様、家の昼食がお気に召さなかったのですか?」


 男爵は、ギロリと自身の左側の壁の端で整列し立ち並んでいるコックを睨む。


「……いえ、そんな事は無いです。とてもおいしいですよ。ただ……

【3年ほど前に、港町の妓女を妾にしませんでした?】」


男爵は、不服そうに、テーブルに短い右肘を叩て手のひらに顎を置く。

 

「ああ。買ったよ、でもここに来る前に死んだよ、魔物に襲われて」


…………ダメだ。ダメだ。ダメだ。ダメだ。


自分の中が、ぐちゃぐちゃになる。

彼女に会うと決意した、多くの日々に、

彼女と話すために金を稼いだいた日々が……


「…騎士様、あの娼館のアバズレがどうかしました?」


俺は我慢できなかった。

理性は、男爵の一言によって消滅した。


次の瞬間には、腰にかかていた、ロングソードで切りかかっていた。


静寂で、執事も給仕も皆が緊張し生唾を飲み込んでいた、この会堂に、


真っ赤な鮮血が舞った。

男爵の丸々とした体から首は離れ、宙を舞っていた。

……その顔は「なぜ。」という疑問を浮かべていた。


ある執事は、口を覆って大笑いし、ある給仕は「ざまぁ」と言わんばかりの表情を浮かべる。


「ふぅ……。アストン男爵からは、国王への反逆の意思を感じた。

だから処罰した。……いいな?」


俺は、そう床に落ちた、醜い生首を嫌悪を込めた眼差しで見つめ発した。


「あぁ。ありがとうございます。」

 「ありがとうございます。」

 「やっと、あのオークが死んだわ」

 「さすがは英雄様ね」


 会場にいた全員が俺に感謝を伝える。

 その様子に改めて、男爵を軽蔑した。


 ***


その後、男爵への処罰は多少なりとも問題視されたが、お咎めが無かった。

 ……だが、なぜか俺が旧アストン男爵領の領主に任命され、

国王から【ヴェルトハイム】の名を授かり

晴れてリオ・ヴェルトハイム男爵となった。


そして、今日。ヴェルトハイム男爵領の領主として、領内の村や都市に顔を出そうと、王国から派遣させた部下20名を引き連れていた。


……これで彼女の恨みは晴れただろうか?。

 あなたに夢を見ていた少年は、男爵にまで登りつめました。

この姿を、見せられたなら……。


 ***


領内、最後の街を訪れようとしていた。

 風の噂で、腕の立つ有名な【黒髪】の薬師がいると聞いていた為興味があった。黒髪の薬師だなんて、俺と彼女の初めて会った日のようだと。感じていて、是非とも領内の中央にスカウトしようと思っていた。


簡単に、街の役人に挨拶を済ませ、薬師についても聞いていた。


春風が静かに村を包み込み、葉が揺れる音だけが小さな薬師の家の周りを満たしていた。


リオは、深く息をつき、木製の扉の前に立つ。

 彼の剣は幾度もの戦いを物語り、鎧には傷跡が刻まれていたが、その瞳は若き頃の熱を失ってはいなかった。


 そっと手を伸ばし、扉を叩いた。


 中から「はーい。入って」という女性の声が聞こえた。


 薄暗い室内には、薬草の香りが漂い、夕暮れの光が淡く差し込んでいた。


 そして、窓辺に座る一人の女がいた。


 黒く艶やかな髪が肩に流れ落ち、動くたびに柔らかな風が舞う。

 彼女――ミラは、薬草を刻みながら静かに窓の外を見つめていた。


 リオの声が震えた。

……そんはずはないと。


「ミラ……俺だ。」


 彼女はゆっくりと振り返る。

 深い瞳が彼を捉え、驚きと戸惑い、そして一筋の涙が頬を伝った。


「リオ……あなた……」


 声はかすかに震え、唇が震えた。


 彼はその場に立ち尽くし、何度も繰り返したい言葉が喉に詰まっていた。


 数年の時が二人を隔てた。

 だが、その目の奥にある感情は、まるで昨日のことのように鮮明だった。


***


 リオはゆっくりと歩み寄り、彼女の手をそっと取った。

 薬草を刻む手は一瞬止まり、彼の手を包み込むように握り返した。


「どうして、ここに……?」


 彼の声は震えていたが、決して迷いはなかった。


 ミラは視線を落とし、長い黒髪を指先で掬う。

 息を深く吸い込み、震える声で語り始めた。


「貴族の屋敷を逃げ出したの……馬車が魔物に襲われた夜、必死で逃げて、この村まで辿り着いたのよ」


 小さく震える唇がさらに動く。


「もう、あの頃の私はいない。ここで薬草の知識を学びながら、少しずつ自分の足で立とうとしているの」


 その言葉に、リオの胸は締めつけられた。

 彼女が背負った孤独と恐怖、そして再生への痛み。


「ずっと探してた。何があっても迎えに行くと誓った」


 彼の瞳が真っ直ぐに彼女を見つめる。


 ミラはゆっくりと顔を上げ、涙を堪えながら微笑んだ。


「リオ……怖かった。あの頃はあなたが遠すぎて、私には手が届かなかった」


 彼女の指がリオの胸にそっと触れる。


「でも、今は……」


 微かな震えを含んだその声は、確かな決意を帯びていた。


「あなたのそばにいる。」


***


 夜が深まるにつれ、二人は過去の痛みと未来への希望を語り合った。


 リオが剣を置き、ミラが薬草の束をそっと抱く。

 二人の距離は少しずつ近づき、互いの息遣いが部屋を満たした。


 リオは静かに言った。


「英雄になっても、名声があっても、君なしじゃ意味がなかった。

 君は俺の光だ。これからも共に歩こう」


 ミラは涙を拭い、笑みを返した。


「怖くても逃げない。あなたと一緒に生きる」


 その言葉に、リオは優しく彼女の頬を撫でた。


 彼の指先から伝わる温もりに、ミラの体が震えた。


 静かな夜空に月が輝き、星たちが二人の未来を見守っていた。


***


 数年という時間は、彼らに痛みと再生、そして愛をもたらした。


 過去の傷跡は完全に癒えることはないだろう。

 だが、その傷跡が二人の絆を強くした。


 リオは、男爵として彼女を正妻として迎え入れ、

 英雄としての名声も持ち、成り上がりを成した。


 ミラはリオの正妻兼、薬草師として日々、忙しくけれど幸せにリオと笑うことを学んだ。


 彼らの物語は、新たな光の中でゆっくりと歩み始めていた。

 

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