第三章 見てはいけなかったもの

彼が出張に出ていたある日、

私はふと見慣れたスマホが部屋に置かれているのに気づいた。


……正確に言えば、それは私のお古だった。

以前、機種変更した時に手放せずに持っていたもの。

「まだ使えるし、よかったら使う?」と、私は彼に譲った。


あのとき彼は「助かる、ありがとう」と笑ってくれた。

私たちの間には、スマホのパスコードという壁はなかった。

お互い、信頼していた――そう思っていた。


何の気なしにそのスマホを手に取って、開いた瞬間、

私は**“見てはいけないもの”**を見てしまった。


アルバムに残されていた、元カノの顔写真。

それだけで、心臓がひとつ跳ねた。


息を呑みながらメッセージアプリを開くと、

彼女とのやりとりが、何件も、何日にもわたって残っていた。


「久しぶり」

「少しだけ会える?」

「この前はありがとう、楽しかった」


目の前が暗くなる。

呼吸が浅くなり、心臓の音だけがやけに大きく響く。


もっと遡っていくと――


私が夜のバイトに出ている間、

彼女が私たちの家に何度も来ていた履歴があった。


ギリギリまで滞在し、

私が帰るわずか30分前に退出していた日もあった。


ベッド。

ソファ。

お風呂。

キッチン。


その全てが、突然“誰かの痕跡”に見えた。

何も変わっていない部屋なのに、

急に“私の居場所じゃない”ように思えて、吐き気がした。


その夜、私は震える手で彼に問いかけた。


「スマホ、見た。

 元カノと会ってたの、ほんと?」


彼は少し戸惑ったあと、静かに答えた。


「何もなかったよ。

ただ話しただけ。心配だったんだよ。

友達だから。もう恋人でもなんでもないし。」


私は、何も言えなかった。


「……でも、私にとっては浮気だよ。

仕事でもないのに、元カノと2人きりで会うなんて…

嘘をついて会うなんて…」


すると、彼は真っ直ぐな目でこう言った。


「え?それは違うだろ。

俺にとって浮気は、体の関係を持つこと。

触れたり、そういうことがなきゃ浮気じゃない。」


その瞬間、私ははっきりわかった。


私たちは、“浮気”の定義が違っていた。


私にとっては「気持ちが向いている」だけで充分傷だった。

彼にとっては「体の境界線」がすべてだった。


お互いの中にある線引きが、あまりにも遠くて――

そのギャップに、私は深く傷ついた。


その日の夜。

私は実家に帰ることを決めた。


一日中悩んで、考えて、

妹に電話をかけた。


「あんたが悪いわけじゃない。

普通に考えて、元カノと会うのはおかしいよ。」


母も、ゆっくりと言った。


「浮気のラインは人それぞれだけど、

あんたが“つらい”って思ったなら、それで十分よ。」


その言葉に、私は涙が止まらなくなった。


本当は、「責めたい」んじゃなかった。

「わかってほしかった」だけだった。

私は、ただ安心したかっただけだった。


次の日、私は静かに荷物をまとめた。


「実家に帰るね」


彼に送ったメッセージは、それだけだった。

返信はすぐには来なかった。


でも――しばらくして、スマホが鳴った。


彼からの着信。


1回、2回、3回…

止まらない。

通知が増えていく。

名前が画面を埋めていく。


でも私は、電話に出られなかった。


出たら、きっとまた揺らいでしまう。

「ごめん」って言われたら、

「大丈夫だよ」って返してしまいそうで。


嫌いになったわけじゃなかった。

本当に大切だった。

でも――

このままじゃ、私は壊れてしまう。


彼の声が聞こえなくても、

頭の中ではずっと響いていた。


「どうした?」

「帰ってきてよ」

「ごめんって」


幻みたいな言葉が、心の中で何度も再生される。


でもそれは、もう現実じゃない。


私は、

彼の愛し方に応えきれなかった。

彼もまた、私の繊細さに気づききれなかった。


そんな2人が出した、小さなほころび――

それは、壊れるには十分すぎるほどだった。


そして私は、心の奥で静かに願った。


「もし、私がもっと強かったら。

  もし、彼が少しだけ私を見てくれていたら――

  私たちは、今も一緒に笑っていられたのかな」

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