昔の話をしよう(1)


「……恭くんの、初恋の人ってさ」


 恭くんに抱きしめられたまま話を切り出したはいいけど、今さら少し不安になってきた。

 見当違いだったら、あまりに自惚れすぎだから。


「神山ミズキ、ってことでいいの?」


 もうずいぶんと口にしていなかった昔の名前。

 わたしがまだ、恭くんと同じ世界にいたときの名前。

 声に出してその名前を言っても、思いのほか胸がざわつかないことに気が付いた。


 ……絶対にわたしを逃がすまいとしていた恭くんの手の力が、ようやく緩んだ。


「そうだよ。神山ミズキちゃん。君が、俺の憧れで、ずっと好きだった人」

「今のわたしはただの武藤瑞紀だよ」

「……そうだね、ごめん」

「初恋の人がわたしに似てるって言ってたときから、きっと神山ミズキのことだって思ってた。……養成所にいた頃、時々話しかけてくれたし」

「ああ、やっぱり覚えてたんだ」


 恭くんはそう言って、気恥ずかしそうに頬を掻いた。

 あの世界から逃げたとき、神山ミズキとは全く別の人生を歩もうと決意した。明るくて愛される、だけどごく普通の女の子になろうとした。


 それが、自分なりのけじめだった。


 ……そして天羽恭は、神山ミズキの知り合いであって武藤瑞紀の知り合いではない。


 だから、恭くんが転校してきてからずっと、初対面の純粋なるファンとして振る舞い続けた。


「──本当は覚えてる。恭くんのマネージャーの早坂さんも、知らないフリしちゃったけど同じ養成所にいた人だって気付いてたよ」


 一度話し始めてしまうと、色々な記憶が蘇ってくる。


「あの頃の恭くんは、芝居なんて心の底から嫌いだって顔してたよね」

「……うん。瑞紀ちゃんが最初に俺に声を掛けたのは、その態度を注意するためだったね」


 あの時も、自分の好きなものを馬鹿にされたような気持ちになったんだろうな。

 演技をするのはこんなに楽しいのに、何でそんなつまらなそうな顔をするんだ……って思ったんだろう。

 先ほど原さんにとったあの態度といい、好きなものを馬鹿にされるとすぐ頭に血が上る癖は、あの頃から直っていない。


「おにぎりでも食べながら、ちょっと昔の話をしてもいい?」


 恭くんがそう言ったのでうなずいた。

 行き場をなくしていた昆布おにぎりにようやくありつける。

 既にパリパリ感を失った海苔と塩気のあるお米。なかなか昆布にたどりつかないから、具はケチられてるタイプだな……などと思いながら食べ進める。

 ようやく昆布の甘辛い味がしてきた頃、ようやく恭くんが話を始めた。


「最初はさ、母親の機嫌とるためだけに仕事してたんだ」

「……お母さんの?」

「うん。昔は自分が女優になりたかったけど、だめだったから子どもの俺にその夢を勝手に託したらしい」


 恭くんはわずかに苦い色を浮かべる。


「それだけならまだいいけど、あの人はすごく感情的な上に身勝手で。……レッスンなんて行きたくないって言った日には怒って家から閉め出されし、逆にちょっとでも褒められれば『私の血を受け継いでるだけのことはある』って、自分の手柄みたいに周りに自慢してた」


 いわゆるステージママというやつか。

 実際、そういう親を持つ子たちは周囲にたくさん見てきた。

 だけど、恭くんもそのような環境にいたというのは初耳だった。


「素直に言うこと聞いて、上手くやれば機嫌よくいてくれる。だから本当に、子役をするのは平和な環境を保つための手段でしかなかった。演技を楽しむなんて、そんな余裕あるはずなかったんだよね」

「だからあの頃、レッスンにしてもオーディションにしても、あんなにつまらなそうにしてたんだ……」

「そう。つまらないどころか苦しくて仕方なかった。最初瑞紀ちゃんに注意されたときも、何も知らないくせにうるさいなって思ったよ」

「他人の家の事情とか全然想像できてなくて……。ごめんね」

「謝らないでよ、知らなくて当然だし。……あの頃の瑞紀ちゃんは、今よりずっと大人しくて気弱な感じの子だったよね。そんな子が突然声かけてくるなんて思わなくて驚いたのを覚えてる」


 その時のわたしは、「もっと楽しそうに演じないと、役に失礼だよ」と小さな声を震わせながら言ったらしい。

 よく覚えていないけど、確かに昔のわたしは今と違って大人しい子どもだったから、そういう言い方をしてそうだ。


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