霧境のアークラント ―六十の扉を越えて―
mynameis愛
第1話_霧の門が開く
それは、東京の夜がやけに静まり返っていた晩のことだった。蒸し暑い五月の空気が河川敷に立ちこめ、廃倉庫の鉄骨が風に鳴る以外、聞こえるものは何もなかった。
大学生・慎也は、その倉庫にいた。理由は、自分でもよくわからなかった。ただ「人に会いたくなかった」のだ。
薄闇のなか、彼は段ボールの上に座り、カップ麺の湯気をじっと眺めていた。自販機で買った安物のウーロン茶をすすりながら、スマホを無言で操作する。誰からも連絡は来ていない。それでいて、誰かから連絡が来るのが怖かった。
(うるさい講義もない。付き合いの飲み会も断った。誰にも迷惑かけてない。俺がここにいるのは……)
そのときだった。
河川敷に、あり得ない音が響いた。金属が軋む音でも、車の通過音でもない。風とも違う。まるで「空間そのものが裂けるような」──そう、布を裂く音が、頭の奥に直接流れ込んでくるような異質な響きだった。
慎也は反射的に立ち上がり、倉庫の奥へ目を凝らす。そこに、紫の霧が、立ち上がっていた。いや、霧というより「もや」。紫の光が微かに瞬き、そしてその中心に、扉が現れた。
高さ二メートルほど。真鍮で縁取られた古めかしい両開きのドアが、何の支えもなくぽっかりと空中に浮かんでいる。
慎也は一歩下がった。心臓がばくばくと鼓動を打ち始める。体中に汗が噴き出し、膝が自然と震えていた。
(やばい。何だこれ。絶対、現実じゃない)
だが、そのときだった。
扉の向こうから、声がした。女の声。
「……あなたが、鍵を持つ者ですか?」
言葉は確かに日本語だった。だが、妙に硬く、儀式的で、何かを“選ばせよう”とする響きがあった。
「は? 鍵って何の……」
そう言おうとした瞬間、扉が開いた。
紫の光が爆発し、視界が一面に満たされる。
そして、慎也の体が、宙に浮かんだ。
「──やめろっ……!」
叫び声もむなしく、彼の意識は、扉の向こうへ吸い込まれていった。
次に目を覚ましたとき、慎也は“世界”の形が変わっていることに気づく。
石造りの広間。天井には月のような光源がいくつも浮かび、地面には緻密な紋様が刻まれていた。中央に立っていたのは、白い衣をまとった少女だった。
年の頃は同い年くらいか。だが、その瞳には圧倒的な威厳と静けさがあった。
「ようこそ、鍵の一人よ。ここは、
慎也は言葉を失った。
彼の知らぬ世界が、扉の向こうで確かに脈打っていた。
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