第9話 楽しい学園生活1
「疲れた……」
講義が終わって、彼の口から最初に出た言葉は弱音だった。
ナイアスになって初めて学園の講義に出席し、ようやく一日が経過した。ただ講義に出ただけなのに、どっと疲れた。ナイアスになる前のことは良く思い出せないが、こうして授業を受けること自体は初めてではないはずなのに。
本日の講義中にレオナルドを始めとするメインキャラと遭遇することはなかった。しかし戦史の講義であったのと似たようなことが他の講義でも起こりかけた。講義そっちのけで私語をしている生徒などを見かけると、どうしても「余計な一言」を言いたくなるのだ。単に注意したくなるだけならまだ良いが、相手のプライドを傷つけるような嫌味の言葉を付け加えたくなってしまう。これは自分に身体を奪われたナイアスの呪いだろうか。
――でもな、俺だって好きでお前になった訳じゃないんだよ。
迷惑を掛けられているのはこっちだと思いつつ、彼は講義棟の外の夕焼け空を見上げた。
正確にはまだ一日は終わっていない。ここからまだ放課後と夜の時間が残っている。ゲーム中のレオナルドのスケジュールは、大雑把に朝・午前の講義・午後の講義・放課後・夜の時間にわかれていた。講義は学力などの基礎ステータスを上げることが主な目的だが、放課後からはキャラ同士の交流がメインとなる。
恐らくこの時間も、学園内の色々なところにキャラたちがうろうろしているに違いない。余計なイベントに巻き込まれないよう、早く寮の自室に戻らなければ。そう考えた彼は、学園のメインストリートを避け、できるだけ人通りの少なそうな木立の中の通路を進んだ。ぽつんと置かれたベンチに寂しそうに座る女子の人影を見つけたのはそのときだった。
――……あれは。
その女子がフィーネであることに、彼は遠目から既に気付いた。
部屋に尋ねてきた彼女に会って以来、その姿は見かけていなかった。
こんなところでフィーネは何をしているのか。しばらく足を止めて眺めていたが、彼女は単にベンチに座っているだけだ。誰かを待っているようにも見えるが、その誰かが彼女のもとに来る気配はない。
それでもフィーネは膝に手を置き、顔を上げたままじっと座っている。どうせ誰とも約束などしていないだろうに、それでもなお。
「…………」
思えば彼女は不遇なヒロインだ。主人公レオナルドの幼馴染というポジションなのに、彼女が主人公と結ばれる個別エンディングは用意されていない。この国の王女や帝国の侯爵令嬢など、彼の記憶にある限り、どんな立場のヒロインともレオナルドは結ばれる可能性があるのに、フィーネだけが省かれている。作中で交流して好感度を上げることはできるが、だからと言って彼女専用のルートに入る訳でもない。いずれこの国と帝国の戦争が始まり、学園の生徒たちがそれぞれの運命に巻き込まれていくなかで、フィーネは故郷のノルン村に帰り、そこでナイアスが起こした虐殺に遭遇して死ぬ。レオナルドはエンディングで、フィーネが遺した形見のコンパクトを彼女の墓に捧げる。
フィーネがレオナルドのことを好きなのは間違いない。そもそも引っ込み思案の彼女がこの学園に入学した動機は、最初に騎士に憧れたレオナルドが学園の入学試験を受けると言い出したからだ。でなければ、彼女がノルン村から出てくることはなかったはずだ。そんな一途な、端からは露骨にも見える彼女の想いにレオナルドは気付かない。彼は学園で出来た新しい男友達とのバカ騒ぎや他のヒロインとの恋愛に忙しく、ストーリー上でも、これといって特徴のないフィーネはだんだんとフェードアウトしていく。
それなのにあの夢の中で、故郷に帰ったフィーネが儚く散ったことへの怒りを、レオナルドはナイアスにぶつけていたのか。
それは身勝手というものではないのかと、ふと思った。
――何を言うんだ。俺のせいだって?
――お前が彼女を殺したのに。忘れたのか?
「うっ……」
目の奥に走る鈍い痛みと共に、彼は小さく声を漏らした。
それが聞こえた訳ではないだろうが、フィーネは彼がそこに立っていることに気付いた。目が合ってしまった以上は立ち去るのも変だと思った彼は、彼女に挨拶くらいはして行こうと思った。
「ナイアスくん」
「やあフィーネ」
「こんなところでどうしたの?」
「君こそ、こんなところでどうしたんだ」
「私は別に……ちょっと日向ぼっこしてただけだよ」
「もう夕方なのに?」
「夕焼けは夕焼けで綺麗だから」
フィーネが座っているベンチは二人掛けで、彼女の隣は開いている。だが彼はそこに腰を下ろそうとは思わなかった。フィーネがそこに座って欲しいと思っている相手が、嫌われ者のナイアスでないことくらいは知っている。それくらいは空気を読んだ。
「…………」
「…………」
しばらく無言の時間が流れてから話題を切り出したのは彼のほうだった。
「すまない。君から預かったコンパクトは、まだ修理できてないんだ。今度の休みになったら学園外に出られると思うから、そのときに店を探してくるよ」
「ありがとう、ナイアスくん」
フィーネの口調は事務的だった。これまでナイアスが重ねてきた嫌がらせによる好感度のマイナスが百だったとして、それが多少の礼儀正しさでプラスに転じるなどという虫の良い話は無かった。それにもしかしたら、今朝の食堂でナイアスがレオナルドと一触即発の空気を造り出したという話は、フィーネの耳にも入っているのかもしれない。
「これ以上暗くなる前に寮に戻ったほうがいいぞ。学園内だからって安全とは限らないんだからな」
と余計なおせっかいを口にしてから、彼はフィーネの傍を離れた。少し歩いてから後ろを振り向くと、フィーネがナイアスに話しかけられる前の姿勢のまま、木立の中のベンチに腰かけているのが見えた。
§
学園の敷地は広大で、その中には運動場や図書館のようにまさに学園といった施設は言うに及ばず、礼拝堂や温室などもそろっている。キャラたちの行動パターンがゲーム通りならば誰がどこにいるかは大体の予測がつくが、フィーネがあんな目立たない場所にいたという記憶はなかった。原作の主人公が把握していなかっただけで、ゲーム内でもキャラたちは主人公の見えないところで色々と独自に行動していたのかもしれない。彼らがゲームキャラではなく「人間」になったのだとしたら、それはなおさら当然のことだ。
フィーネはあれから本当に寮に戻っただろうか。だんだん暗くなる空と自分自身が別れ際に口にした彼女への言葉に不安を誘われて、彼は幾度か背後を振り返った。
学園内だからといって安全とは限らないという言葉にはそれなりの根拠もある。ゲーム中ではこの時期までに、学園に在籍するこの国の王女を狙った誘拐未遂事件が発生しているはずだ。それはロドリックも口にしていたから間違いなかった。狙われたのは王女で、しかもレオナルドたちの活躍により事件は未遂に終わっているから心配ないと言えば心配ないのかもしれないが、やはり多少嫌われるリスクを冒してでも、フィーネを寮まで連れてくるべきだったかもしれない。
――やっぱり……。
フィーネがいたあの場所に戻ろうか。彼がそう思って足を止めたとき、悪寒が背筋を走るのを感じた。
「うげ……最悪。ナイアスじゃん」
「よせ。無視しろマルグレーテ」
「…………」
三人の学園生徒がそこにいた。男子は今朝も食堂で遭遇したレオナルドと友人のトーマスという組み合わせだ。そしてそこにもう一人、ポニーテールの女子が加わっている。マルグレーテという名の活発そうな彼女が、トーマスの「婚約者」であることを彼は知っていた。――しかしそれよりも、無言で通り過ぎようとしたレオナルドのほうに彼の目線は惹かれた。
――いいご身分だなあ。大事な幼馴染をあんな場所に放置して、お前はその二人と楽しくお遊びか?
そんな台詞が頭に浮かび、実際に口を開いてレオナルドに向けて投げつけそうになった。それと共に、あらゆる負の感情が突如として心の底から湧き上がってきた。声をかけることは我慢したものの、さぞかしいまの目つきは悪くなっていたに違いない。
「なに? なんかボクたちに言いたいことでもあるの? だったらはっきり言えば?」
ポニーテールのボクっ子少女が、細い腰に手を当てて、自分たちにガンを飛ばすナイアスに文句を言った。彼らは彼らで、楽しい放課後の時間を過ごしてきたあとに一番会いたくない「嫌な奴」に遭遇してしまって興を削がれた気分になっていたようだ。
こういうときには止め役に徹すると決めているらしい眼鏡のトーマスが、己の婚約者の肩に手を置いて首を横に振っている。
「行こう、二人とも」
レオナルドがそう言うと、レオナルドを先頭に三人は寮のほうへ歩いて行った。マルグレーテはナイアスに向けてあかんべーを送り、もう一度トーマスに「よせよ」と言われていた。
完全に一人になってから、彼は大きく息を吐いた。
「ふうう……」
本当にこの身体はレオナルドのことが嫌いなんだなと彼は思った。
初遭遇のときほど取り乱さずに済んだが、レオナルドの気配を感じただけで拳に勝手に力が入り、眉間にしわが寄るほどだった。そこまでレオナルドを憎む理由はなんだろうと思ったが、案外、理屈ではないのかもしれない。嫌いだから嫌いだというだけなのかもしれなかった。
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