第8話 一般男子生徒ロドリック
「ねえあなた、聞きたいことがあるのだけれど、ちょっと時間をもらってもいい?」
「僕?」
ユルスト王国にある騎士養成学園。その講義棟の廊下で、男子生徒のロドリックは一人の女子生徒に背後から話しかけられた。
振り向いたロドリックは驚愕した。その金髪の女子生徒が王国の隣にある帝国の侯爵令嬢ラヴィニア・ドレイクであることは、この学園の者にとっては当たり前の知識だ。学園には他国からも多くの留学生が来ているが、王国とは長年緊張関係にあり実際に幾度か矛を交えたこともある帝国の、しかもこれほど重鎮の娘が在籍しているのは、学園の長い歴史の中でもレアケースだ。
そういう意味でもラヴィニアは有名だが、彼女が目立つのは、彼女個人の見た目や性格にも理由があった。
まず、ラヴィニアが美人であるということに異論をはさむ者はいないだろう。軟弱な男子は近寄ることすらできないようなオーラを放っているものの、彼女が、一般女子たちが霞むほどの圧倒的美人であることは確かだ。そして国外の学園に在籍しながら学業はトップクラスに優秀で、剣の腕前も並みの男子を遥かにしのぐ。前期に行われたトーナメント形式の摸擬戦で男子たちを叩きのめして勝ち上がり、あのレオナルド・アーガイルと熾烈な打ち合いを演じたのは有名な話だ。
結果としてその摸擬戦ではレオナルドが辛うじて勝ちを取ったが、ラヴィニアはそのとき、レオナルドに対して観衆の面前でライバル宣言をしたという。
ロドリックが周囲を見回したのは、ラヴィニアが話しかけているのが自分だとはにわかには信じられなかったからだ。
「そんなにキョロキョロしてどうしたの?」
「え~っと、アーガイルくんはここにはいないよ?」
「ひょっとして私が彼のことを探していると思ってる? 違うわ」
「じゃあ本当に僕に話しかけてるの?」
「そうよ。あなたに聞きたいことがあるの」
「今日はなんかやたらそういうこと言われる気がするなあ……」
「……? あなた、今朝食堂でナイアスと一緒に食事をしていたそうね」
「あ、やっぱりその話?」
ラヴィニアが自分に聞きたいことがあるとして、それがレオナルドと無関係な話題であるとすればその件だという予感はあった。――いや、正確にはレオナルドと無関係とは言い難いかもしれないが。
あの摸擬戦以来、ラヴィニアがレオナルドに目を掛けているというのは、大半の生徒たちの一致した見解である。――そのときラヴィニアより先にレオナルドに倒されていたのがナイアス・オルティスだ。彼はそこで非常に無様な負け方をした挙句、敗北を認められずに審判やレオナルドに食ってかかった。あの時の態度で、わずかにナイアスを支持していた層も完全に離れてしまったと言って良い。もともとナイアスがとっつきにくい性格の上に、彼が日ごろからレオナルドに嫌がらせじみたことをしていたのもあって、ナイアスの周囲から人が離れるのは早かった。ナイアスの孤立は加速し、反対にレオナルドの周囲には常に人がいるようになった。
今朝食堂の入口にいたナイアスに声をかけるまで、ロドリックはそれらの出来事の際には常に傍観者だった。
ロドリックは弁解口調でラヴィニアに説明を始めた。
「あれは別に深い意味はなくてさ。たまたま食堂の入口で会ったオルティスくんに一緒に食事しようって誘われて、断り切れなかっただけだよ」
「……彼が自分から人を食事に誘った? 珍しいこともあるのね」
「僕もそう思う。オルティスくんと直接話したのはあれが初めてだったけど、なんか聞いてたのと違う印象っていうか……」
ロドリックがラヴィニアと話していると、一般通過生徒が彼らのことをちらちらと見てくる。「彼女と話せるなんてなんだこいつ」という感じの男子の目が痛い。ナイアスと一緒にいたときも食堂にいた生徒たちから注目を浴びたが、それとは違った意味で居心地が悪い。そこでロドリックはラヴィニアに、もう少し人の少ない廊下に移動しようよと言った。ラヴィニアは「別にここでいいでしょう?」と言っていたが、彼女は彼女で自身が注目を浴びる存在だということに無自覚なところがあるなとロドリックは思った。
あまり使われない教室の傍の人通りのない廊下に来てから、ロドリックは話を再開した。
「噂に聞いてたオルティスくんって、めちゃくちゃ性格が悪いと思ってたんだ。僕も実際に彼がアーガイルくんに無茶な言いがかりをつけてる場面を見たことがあるし」
「まあ、そうね」
「……でもなんか今朝の彼は違ってた。妙に友好的って言うか」
「そうなの?」
「だって僕は彼が嫌いな平民だよ?」
とロドリックは言った。ナイアスがそうだと知っていたかは定かでないが、平民出身の生徒を無条件で見下すことで有名なはずの彼が、自分からロドリックを誘った時点で異常と言わざるを得ない。
平民と貴族のあいだには決定的な差がある。平民の家に生まれた者はどこまでも平民で、貴族は貴族だ。いくらこの学園が表向き生徒の平等をうたっていてもそれが現実で、平民と貴族は基本的に同席しないのが不文律である。この学園を卒業したあと騎士団に入ろうとしても、代々貴族の家に生まれた者とそうでない者とのあいだには扱いに差が出る。生徒たちも自分がどの階層の出身かという意識は持っていて、学園内には平民生徒と貴族生徒のあいだで派閥ができている。ナイアスがレオナルドにちょっかいを出すのを、レオナルドに対して「いい気味だ」という感じで眺めているのは、大体が平民のレオナルドが活躍するのを快く思わない貴族生徒たちだった。――しかし平民生徒たちにとっては逆に、レオナルドが身分の壁を実力で打ち破り、親が貴族であるというだけで高慢な態度をとる貴族生徒たちを黙らせる様子は痛快だった。何を隠そう、ロドリックもレオナルドに心の中で喝采を送っていた一人だ。
帝国貴族のラヴィニアは、そういった王国内の身分対立から微妙に外れた特殊な立ち位置にあると言える。だが、彼女も本来はロドリックが話しかけることすら許されない高貴な存在だった。
「今朝のオルティスくん、あれはなんだったんだろう……」
身分の差を意識した上で気安く接することはある。だがロドリックが戸惑いを感じたのは、食堂で会ったナイアスが、そもそも身分というものをまるで意識していないかのように振る舞っていたことだ。言葉にし辛い感覚だが、そのあとでナイアスとレオナルドがいつものように険悪なムードだったことより、そちらのほうがロドリックの印象に残った。
ラヴィニアは、考え込むロドリックの横顔をしばらく眺めてから言った。
「他に何かナイアスのことで気付いたことはあったかしら?」
「食堂のおじさんにもお礼を言ってた。ありがとうございますとか、ごちそうさまとか」
「…………」
「オルティスくんって確か、入学直後に『こんな貧相なものが食えるか』とかって言っておじさんを怒らせたんだよね?」
「そんなこともあったわね……」
ラヴィニアはそのときのことを思い出していた。それは彼らが入学してから本当に間もない頃だ。そのときナイアスは文句を言うどころか料理を食堂の床にぶちまけたのだ。そこでもレオナルドがナイアスの傲慢な態度を諫め、一触即発の空気になった。
「そんなことをしたのに、いまさらあんな態度を取れるっていうのも良くわからないけど。気まずかったりしないのかな?」
まさか自分のやったことを忘れちゃった訳じゃないとは思うけど、と冗談めかして言ってからロドリックは続けた。
「でもそのあとアーガイルくんと会ったオルティスくんは、いつもの彼だったよ。もう少しでアーガイルくんに掴みかからないかって冷や冷やしちゃった」
「実際に喧嘩にはならなかったの?」
「ならなかった。アーガイルくんの傍にシュナイダーくんもいたし」
「トーマスね」
「流石に二人には敵わないってオルティスくんも思ったんじゃないかな。ただでさえアーガイルくんには負けっぱなしなんだし」
ロドリックは口元に小さく笑みを浮かべた。
ラヴィニアは、ロドリックの態度をどう思ったのかわからない表情で、「そう」とつぶやいた。
「ラヴィニアさんは、どうしてそんなにオルティスくんのことが気になるの?」
「別に大した理由じゃないわ。なんとなくよ」
「…………」
ラヴィニアにはぐらかさられたと思ったロドリックは、最後に「頼むから僕が色々喋ったって、オルティスくんには言わないでよ」と付け加えた。
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