離婚届を突きつけてきた妻、夫の僕にかまってほしいらしい。
葵井マコト
離婚届の理由
霞ヶ浦レイネは完璧だった。
洗練されたスーツを纏い、軽やかにヒールを鳴らすその姿は、まるで都市に降り立った氷の女王。大手外資系企業のプロジェクトマネージャーとして辣腕をふるい、社内では誰もが一目置く存在だった。
そのレイネが、ある日僕の部屋にやって来て、無言で一枚の紙を差し出した。
白地に黒い活字。
そこには、彼女の名前が記された――離婚届だった。
「……これ、どういうこと?」
僕はノートパソコンの画面から目を離し、彼女の顔を見る。レイネは無表情のまま、僕を見下ろしていた。
「文字通りの意味よ。離婚しましょう」
「唐突すぎない?」
「唐突じゃないわ。もう、何ヶ月も前からよく考えていたことよ」
彼女はきっぱりと言い放った。背筋を伸ばし、顎を少し上げた姿勢は、まるで社内会議のプレゼンのように凛としていた。
けれど、僕にはわかっていた。
彼女がそんなふうに冷たくする時ほど、本心は逆の方向にあるのだと。
「僕が、レイネのことを嫌いになったって思ってるの?」
「思ってるわ。じゃなければ、どうして私に触れようともしないの?」
「触れたら……怒るじゃん」
「……怒らないわよ」
ほんの少しだけ、声が弱まった。レイネは視線を逸らし、リビングの端にある観葉植物の方を見つめた。
「それにさ。最近、香水の匂い、変えたでしょ」
「……」
「前より甘くなった。今まで選ばなかったような香りだ。気づかれたくて、変えたんじゃない?」
レイネのまつげが、ぴくりと揺れた。僕は続ける。
「朝、出勤前にわざと音を立てて準備してるのも知ってる。僕が起きてくるのを待ってるんでしょ。あと、最近食器を片付けるの、わざと僕に押しつけてるよね。話すきっかけ、作ろうとしてるんじゃない?」
「……それが、何か関係あるの?」
「ぜんぶ、レイネが僕にかまってほしくてしてることだって、僕は気づいてるよ」
沈黙。
彼女の肩が、かすかに震えていた。怒っているのか、泣きそうなのか、それとも――照れているのか。レイネはそっと、離婚届の端をつまんだ。
「……じゃあ、どうして、何も言ってくれないのよ」
「レイネが強い人だと思ってたから。僕が出る幕なんてないって、思ってたから」
「バカね、あなた」
破かれた紙片が、ふわりと床に落ちた。その表情は、氷の女王ではなかった。拗ねて、すこし泣きそうな顔をした、ただの――愛しい妻だった。
「寂しいって言えばよかったのに」
「そっちこそ」
レイネは唇をかみ、息を吸い込んだ。
「……言ってやるわよ。寂しかった。あなたのこと、ずっと見てた。どうでもいいなんて思ったこと、一度だってない。……愛してるわよ、引きこもってる凄腕の株のトレーダーでも」
「……うん、ありがとう」
「ほんとに、バカ」
そう言いながら、レイネは僕の胸に額を押しつけた。
シャツ越しに感じる、彼女の熱。肩にそっと手をまわすと、小さく体を震わせる。
「だから、これからはちゃんと言って。『好き』も『寂しい』も。そういうの、聞かないと安心できないの」
「わかったよ、レイネ」
リビングのカーテンの隙間から、夕陽が差し込んでいた。
部屋の中に、優しい橙色が満ちていった。
「えっと……今日はどこか高いディナーでもご馳走するよ。いつも仕事ばかりで疲れてるだろうから、特別な時間にしよう」
「いいの? うん、なら、任せるわね」
「そ、それで、さ……。その後は、どうする? というか、どうしようかなって……」
「んふふ。ちゃんと言ってよ。他にしたいことがあるなら、自分の口で、ね?」
「ホ、ホテル……とか、行かない?」
「疑問形はダメ。自分の意志を伝えなきゃ」
「ホテル、行きたい……」
「私も……。連れてって……」
それから一生、僕達は別れ話をすることはなかった。
離婚届を突きつけてきた妻、夫の僕にかまってほしいらしい。 葵井マコト @psycoend
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