第一章:呼ばれる音

 坂の上にある神社は、まるで町から忘れられたように、静かだった。

 春の光が地面に落ちては、淡く揺れる木洩れ日となり、風に合わせて模様を変えていた。石段にはところどころに落ち葉が重なっており、苔が乾ききらないまま貼りついている。音のない場所だった。鳥の声も、車の音も、子供の笑い声も、ここには届かない。


 朝比奈湊は、そこに立っていた。

 理由はなかった。あるいは、理由というものが存在しない衝動に従っていた。


 学校の帰り、ふと坂道の途中で足を止めた。西の空に沈みかけた陽が赤く差していて、長く伸びた電柱の影が、アスファルトの上で細く揺れていた。坂を登るたびに視界が開けていき、町が下に広がっていく。海と山に囲まれたこの町は、見晴らせばその寂しさを、少し美しく思わせた。


 湊は歩いていた。リュックの重みが左右に揺れるたび、時間が少しだけ戻るような気がした。

 気づけば、伊吹神社の鳥居の前に立っていた。


 古い神社だ。もう何年も手入れがされていないのだろう。社殿の屋根には薄く苔が生え、しめ縄も色褪せ、解けかけている。町の観光案内にはいまだに名前が載っているが、訪れる人はほとんどいない。湊の記憶にあるかぎり、ここを訪れたのは小学校の課外授業のときが最後だった。


 なぜ、足がここへ向いたのかはわからない。

 だが、それを疑問に思う気持ちも、どこか遠くにあった。


 鳥居をくぐると、世界の音が少し変わった。

 背後にあったはずの町の雑音が、幕の向こう側へ追いやられたように薄まっていく。風の音、葉の擦れる音、微かな水音──すべてが、意識の内側に沈んでいく。


 石段を登るたびに、湊の呼吸も静かになっていった。

 身体がそこにあることさえ、少しずつ曖昧になっていくようだった。

 一段ごとに、何かを置いていくような。あるいは、何かに近づいているような。


 社殿の手前、ひときわ低い祠の前で、湊は足を止めた。


 そこに何かがいる──そう思った。

 目に見えるものではなかった。姿も、影もない。ただ、そこに“存在”があった。

 それは空気の密度に近い。真夏の蒸し暑さではないが、肌にうっすらと湿り気が張りつくような、言葉にならない違和感。


 湊は、右手をそっと伸ばした。

 祠に触れるわけでもなく、その手前、空気を裂くように、ただそこに“触れた”。


 ──その瞬間だった。


 胸の奥に、何かが流れ込んだ。


 強い衝撃ではなかった。痛みもない。ただ、深く、広く、澄んだものが、一気に心の中を満たした。

 視界の端に、薄い光が見えた。それは形を持たないが、確かにそこにあった。


 風が吹いた。木々がざわめいた。

 けれどそのざわめきは、まるで声のようだった。


 「──おまえは、まだ、ここにいたのか」


 男とも女ともつかない声。幼いとも、老いたとも思えない声。

 耳ではなく、鼓膜ではなく、もっと別のところに直接届く響き。


 湊は、その場に立ち尽くした。


 意味がわからなかった。

 けれど、感情は先に応えていた。

 「怖い」でもなく、「驚き」でもなく、

 ただ──懐かしい、と思った。


 


 それからどれほど経ったのか分からなかった。

 気づけば陽は完全に傾いていて、社殿の影が地面を覆っていた。


 風が、ふたたび吹いた。

 葉が揺れ、ひとひらの枯れ葉が舞い落ちる。

 その葉の落ちた位置に、小さな白い石があった。


 湊はそれを拾った。

 手のひらに乗るほどの、小さな石だった。中心に、かすかに文字のようなものが刻まれている。だがそれは、今までに見たどんな言語にも似ていなかった。


 ──なぜこれを、ここに?


 問いかける声はなかった。

 ただ、風の音だけが、また町の方から戻ってきた。


 


 家に帰ると、祖母が座敷に座っていた。


 「……湊。今日は、伊吹さんに行ったのかい?」


 問いかけはあまりに自然で、むしろこちらが言葉を失った。


 「……どうして、わかったの?」


 祖母──澄江は、少し笑った。

 その笑みは、懐かしさと、哀しみと、少しの諦めが混ざったような、不思議な色をしていた。


 「春先はね。そういう時季なのさ。見えるようになる。昔からそうだ」


 「何が──見えるって?」


 「影だよ。人の形をしていない影。だけど、人の言葉を知ってる。そんなものたちだ」


 湊は、胸元に入れた白い石の感触を思い出した。

 それは、体温を通して微かに震えているようにも感じられた。


 「湊、お前には見える。あたしと同じように。そういう目を、持って生まれてきたんだよ」


 それが、始まりだった。

 記憶の底で、何かが目を覚ますような気配があった。

 言葉よりも早く、名前よりも深く、存在に刻まれていた何かが、静かに浮かび上がろうとしていた。


 


 その夜、湊は眠れなかった。

 窓の外では風が鳴いていた。

 どこか遠くで、声がしていた。


 ──かえれ。


 それは風の声だったのか、自分の記憶だったのか、それとも祠の中にいた“何か”の残響だったのか。

 湊は目を閉じて、そのまま音の奥へ沈んでいった。

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