腹ペコ令嬢のグルメ革命 ~「美味しいは罪」な国で料理の幸せを取り戻す物語~

もこもこ

第1話 転生したら一日一食!?私の胃袋が許しません!

「残り時間、三十秒!」


 司会者の声が会場に響き渡る。食品メーカー主催の新商品PRイベント「究極のラーメン早食い選手権」決勝戦。ステージ上では、各企業の代表者たちが熱々の激辛ラーメンと格闘していた。


 望月桃香(25歳)は、自社の商品開発部代表として出場していた。栗色のショートヘアを後ろで小さくまとめ、汗で前髪が額に張り付いている。大きな瞳は優勝賞品に釘付けだった。本来なら営業部の男性社員が出るはずだったが、直前に体調不良でリタイア。「私が行きます!」と名乗り出たのだ。


「もも先輩、無理しないでください!」


 応援席から後輩の声が聞こえる。しかし、桃香の視線は揺るがない。


 ——新開発ラーメン全種類、一年分。


 商品開発者として、これほど魅力的な賞品はない。全種類を心ゆくまで研究できるのだ。


「残り十秒!」


 隣の出場者が脱落した。激辛に耐えきれず、水を飲んでしまったのだ。残るは桃香ともう一人。


「負けられない……!」


 桃香は丼を持ち上げ、残りのスープを一気に流し込んだ。熱い。辛い。でも、美味しい。自社の新商品「地獄の業火ラーメン」は、辛さの中にも深い旨味があった。


「五、四、三、二——」


 最後の麺をすすり込む。しかし、焦りすぎた。熱々の麺が、そのまま喉に——


「っ!」


 気道を塞がれ、息ができない。桃香は喉を押さえてもがいた。会場がざわめく。スタッフが駆け寄る。


 朦朧とする意識の中、優勝トロフィーの横に積まれたラーメンの山が見えた。


「優勝賞品の……一年分の……ラーメンが……」


 それが、望月桃香、二十五歳の最期の言葉だった。皮肉にも、愛するラーメンに命を奪われた瞬間だった。


 目を開けると、見知らぬ天井があった。


 いや、天井というより、朽ちかけた木の板と言った方が正確かもしれない。隙間から朝の光が差し込み、埃がきらきらと舞っている。


「……天国って、案外ボロいのね」


 身体を起こそうとして、違和感に気づく。手が小さい。いや、手だけじゃない。全身が縮んでいる。慌てて近くにあった鏡を覗き込むと、そこには見知らぬ少女が映っていた。


 栗色の髪は肩まで届く長さで、ゆるやかな巻き毛が朝日を受けて蜂蜜色に輝いている。エメラルドグリーンの瞳は大きく、長い睫毛がそれを縁取っていた。ぷっくりとした唇は桜色で、頬にはほんのりと赤みが差している。小柄な体型だが、年齢の割に胸元は豊かで、薄い寝間着越しにも柔らかな曲線が見て取れた。


「えっ……えっ?」


 ふわふわとした髪を触ってみる。絹のような手触り。頬をつねってみると、もちもちとした感触。前世とは比べ物にならないほど若々しい肌だ。


「可愛い……けど、これ誰?」


 ガチャリと扉が開き、老人が入ってきた。


「エリザベッタ様! お目覚めになられましたか!」


 エリザベッタ? 誰それ?


 老人——どうやら執事らしい——は涙を流しながら近寄ってきた。


「三日も目を覚まされなかったので、心配で……朝食をお持ちしました」


 朝食という言葉に、身体が反応した。そういえば、ものすごくお腹が空いている。前世の最後の記憶が蘇る。そうだ、私はラーメン早食い選手権で——


 執事が差し出したトレイを見て、桃香——いや、エリザベッタは凍りついた。


 固そうな黒パンが一切れ。

 薄い塩水のようなスープ。

 以上。


「……これで、全部?」


「申し訳ございません。我がデリシャス男爵家も、最近は台所事情が……」


 エリザベッタは震える手でスプーンを取り、スープを一口飲んだ。


 まずい。


 いや、まずいという次元ではない。これは塩水だ。出汁の概念が存在しない、ただの塩水。パンをちぎって口に入れると、顎が外れそうなほど固い。しかも酸っぱい。発酵しすぎているのか、それとも元からこういう味なのか。


「ご、ごちそうさま……」


 無理やり飲み込んで、エリザベッタは執事に尋ねた。


「あの、ジョンさん? お昼ご飯は何時頃に?」


 執事——ジョンは困惑した表情を浮かべた。


「お昼ご飯、でございますか? それは……」


 ジョンは急に顔を青ざめさせた。


「エリザベッタ様、まさか『聖餐主義』の教えをお忘れではありませんよね? 一日一食こそが、清く正しい生き方。それ以上を求めるのは『暴食』の罪です」


「ぼう、しょく?」


 エリザベッタの脳内で、何かがプツンと切れる音がした。


「一日一食って……私、前世では一日六食は食べてたのに……」


「エリザベッタ様?」


「いえ、なんでもありません。あの、台所を見せていただけますか?」


 その時、玄関から激しくドアを叩く音が響いた。


「デリシャス男爵! 借金の取り立てに参りました!」


 ジョンが慌てる。


「また、カニンガム商会の……」


 エリザベッタが応接間に駆けつけると、そこには恰幅の良い中年男性と、その隣に立つ若い女性がいた。


 女性は二十代前半、艶やかな黒髪を後ろでまとめ、いくつかの房が顔の横に流れている。切れ長の瞳は深い茶色で、まるで溶けたチョコレートのよう。すらりとした長身で、深紅のドレスが彼女の曲線美を際立たせていた。胸元は大胆に開いており、白い肌と豊かな谷間が覗いている。細いウエストから広がるスカートは、歩くたびに優雅に揺れた。


「初めまして、エリザベッタ様。私はリリアーナ・フロストバイト、カニンガム商会の会計係です」


 リリアーナは冷たい微笑みを浮かべた。その美貌とは裏腹に、氷のような冷徹さを感じさせる。しかし、よく見ると唇の端がかすかに震えている。何か別の感情を押し殺しているかのようだ。


「お父様の借金、総額五百ポンド。本日が返済期限です」


「ご、五百ポンド!?」


 ※1ポンド=20シリング。当時の労働者の年収が約50ポンド程度なので、500ポンドは労働者の10年分の年収に相当する莫大な金額。


 ジョンが青ざめる。エリザベッタも、この身体の記憶から、それがとんでもない金額だと理解した。


「もちろん、返済できないでしょうね」


 リリアーナは帳簿を開き、ペンで何かを記入する。その仕草さえも優雅で、まるで舞台女優のようだ。長い指が羽ペンを操る様子は、なぜか官能的ですらあった。


「この屋敷と土地を差し押さえさせていただきます。三日以内に退去してください」


「そ、そんな……」


 エリザベッタは必死に考えた。このままでは路頭に迷ってしまう。何か、何か方法は——


「待って!」


 エリザベッタは叫んだ。思わず立ち上がった拍子に、寝間着の裾がめくれ、白い太ももが露わになる。慌てて押さえたが、リリアーナの視線がそこに一瞬向けられたのを見逃さなかった。


「私に、チャンスをください。必ず返済します」


 リリアーナは興味深そうに眉を上げた。長い睫毛が印象的だ。


「ほう? どうやって?」


「私は……料理で稼ぎます!」


 沈黙が流れた。やがて、リリアーナは小さく笑い声を漏らした。笑うと、冷たい美貌に一瞬だけ人間らしさが宿る。


「料理? この国で? 誰も美味しいものなど求めていませんよ。『聖餐主義』の教えでは、食事は生きるための義務。楽しむものではありません」


「でも——」


「いいでしょう」


 リリアーナは帳簿を閉じた。


「一ヶ月の猶予を差し上げます。その間に百ポンド稼げたら、残りの返済も待ちましょう」


「本当ですか!?」


「ただし」


 リリアーナは立ち上がり、エリザベッタに近づいた。甘い香水の香りが漂う。バラとジャスミンを基調とした、高級な香りだ。


「失敗したら、あなたも商会で働いていただきます。その愛らしい顔と……魅力的な体なら、いい広告塔になるでしょうから」


 リリアーナの指がエリザベッタの頬に触れた。ひんやりとした感触に、エリザベッタは身震いした。指先は頬から顎のラインをなぞり、首筋で止まる。


「一ヶ月後、また参ります。せいぜい頑張ってくださいね、お嬢様」


 リリアーナとカニンガムが去った後、エリザベッタは拳を握りしめた。頬にはまだ、リリアーナの指の感触が残っている。


「いいわ。チートスキルがなくても、前世の知識があれば何とかなる。この世界の食文化を、根本から変えてやる!」


 窓の外を見ると、煙を吐く工場の煙突が見えた。労働者たちが朝早くから働いている。彼らも、きっと『聖餐主義』に縛られて、まともな食事をしていないに違いない。


「まずは、出汁よ。出汁さえあれば、このスープも飲めるようになる。そして、人々に美味しさを思い出してもらう」


 エリザベッタは台所の食材を物色し始めた。その目は、ラーメン早食い選手権に挑んだ、あの狂気の輝きを宿していた。


「見てなさい、この世界。私の胃袋が、革命を起こしてやる!」


 ルミナール王国の片隅で、一人の転生令嬢の食への執念が、歴史を変える第一歩を踏み出した瞬間だった。


 しかし、エリザベッタはまだ知らない。『聖餐主義』の教えがどれほど人々の心に根付いているかを。そして、美味しいものを広めることが、どれほど困難で危険なことかを——

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