第1章3話

 その夜、グレイスはノーマンと一緒に下町のとある酒場に向かった。

 夜も更けていて人通りは少ないが、ドレスで歩き回れば悪目立ちしてしまう。そのため、下町を歩いていても浮かない簡素な格好に着替えてから家を出てきた。隣を歩くノーマンも、執事とわからないように普段着だ。

「お嬢様、本当にあのガンナーに交渉にいくのですか?」

「もちろん。そのために来たんだから」

 ワイルドボア討伐を引き受けたと伝えたら、ノーマンから長々と叱られた。討伐隊のスカウトのため酒場に向かうと聞いて付き添いで来たものの、ノーマンはまだ止めたがっているようだ。

「ガンナーの評判を知らないわけではないでしょう?」

「知ってるわ、有名だもの。王都で一番強い者は誰かと問えば、誰もが名を挙げる剣士」

「血に飢えた、という冠辞がつきますけどね。腕のよさ以上に悪い噂が後を絶たない方ですよ?」

「強いに越したことはないでしょう。それに会って話してみなければ、実際はどんな人なのかわからないじゃない?」

「お嬢様……」

「ガンナーは大のビール好きらしいわ。ビール好きに悪い人はいないというのが、わたしの持論よ」

「はあ……感動しかけた私が愚かでした」

 それ以上何か言ってもグレイスは耳を貸さないと思ったのか、ノーマンは諦めたように口を閉ざした。

 やがて、グレイスたちは目的の酒場に到着した。周りの店がすでに閉店している中で、その店の窓からは煌々とした明かりが漏れ、路面を照らしている。

「じゃあ、行くわよ」

 ノーマンが小さく頷き、グレイスは扉に手をかけた。

 重い木の扉を開けて中に入ると、客から一斉に視線を浴びる。場に合わせた身なりをしていても、纏う雰囲気までは変えられない。居合わせた客たちは、すぐにグレイスとノーマンが下町の者ではないと見抜いたようだった。

 客たちはニタニタと笑いながら、グレイスをちらちらと見ては囁き合っている。

 これなら変に取り繕わず、直球で話を持ち掛けたほうがよさそうだ。グレイスは店内をざっと見渡して、奥の席にいる左目に十字の傷が入った男のところへとまっすぐ足を向けた。

「あなたが、ガンナー=ヒュージ?」

「あ? 誰だ、お前?」

 ガンナーたちは4人でテーブルを囲んでいる。おそらくいつも面子なのだろう。グレイスに無関心な者もいれば、敵意をむき出しにしている者もいる。

「わたしは、グレイス=ミンター。今日はあなたにお願いがあって来たの」

「断る」

「成功報酬はそれなりに弾むわ。悪い話じゃないと思うけど?」

 すると、ガンナーの隣にいた男が鼻で笑う。

「俺たちが報酬だけで仕事を選んでると思ったら大間違いだ。帰れ。酒がまずくなる」

「そう。仕方ないわね。あの王城騎士団でも手を引いた仕事だもの」

 その言葉に、ガンナーのこめかみがピクリと動いた。

「あなたたちなら、やってくれると思ったわたしが間違っていた。他をあたるわ」

「待て」

 踵を返そうとしたグレイスを、ガンナーが呼び止める。

「聞くだけ聞いてやってもいい。ただし、お前が勝負に勝ったらな」

「どんな勝負?」

「飲み比べだ」

 ガンナーが店のマスターに目で合図すると、大ジョッキが2つ運ばれてくる。中には、並々とビールが注がれていた。

「お前がジークに勝ったら、話を聞いてやる」

 ガンナーの隣にいる男はジークというらしい。

「いいぜ、相手してやっても」

 ジークが煽るように言うが、グレイスは目の前のビールにすっかり魅入っていた。こんなに大きなジョッキでビールを飲んだことはない。グレイスは喉をこくりと鳴らした。

 黙ったままのグレイスに、ジークがさらに続ける。

「どうした? 庶民が飲むビールなんて、ご令嬢様が飲めるわけねえか?」

 ジークの高笑いを聞きながら、グレイスはようやく口を開いた。

「いいわ。その勝負のった」

「おやめください、お嬢様」

 グレイスが受けて立とうとすると、すかさずノーマンが止めに入る。

「止めないで、ノーマン」

「ですが、お嬢様……」

 周りの男たちには、ノーマンがグレイスの身を案じているように見えているみたいだが、ノーマンが心配しているのは別のことだろう。グレイスが喜んでビールを飲み過ぎてしまうのではないかということだ。

 そして、そんなノーマンの懸念は的中していた。

「願ってもない勝負だわ」

 グレイスは嬉々として一歩前に出て、テーブルの上のジョッキを掴んだ。

 周りの男たちもグレイスが本気だと悟り、場の空気が一変する。ジークも真剣な面持ちでジョッキを手に取った。

 グレイスとジークが睨み合う中、店のマスターが進み出て合図を出す。

「いいですね? レディ……ゴー!」

 スタートと同時に、グレイスはジョッキを大きく傾けた。店まで歩いてきたこともあり、潤いを求めていた喉はビールをどんどん吸収していく。

 飲むスピードが僅差なのか、周りの客たちから声援や野次が飛び交う。

 最後の一滴まで流し込み、グレイスはジョッキを置いた。一瞬遅れて、ジークがジョッキから口を離したのが見えた。

「わたしの勝ちみたいね」

 勝負を見守っていた他の客たちは、グレイスの飲みっぷりに感心したようで、「やるじゃねえか」など称賛の声が飛んでくる。

 しかし、ジークは負けを認めたくないようだ。

「待て。誰が速さを比べる勝負だと言った? 量で競え」

 確かにスピード勝負とは言っていないが、なんてずるいやり口だろう。少し苛立ちを覚えたものの、グレイスは頷き返した。

「いいわ。続けましょう」

 この店が出すビールは、なかなか美味しい。もう1杯飲めるなら、願ってもない話だ。

 新しいジョッキがテーブルに運ばれ、マスターの合図と共に再び勝負は始まった。

 お互いに一歩も引かず、ジョッキがひとつ、またひとつと空いていく。グレイスもジークも順調に飲み進めていたが、胃袋には限界がある。徐々にどちらもペースが落ち始めた。

「さすがに少しきつくなってきたわね」

 グレイスが呟くと、ジークの顔にわずかに安堵の色が浮かぶ。

 しかし、グレイスはおもむろにブラウスの裾をまさぐり始めた。

 ジークも他の者も目を疑った。グレイスの腹には、体を鍛えるための板状の鉄の重りが巻き付けられていたからだ。グレイスがそれを外すと、ゴトンという鈍い音を立てて重りが床に落ちる。

「はあ、これで楽になった。まだまだ飲めそう」

 グレイスがジョッキを傾けて、残っていたビールを軽々と飲み干す。ジークの表情が絶望に変わり、目を剥いてテーブルに突っ伏した。

「今度こそ、わたしの勝ちね」

 ガンナーは煩わしそうに鼻を鳴らした。

「仕方ねぇな。さっさと話せ」

「短刀直入に言うわ。南西地方に出たゴールドワイルドボアの討伐を手伝ってほしい」

「手伝ってほしい? 誰の手伝いだ」

「わたしよ。ひとりじゃ倒せそうにない。かなり大きくて凶暴らしいの。だから、あなたたちの力が必要よ。そいつを倒さないと、スノーデルとの貿易経路が絶たれてしまう」

「なるほど。そりゃ大変だ。だが、断る」

「どうして?」

「気に入らねえからだ。お前ら貴族の指図は受けないと決めている」

 ガンナーのひと言に、先ほどまで勝負で湧いていた客たちが緊張感を漂わせ始めた。グレイスが自分たちとは違う立場の人間だと思い出したかのように、敵意を滲ませている。

「いいか。この国じゃあな、上のやつらは一生甘い汁を吸い続け、下の者は一生上のやつらがいい思いをするための歯車だ。どこまでいっても、その仕組みは変わらない。お前ら貴族にとって俺たちは使い捨ての駒で、ただの道具にすぎねぇ。そんなやつらに従う義理はない」

 ガンナーは軽い調子で語るが、言葉の端々からやるせなさが垣間見えた。

この国は変わらない。今ガンナーたちは国に対する鬱憤を、グレイスを通して見ているのだろう。

 どんなに想像を働かせても、公爵家に生まれ育ったグレイスに、ガンナーたちの思いを完全に汲み取ることはできないかもしれない。

 それでも、グレイスの中に悔しさがあった。

「……だから、変えないの?」

「ああ?」

 呟かれた言葉に、ガンナーが眉間にしわを寄せる。

「そうやって、何も変えようとしないで、この先も生きていくの?」

 さっきよりもはっきりした声で言うと、周りの客たちまで席から立ち上がり騒ぎ出した。怒号に近い声が飛び交う中、それを遮るようにグレイスは声を張った。

「あなたたちは!」

 しんと店内が静まり返る。グレイスは息を整えてから続けた。

「あなたたちは……ペール渓谷のコカトリスを全滅させたことがあるわね。絶滅危惧種だから、当時王都ではあなたたちへの罵詈雑言で溢れ返っていた。それが、今から3ヵ月前」

 しかし、ついこの前、生態学者が出した論文に書かれていたのは、世論とは異なる内容だった。

「コカトリスを倒したのは疫病の感染源であると気づき、近くの町への被害を最小限に抑えるため。そうでしょう?」

 ガンナーたちは何も答えず、沈黙を貫いている。

「ひと月前には、キトル地方のゴブリンの集落を焼き払ったと聞いたわ。それも人間たちから不当に労働を強いられているゴブリンたちを、火災に乗じて逃がすため」

「……っ、なんでそれを」

 ジークが耐えかねたように呟いた。

「仕事柄、本の仕入れのためにいろいろな場所へ出向いているの。そのゴブリンたちは、今は別の地で平和に暮らしている。あなたたちに感謝していたわ」

 それを聞いたジークの表情がかすかに和らいだ。

「あなたたちは、国の手が回らない問題をいつも先回りして解決してきた。地位も名誉も置き去りにして。でも、このままでいいの?」

 グレイスは怒りに震えていた。

 ガンナーたちは昼間からビールを飲み、堕落した生活を送る荒くれ者などではない。もっと世間から容認され、称賛されるべきだ。

 ガンナーたちの行為も。

 そして、ビールも。

 ガンナーたちの悪いイメージを払拭しなければ、いつまで経ってもビールのイメージもよくならない。これは、ビールへの印象を改善するための第一歩だ。

「今こそ、失われた名誉と誇りを取り戻す時なんじゃないの?」

 グレイスの問いかけに、また店内に沈黙が落ちる。すると、ジークがおもむろに口を開いた。

「なんであんたが、そこまで俺たちに肩入れするんだよ?」

「少しは……わかるからよ」

 それは、ビールに出会うまで気づかなかったものだ。

「わたしにもあるの。生まれた家や身分のせいで、手に入れられないものが」

 もし、公爵家の令嬢として生まれていなければ。庶民の男に生まれていたならば。毎晩のようにビールを飲めたのだろう。隠れてひとりぼっちで飲むこともなく、こうやって仲間とビールを飲みながら夜を明かせたのだろう。

「越えられない壁を感じているのは、わたしも同じ。だから、わたしはいつか、この国の凝り固まった価値観を変えたいと思っている」

 そのとき、静まり返った店内に、ガンナーの豪快な笑い声が響いた。

「小娘がでかい口叩いてやがる」

 ひとしきり笑った後で、ガンナーはマスターに向けて指を二本立てた。まもなくして、ガンナーたちのテーブルに、ジョッキが2つ運ばれてくる。

「手始めに、この町での交渉成立の仕方を教えてやる」

「え、じゃあ……」

「ああ、依頼は受けてやる。でけえ猪一匹、倒したくらいで何か変わるとは思えないがな。お前たちもそれでいいだろ?」

 ガンナーが呼びかけると、ジークをはじめとした仲間が頷く。

「改めて、ジークだ」

「僕はシェル」

 ジークの向かいに座っていた中世的な顔立ちの青年が続き、最後に無口そうな男がぽつりと名乗り出た。

「……オルトだ」

「引き受けてくれて、ありがとう」

「礼は任務が成功してからにしろ」

 ガンナーはジョッキのひとつを手に取り、もうひとつをグレイスの前に置く。促されるままグレイスがジョッキを持つと、ガンナーが立ち上がり腕を前に出した。

 なんだろうと戸惑っていると、ジークが横から助言をする。

「腕を絡ませて、一気飲み。それが俺たちのやり方だ」

 言われた通り、グレイスはジョッキを手にしているほうの腕を、ガンナーの腕に交差させた。ガンナーがそのままジョッキを仰ぐようにして飲み始めるので、慌ててグレイスもそれに倣った。

 同時に最後の一滴を飲み干すと、腕を解く。どうやらこれで交渉成立ということらしい。

「出発はいつにする?」

 ガンナーが椅子に座り直しながら、尋ねる。

「明後日の朝に!」

 答えながら、グレイスは不思議な高揚感に包まれているのを感じた。

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