第三章 偽・乙女恋戦鎮魂曲 その十五

『この不毛な争いに、救いはないのか!』


 俺が胸のうちで慟哭した瞬間、見上げた天が煌々と光り輝いた。よく晴れた青空、そこに昇る太陽は超常的な力によって神々しい光を放ったのだ。誰もが息を呑み、その光景を仰ぎ見る――たちまち周囲の喧騒はやんでしまった。


 噂では一昨年、ある同輩が単身で土木科と流星高校の乱闘騒ぎを止めたというが、まさかその再現をこの目で垣間見ることになるとは思いもしなかった。幾匹ものカラスが、ある同輩を乗せた一台のブランコを運んでいる――工業高校唯一の永世中立人・ホトケは天の後光とともに顕現したのだった。その姿はまさにこの世の苦しみから人々を救う仏だった。乱闘騒ぎをしていた者たちは皆、心の平穏を取り戻し、その拳をほどいていく……あの登場の仕方だと、仏というより妖怪に近いと思ったことは心に固く秘めておくことにしよう。


「……何やってんだろうな。俺たち」


 不良の一人が呟いた。それは敵味方関係なく伝播していき――殺気に満ちていたはずの不良集団はバイクに跨ると、吹き抜ける疾風のように競技場を去ってしまった。


「おい、お前ら!」


 俺がヘッドの胸ぐらを離すと、奴は小さくなるバイクの群れに狼狽する。


「……クソッ! 工業高校のアホザルども、覚えていやがれ! 次はぐうの音も出ないほど痛い目に――」


「おいおい。あんた、このまま無事に帰れると思ってんの?」


 ヘッドの渾身の捨て台詞は、ようやく観客席から下りてきたブロによって無情にも拾われてしまった。奴の背後に迫るおぞましい人影……電気科の同輩たちは皆一様に体を強張らせ、自分が標的にならないことを天上のホトケに祈った。


「――可愛らしい坊やねえ。今日は全身の皮という皮がベロンベロンにひん剥けるまで、アタシたちが洗ってあげるわよおん‼」


 ……俺はこの瞬間、絶対にブロを敵に回さないことを誓った。ヘッドの背後に並ぶのは、いつの日か迷い込んだ混浴風呂のオカマ集団だった。マチ江は奴の肩を艶めかしく抱き、恍惚の表情でその怯える顔を覗き込んでいた。彼が合図を送ると、奴は悲鳴を上げる間もなく簀巻きにされ、そのまま駐車場の方へと担がれてしまった。これぞ勧善懲悪と言うべきだろう。奴はあっけなくオカマ地獄へと落ちていった。


「あら、坊ちゃん。あれから乙女との恋に進展はあったのかしら?」


 不良集団が去り、天からホトケが見守る競技場で、マチ江は俺に声をかけた。


「進展なら、これからするつもりだ」


「……相変わらず諦めが悪いわね」


「銭湯ではマドンナが世話になったな。彼女も、マチ江には感謝していたぞ」


「別に礼を言われることはしてないわよ……ん? ちょっと待って。あなた今、誰が世話になったって――」


 俺とマチ江の会話は、慌てて登場した妹によって中断された。


「おい、メメさん! しっかりしろ‼」


 気絶するメメを抱えながら、妹は柄にもなく涙声で叫んでいた。


「……こ、この声は」


「ああ、良かった! みんな! メメさんが目を覚ましたぞ‼」


「……ああ、女神様……僕は……あ、あなたのことが……す、好きです……付き合ってくだ……さ……」


「おい、しっかりしろ! 付き合うってどういうことだ……まだ話は終わってねえぞ‼」


 妹は、見るからに重症なメメの体を必死に揺すった……妹よ、もう許してやれ。彼は男らしく、立派に自分の胸の内を告白したのだから。


「……坊君」


 俺のあだ名を呼んだのは、どこか神妙な面持ちで俯くマドンナだった。


「あ、あの、お兄様を助けてくれて、ありがとうございました……」


「メメには恩がある。当然のことをしたまでだ」


「……その恩とは、乙女のことですか?」


「そうだ」


 俺が答えると、マドンナは、その美しい顔にうっすらとだが、これから起きる出来事の全てを諦めてしまったような、悲哀と絶望を湛えていた。それはまるで、彼女が誰にも開示できない重大な秘密を抱えているようだった。


「……本当は、本人の口から打ち明けるべきなのかもしれません」


 マドンナは慎重に言葉を口にする。


「ですが、今、坊君に打ち明けなければ、きっとわたくしたちは坊君を裏切ることになってしまうから! ……あなたに秘密を打ち明けます」


「秘密か。隠し事の一つや二つ、誰でも持ち合わせているものだ」


「そのような簡単な話ではないのです。だって、これから打ち明ける秘密によって、わたくしは坊君の恋を終わらせてしまうのですから……いいですか? これまで必死に捜していた乙女、その正体は――」


「……メメだろ?」


「そうです! 乙女の正体は、実は女装をしたわたくしのお兄様で……え?」


 マドンナはその大きな瞳を丸くすると、目の前に立つ俺と、妹に介抱されるメメを交互に見比べた。


「い、いったいいつから気付いていたのですか⁉」


「昨日の放課後だ。男装の秘密を打ち明けた君はあの日の乙女と同じ顔をしていたのだ……桜が舞う四月初めの、初めて出会った乙女と同じ顔を」


「……そうだったのですね」


 マドンナは冷静さを取り戻すために大きく深呼吸をする。


「お兄様は日頃より、坊君に謝罪することばかりを考えていました。不躾なお願いだということは承知しています。ですがどうか、乙女の件でお兄様を責めないであげてください」


 ずいぶんと遠回りをしてしまったが、ようやく俺は一つの恋路に決着をつけることができたようだ。


「絶望の淵に立つ乙女は初めからこの世界に存在しなかった――それはそれで良いことなのだ」


「……坊君」


「だから、マドンナよ。顔を上げてくれ」


 俺はマドンナに背を向け、競技場の外へと歩き出した。廃工場から競技場まではカー吉の車に乗せてもらったが、ふむ、帰りはバスか……しかし、あいにく俺は金を持ち合わせていない。徒歩で帰ろうにも、街の中心部まではかなりの距離がある。


「――あの、坊君!」


 マドンナは俺のあだ名を叫んだ。振り返ると、スカートの裾を握りしめる彼女が、俺のことをじっと見つめていた。


「初めて会ったあなたは、まるで正義のヒーローみたいでした」


 正義のヒーローか。気持ちは嬉しいが、俺は、そんなに大層な人物ではない。女装した友人の正体すら見抜けない愚鈍な男だ。


「わたくしは、あなたが好きになった乙女ではないけど、あなたが捜していた乙女は、この世界には存在しないけど――」


 ああ、そうだ。俺が捜していた乙女は、この世界には存在しない。つまり、俺の恋心は初めから偽りだったのだ。


「男の子の遊びが好きな、偽りだらけのわたくしだけど――あなたのことが、好きになってしまいました」


「……俺のことが」


「好きです! わたくしはあなたのことが大好き‼」


 マドンナはスカートの裾を目一杯に握りしめ、思いの全てを叫んだ。それは俺だけに向けられた、嘘偽りのない本物の好意だった。


「……俺は、何と答えたらいいのか分からない」


 マドンナの突然の告白に、正直、俺は面食らっていた。これまで乙女に一途だった俺は、誰かに好意を向けられることなど微塵も想定していなかったのだ。彼女は気立てが良く、互いに気心も知っていて、俺にはもったいないくらいに可愛い女子だ。そんな彼女が俺のことを好いてくれている。


 しかし、心の引き出しのどこを探しても、マドンナに返す言葉が見つからなかった。


「つまるところ、お前はお人好しが過ぎるんだよ。誰かに与えてばかりじゃないか」


 そう言って、俺の肩に手を乗せたのは、猫背でにやけるブロだった。


「これまで恋だ愛だと街中を巻き込んでおいて、この体たらくだ……いいか? 坊、受け取ることも愛なんだぞ?」


「受け取ることも……」


 ……父よ。あなたが早々に旅立ってからというもの、俺は少々気を張り過ぎていたのかもしれない。


 俺はマドンナの火照った顔を見つめた。彼女は勇気を振り絞って、俺に告白をしてくれたのだろう。


 いったい俺は今、どんな顔をして、ここに立っているのだろうか。人生の全てを諦めてしまったような悲哀と絶望……少なくとも、そんな顔をしている暇などないほどに、俺の心は色めき立っていた。


「――こんな俺でよければ」

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偽・乙女恋愛狂騒曲 久保慧眼 @keigan_kubo

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