第二章 偽・乙女湯煙夢想曲 その十三

 ……嫌な予感はしていた。そこには乙女が汗を流す混浴風呂などなかったのだ。


 しかし、三度も続けて脱衣所の暖簾をくぐることを、いったい誰が予想できるだろうか。前を向いても脱衣所、後ろを向いても脱衣所……肝心の目的を見失いそうになった俺は、目の前で立ち尽くすタイガに声をかけられずにいた。


「……来たか、坊」


 タイガは背を向けたまま言った。彼の視線の先にはやはり例の立札があった。



混浴を楽しむための定


 一、ボディーチェックをしましょう



「なあ坊、いくら男と女が同じ風呂に入るとしても、これはちと、やり過ぎやと思わへんか?」


 タイガは訝しげな顔で立札を睨みつける。


「これまで散々俺らの見てくれを審査しておいて、次はボディーチェックって……これ以上、俺らの何を調べるっていうんや? 指導教諭の服装検査かて、こんなに厳しないで?」


 タイガの疑念は、俺たちが理解不能な状況に立たされていることを再認識させた。


 確かに、俺たちは番頭に秘密の合言葉を伝え、特別な階層へと案内された。脱衣所の試練に挑み、同輩たちが散っていく中、ついに俺とタイガ、そして、後方の脱衣所で衣服を脱ぐメメの三人だけが勝ち残ったわけだが……。


『――可愛い坊やたち。すぐ迎えに行くから、そこで待ってなさあい』


 脱衣所に鳴り響く、ねっとりとした声。それは先ほどまでの機械音声とは別の、明らかな肉声だった。そのわざとらしい女口調とは裏腹に酷く野太い声……ああ、何ということだ。俺たちは番頭の男が同じ口調で話している時に気付くべきだった! 


 これは、混浴風呂に入るための試練ではなかったのだ! 訪れた男たちを執拗なまでに品定めする! この奇怪な状況と! 目前の引き戸に射す複数の人影の正体は――‼ 


「さあ坊やたち! 今からアタシたちとボディーチェックよおん‼」


 引き戸は乱暴に開け放たれ、脱衣所になだれ込んできたのは、男でもあり、女でもあり、故に、そのどちらでもない存在――浴巾で胸から下を隠すオカマの大群だった。


「「ギャアアアアア‼」」


 叫ぶのが先か、走るのが先か。俺とタイガは競うように踵を返した。


 混浴風呂なんて分かりやすい餌に釣られて、気付けば、パンツ一丁……つまり、俺たちはオカマに食われるために用意された餌だったのだ。タイガの背後に控えていた俺は、彼より一瞬だけ早く脱衣所の出口へと辿り着いた。俺は慌てて引き戸に手をかけた。


 しかし、その刹那、乙女のことが頭をよぎった。背後に迫るオカマの軍勢に彼女がいる可能性は……否、万が一にも、億が一にもあってたまるものか。わが愛しの乙女が、女装をした男なはずがない。艶やかな黒髪、小麦色に焼けた肌、そして何より、可憐で儚げな彼女の顔立ちは、紛れもなく女性が持ち合わせる美しさだった。兆が一にも、彼女が女装をした男で、あのオカマの軍勢の一派に加わっているのだとすれば、俺は腹を決めて、骨の髄まで彼らに食われてみせようじゃないか。


 ……気後れしたわけではない。あくまで、乙女との回想で時間を取られた俺はとうとう後ろを振り向くことを断念し、勢い良く引き戸を開け放った。


「――ぼ、坊君⁉」


 叫んだのは、几帳面に浴巾を胸元まで巻きつけたメメだった。ハンチング帽を被ったままの彼は目を丸くし、鉢合わせる形で俺の顔を見上げた。


「メメ! 逃げるぞ‼」


 俺は叫ぶと同時に、出口に向かって駆け出した。まもなくタイガも後方の脱衣所から飛び出してくる。


「おいこら待たんか! 小僧どもおおおおお‼」


 オカマたちの咆哮が脱衣所に響き渡る。どうやら俺たちは坊やから小僧に昇格したらしい。いや、そんなことは、今はどうでもいい。悪魔の罠ならぬ、オカマの罠に嵌った俺たちは今すぐ逃げ出さなければ命の保証がないのだ。


 しかし、開かれた引き戸の前で、頑として立ち塞がる男が一人いた。


「おい、メメ!」


 急制動した俺はメメの背に向かって叫んだ。仁王立ちをした彼は目前に迫りくるオカマの軍勢を静かに見据えていた。


「おい坊、お前、分からへんのか⁉」


 先を行くタイガが立ち止まり、俺の方を振り返った。


「し、しかし――」


「あいつは自分を犠牲にして、俺らを庇ってくれとるんや! あいつは……メメは……男の中の男や‼」


 タイガは涙声で叫んだ。


「メメ……」


 俺は呟いた。メメは依然として沈黙を貫いている。


「メメの覚悟を無駄にするっちゅうんか⁉」


 タイガは大声で忠告した。


 週末のカードゲーム大会だけでなく、ここでもお前に助けられるのか……。


「メメ! この恩はいつか必ず返す‼」


 俺はメメの背中に向かって叫ぶと、一目散に出口の方へと駆け出した。これまで通過した全ての脱衣所を走り抜け、延々と続く螺旋階段を転がるように駆け下りるころには、怪物たちの気配はなくなり、先ほどまでの狂騒は一変してやんでしまった。


 その後に聞こえてくるのは、二人が踏み鳴らす階段の金属音と、酷く憔悴した呼吸音ばかりだった。

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