第一章 偽・乙女恋愛狂騒曲 その九



    ●



 ……ハア、僕はなんて意気地のない男なのでしょう。いわゆる乙女の姿で坊君と会うことはできましたが、僕は肝心の謝罪をすることなく、その場から逃げ出してしまったのです。地下一階に向かうエレベーターの中、鏡に映る僕は自分でもドキリとするほどに可愛らしく、そして、心配になるくらいに窶れていました。


 ……いったいこれから僕はどうすればいいのでしょうか。もう一度、屋上階に戻って、坊君に謝罪を試みるべきでしょうか。乙女の姿をした僕は、実はメメだったのだと、面と向かって正直に説明すれば、きっと彼は分かってくれるはず。


 ……ああ、やっぱり駄目です。決勝戦の席に座っていた偽メメのことを忘れていました。見るからに僕そっくりな彼はいったい何者なのですか? メメを自称しているし、坊君も彼の正体については疑問に思っていないようでしたし……これではいくら僕がメメを自称したところで、「メメならあそこにいるじゃないか」と一蹴されてしまいます。


 というか、そもそも偽メメは人間なのでしょうか。議論はそこから始めるべきなのかもしれません。ドッペルゲンガー? ……はやはり非現実的ですし、僕の心労が見せた幻覚だとしたら、坊君が彼をメメと認識していたことの辻褄が合わなくなるし……ハア、また悪い癖が出てしまいました。きっと頭の中でぐるぐると考え事をしてしまうから妄想に囚われてしまうのでしょう。


 やはりここはストレス発散方法その二、『とにかく寝る』を使うしかありません。今日はもう自宅に帰って布団に潜ることにします。


 そうと決まれば、一刻も早くここから立ち去らなければなりません。駅ビルを出て、本当はすぐにでも電車に乗りたいところですが……坊君のことです。きっと僕のことを追いかけてきます。


 ですから、ここはいったん人混みに紛れて坊君を撒くことにしましょう。謝罪は後日、メメ本人の姿ですることに決めました。きっとその方がお互いに落ち着いて話ができそうですから。


 降下するエレベーターがチンとベルを鳴らしました。地下一階の食品売り場は冷房が効いていて、セーラー服を着た僕には少し肌寒い場所です。もし扉の前で坊君が待ち構えていたら、と少しだけドキドキしましたが、どうやら僕の思い過ごしでした。


 とにかく今は駅ビルから脱出することが最優先です。駅ビルの地下一階から月ノ下商店街に向かうためには地下街を抜ける必要があります。僕は四方を見回しました。幸いにも、地下街への出入口は現在位置のすぐそばに設けられています。駆け出した僕は、買い物に来ているお客さんたちを避け、その出入口から一息に飛び出しました。


 少しして、駅ビルの中が騒がしいことに気付きました。振り返ると、そこにはやはり坊君と、それからなぜか、会場にいた観衆の人たちが地下一階に集合していました……まさか全員で追いかけてくるつもりではないですよね? 


 ……そのまさかかもしれません。きっと坊君のことですから、乙女を捕らえるために、会場にいた全員を買収していても不思議ではありません。


 どどど、どうしましょう。もし彼らに捕まってしまったら、僕はあっという間に身包みを剥がされて、自分が男だという事実を公衆の面前に晒してしまうことに……ああ、考えただけでも恐ろしい! 


 僕は独り地下街を駆け抜けていきます。全力疾走です。日々陸上部で練習しているので、足の速さには少しだけ自信があります。ほかの陸上部員に比べれば遅い方なのですが……いや、今は、悲観的になっている場合ではありません。


 地下街の真っすぐな道を走破した僕は、月ノ下商店街へと続く階段を駆け上がりました。週末の商店街は多くの人で賑わっています。これなら簡単に身を隠すことができそうです。坊君たちもあれだけの大人数では、この商店街の人混みを移動するのは難しいはず。フフ、ザマアミロです……こんな悪い言葉が思い浮かぶなんて、やっぱり僕の心は疲れているのでしょう。


 ですが、こんな僕も一生懸命に頑張っているつもりです。


 だから、僕の謝罪を邪魔する人たちは……えっと、その、商店街の人混みで迷子にでもなったらいいのです。アハ、アハ、アハ。


 ――どうやら想定外の出来事が起きてしまったようです。坊君は月ノ下商店街に到着した後も僕の追跡をやめず、次いで、彼が買収したと思われる観衆の人たちもまた、追跡をやめなかったのです。僕を先頭とした珍走の完成です。


 そして、僕を捕らえることを目的とした集団はさらなる肥大化を続けながら、罪ある僕に襲いかかろうとしていました。


 今回の件で得た教訓は『何事にも正直であれ』ということです。


 ……だったら、今すぐ立ち止まって投降しろと言う人がいるかもしれません。


 しかし、見てください。後方から迫ってくる坊君のことを。彼は右の拳を高々と振り上げて、しかも、大声で何かを絶叫しているではありませんか。もし彼に追いつかれでもしたら、きっと僕は原型を失うまでボコボコに殴られるに違いありません。


 僕は、夜空をかける流れ星のように商店街のアーケードを駆け抜けていきます……燃え尽きるのは、自宅に辿り着いてからです。


 直線距離で数百メートルはある商店街のアーケードはまるで障害物競走の競技トラックのように人や物が入り乱れています。僕は走る速度を緩めることなくそれらを避け、くぐり、飛び越え、何とか坊君たちとの距離を保っていました。


 しかし、僕はそんなに器用な方ではないので、やはりと言ってはなんですが、周囲の無関係な人たちを巻き込む事態に陥ってしまったのです。


 しかも、それは今でさえ手に余る問題を、さらに面倒な方向へと進展させてしまいました。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る