第一章 偽・乙女恋愛狂騒曲 その四
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最高に幸福な休日が明け、工業高校では一限目の授業が始まった。三年電気科の教室ではブレザーを着た行儀の悪いマッチ棒たちが今日も今日とて騒いでいる。乙女との再会を週末に控える俺も、この馬鹿のエレクトリカルパレードに乗じて揚々と踊り出したいところなのだが、一つの懸念事項が俺の体を、沸き起こる激情ごと古びた椅子に縛り付けていた。
路地裏での運命的な出会いから一週間がたち、一日千秋の思いで待ち続けた機会がついに巡ってきた。場所はカードゲーム大会が開催される駅ビル屋上階。当然、俺も乙女に思いを告げるために参上する所存だ。
しかし、俺は肝心のカードゲームについて、一切の知見も持ち合わせていなかった。
仮に乙女が賞品のカードを獲得するつもりならば、無論、彼女はゲームの規則を理解しているはずだ。
それどころか、乙女はプレイヤーとして手練れの可能性が高く、そんな彼女に素人の俺が話しかけたところで、まともに応じてくれるとは到底思えない。試しに気の利いた台詞をいくつか呟いてみても、想像上の彼女は俺の顔を訝しげに見つめるだけだった。
このままでは、カードゲーム作戦は失敗に終わる。その結論に至ったのは、四限目の授業が終わりを迎える時分だった。
昼休憩が始まると、俺は自席を立ち、窓際最後方の席に座る一人の同輩の下へと向かった。
「ホトケ、『ブロ』の居場所を教えてくれ」
俺はその同輩に聞いた。眉間に大仏のような黒子を付けた彼は、粗野で不衛生極まりない三年電気科における唯一無二の良心かつ問題ばかりが生じるわが校の永世中立人だ。一昨年、土木課の生徒たちが他校の不良グループと乱闘騒ぎを起こした時は光芒とともに天から舞い降り、その慈愛で戦野を鎮めたとされている。
故に、彼はホトケと呼ばれて久しい。
永世中立人と呼ばれている通り、校内における秘匿情報の照会や、隠密作戦の連絡は全てホトケを介するという暗黙の規則がある。俺の言葉を聞き受けた彼は自分の机から縦長に切り揃えられたノートの切れ端を取り出すと、鉛筆で一筆したため、おそらく万物に平等な微笑みでそれを差し出した。そこには達筆な文字で『購買部裏の駐輪場』と記されていた。
「協力、感謝する」
俺はホトケから機密文書を受領し、代わりに用意していた一つの握り飯を彼の机に置いた。まるで地蔵様へのお供えのようだが、これもまた永世中立人と交渉するための規則なのだ。いったいいつからそのようになったのかは、俺の知るところではない。
俺はホトケから授かった情報を基に、購買部裏の駐輪場へと向かった。
ブロというあだ名は
ホトケの情報通り、ブロは正門そばにある購買部裏の駐輪場で一人の男子生徒と取引をしていた。
「――で、こっちが最新の……」
自転車の荷台に腰かけ、背を丸めるブロは胸ポケットから一枚の写真を取り出した。商談相手の男子生徒は吐息交じりに感嘆する。
「おいブロ、これはもしや……」
「そうだ。現役の聖クレア女学園の生徒を可能な限り卑猥な角度で接写した一枚だ」
「か、神風が吹いている! スカートが捲れて……水玉模様が丸見えじゃないか‼」
「こっちの大人っぽい彼女はもっとすごいぜ?」
ブロはそう言うと、胸ポケットからもう一枚の写真を取り出した。
「こ、これは……布地がほとんどない。何とけしからん! 二枚とも買った‼」
「フフッ、毎度あり」
ブロはにやりと笑った。
男子生徒はブロにジャラジャラと小銭を手渡すと、校舎の人混みに消えていった。
「相変わらず下衆な商売だな」
俺はブロに声をかけた。
「うるせえ。だったら、お前は下衆な客だ。また例の情報が知りたいのか?」
「そうだ。早く出せ」
「だから、持ってないんだよ。身長百六十センチ前後、細身の体型、黒髪で長髪、物憂げな顔つき、日に焼けた肌……おまけに飛び切りの美人だって?」
ブロは溜息をつく。
「それらしい写真は全て見せたはずだ。坊、やっぱりお前の見間違いじゃないのか? 先週、俺が教えた観覧車乗り場の情報も、本当は売り物にすらならない噂話だったんだ……それで、その乙女さんとやらには会えたのか?」
ブロは俺を試すように聞くと、自転車の荷台から飛び降りた。
「いや。だが、新たな情報を手に入れた」
俺は答えた。
「情報ねえ……まあいい。用件を聞こう」
「人を紹介してほしい。カードゲームに詳しい奴だ」
「カードゲーム? 柄にもねえ」
「今週末、駅ビルの屋上階でとあるカードゲーム大会が開催される。それに乙女が参加するのだ」
「観覧車の次はカードゲーム大会って……俺は小学生を相手にしているのか?」
「ナタデココ一本だ」
「はいはい、毎度あり」
ブロは呆れた口調で言った。
交渉は成立した。俺はブロを連れ、校内の購買部を訪れた。すっかり煤けてしまったその小さな平屋はかつて食堂として利用されていたそうだが、今は総菜パンが並べられた長机と、販売員の婆さんが一人、それから、二台の自販機が唸りを上げているだけの古びた販売所となっていた。
売れ残りの総菜パンを購入した俺は自販機に小銭を投入した。釦を押し、冷えた缶は音を立てて排出される。
「よろしく頼む」
俺は自販機からナタデココジュースの缶を取り出し、ブロに放り投げた。
「ああ、任せておけ」
ブロは缶を開け、それを小さく掲げてみせる。
「早速だが、案内しよう」
ブロは、阿呆の巣窟、もとい三年電気科の中でも群を抜いて劣等生だ。彼は入学当初より、試験と名の付くものは全て最下位を取り続け、その不名誉な連続記録はかつての中退者が叩き出した歴代最多記録を優に超え、現在もその更新を続けている。
そのため、今年度はブロ本人と、ご母堂、担任教諭、主任教諭、そして、彼の精神鑑定役として養護教諭を迎えた前代未聞の五者面談が開催されたというが、彼はご覧の通り、至って飄々としている始末……なぜ彼が高校を中退せずに済んでいるのかは甚だ疑問だ。そろそろ工業高校の七不思議の一つとして数えられてもよい頃合いなのだが……何はともあれ、彼の電気工学に対する熱意の欠如は折り紙付きということだ。
「――お前が捜している男はここにいる」
ブロが案内した場所は本館四階、三年電気科の隣教室だった。
「邪魔するぜ」
ブロはおもむろに入口の引き戸を開く。
「クマはいるか?」
それが誰を指しているのかは教室を眺めれば一目瞭然だった。
「紹介しよう。クマだ」
ブロは得意げに言った。
その男は教室の最後列の席に座っていた。校内一の巨体を持つ彼が情報電子科に在籍していることは周知の事実だ。無論、俺も日々の学校生活の中で、彼の姿はたびたび目にしていた。クマはその名を冠するに相応しい、まさしく熊のごとき男だった。
クマは突然の来訪者に少しばかり驚きの表情を見せた後、まるで冬眠から目覚めた猛獣のようにゆらりと立ち上がり、「どうも、こんにちは」と挨拶してみせた。もしかすると、この男は人間でも熊でもなく、肉を纏った壁なのかもしれない。間近で見る彼はそう思わざるを得ないほどに巨大だった。
「急に押しかけてしまい、申し訳ない」
俺が挨拶代わりに詫びを入れると、クマはにこやかに「いいですよ」と言った。彼はその威圧的な風貌とは裏腹に、実に謙虚で温厚な性格をしていた。
「紹介してくれたのは嬉しいけど……ブロ君、今日はどんな用件で来たの?」
「おお、そうだったな」
ブロは嘘か
「坊にカードゲームを教えてやってほしいんだ。名前は確か、ドラゴ――」
「ドラゴンカードゲームだね⁉」
クマは食い気味に聞いた。
「そうだ。そのドラゴンカードゲームの公式大会が今週末に開催される。それに坊を勝たせてやってほしい」
「今週末だったら、駅ビルの屋上階で開催される大会だね。だけど、優勝するとなると……坊君はこのゲームについて、どれくらい詳しいの?」
クマは優しい面持ちで俺を見下ろしていた。
「いや、何も知らん」
俺は正直に白状した。
「そっか……」
「だが、名前くらいは聞いたことがある」
「それを聞いて安心したよ」
クマはにこやかに話を続ける。
「このカードゲームは登場キャラクターの相性が勝敗の鍵を握っているんだ。だから、少しでも作品のことを知っている坊君なら、きっと大丈夫だよ」
クマはどこまでも大らかな男だった。彼がドラゴンカードゲームにどれだけ造詣があるのかは知らないが、無知な俺をたった一週間足らずで優勝に導いてしまいそうな余裕がその態度に表れているような気がした。
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