第26話 切実な悩み
放課後、陽の傾きが窓の向こうで赤く長く影を引き、校舎内の空気に少し冷たい静けさが差し込んでいた。影二は、肩に鞄を引っかけながら廊下を歩いていた。階段を降り、玄関へと向かう途中、その足をふと止める。
──ぼそっ……。
聞き慣れない、掠れるような声が耳に届いた気がした。誰かが呟いたような、かすかな気配。思わず立ち止まり、周囲に目をやる。しかし廊下には誰の姿もなく、音もない。影二は眉をひそめ、小さく呟く。
「……空耳か?」
首を傾げつつ再び歩き出そうとしたその時、再びかすかに聞こえた。
「……倉くん……」
──呼ばれた?
今度ははっきりと自分の名前を聞いた気がして、影二は足を止めた。声の方へとそっと視線を送ると、靴箱の陰、ちょうど柱の影に、人影が隠れるように立っているのが見えた。女子生徒だった。制服の裾を握りしめるようにして、小柄な体を縮こませるその姿は、どこか頼りなく、緊張に震えているようにも見えた。
彼女は影二の視線に気づくと、ぎこちなく会釈し、しかし目は泳いだまま、何かを言いたそうにしていた。
影二は慎重に歩み寄り、静かに声をかける。
「……あの、何か用?」
彼女は驚いたように肩をすくめたが、やがて勇気を振り絞ったようにぽつりと呟いた。
「あ、その……ブレスレット、素敵ですね……」
彼女の視線が、影二の左手首へと注がれていた。そこには、黒と紺を基調にした新しいパワーストーンのブレスレットが、控えめな光を放っていた。
影二は少し照れながら腕を持ち上げる。
「これ? ああ、ありがとう。友達が選んでくれたんだ。」
彼女は目を伏せながら、躊躇いがちにもう一言、言葉を紡いだ。
「あの……健康運とか……明るい気持ちになれそうな石……できれば、目立たない色で……何か、ありますか……?」
その頼りない声に、影二は一瞬驚いた。けれど、すぐに相手の意図を理解し、心の中で石の知識をめぐらせた。彼女の雰囲気と、言葉の奥にある事情を考慮しながら、ゆっくりと答える。
「うーん……目立たない色で健康運とか気分を明るくしたいなら、グリーンアメジストとか、アベンチュリン、アマゾナイトがいいかな。淡い緑とか、水色系の石って、柔らかくて穏やかな気を持ってるから、気持ちが沈んだ時にもおすすめだよ。」
彼女はうっすらと顔を上げ、その言葉に耳を傾けていた。だが次の瞬間、ほんのわずかに唇を震わせ、呟いた。
「……私、最近ちょっと体調が悪くて……。よく頭痛がしたり、胸がざわざわして眠れなかったり……。気持ちも沈んでばかりで、何か、少しでも……変われるものが欲しいなって……。」
その声はあまりにも静かで、切実だった。影二はその言葉を胸の中で反芻し、真剣な表情で彼女を見つめた。陰の多い表情、その奥にある心の傷跡のようなものを、彼は見逃さなかった。
「そっか……」
静かに頷いた影二は、思いを込めるように言葉を続けた。
「……石は、魔法じゃないけどね。持ってると少し勇気が出たり、守られてる気がしたりするんだ。君が元気になりたいって思ってるなら、その気持ちを支えてくれる石は、きっとある。……焦らなくてもいい。少しずつでいいんだよ。」
彼女は影二の言葉に、はっとしたように目を見開いた。しばらく何かを考えるように視線を泳がせたあと、ほんのわずかに笑った。かすかに、しかし確かに浮かんだその微笑みは、彼女の硬く閉ざされた心の扉が、わずかに開いた証だった。
「……ありがとう、門倉くん。そんなふうに言ってもらえるなんて……嬉しいです。」
影二は少し頬を赤らめ、手を振った。
「いや、俺はただ、知ってることを言っただけだよ。」
彼女は小さく頷くと、「また何かあったら、教えてもらえますか……?」と声を落として尋ねた。影二は柔らかく笑って、「もちろん。」と返した。
その後、彼女は影二が教えてくれた石の名前を心に刻み、次の休日にショッピングモールへ足を運ぶ決意をした。パワーストーンはただの石かもしれない。それでも、自分の気持ちを支えてくれる何かが欲しい。その小さな希望が、彼女の一歩となった。
そして影二もまた、彼女の背中を見送りながら、心の中にふわりとした温もりを抱いていた。クラスメイトにアドバイスを求められる日々が増え、自分の居場所がゆっくりと広がっていくのを感じている。
玄関の外に出た時、影二は空を見上げ、小さく息を吐いた。夕焼けのオレンジ色がブレスレットの石に反射し、淡い輝きを見せる。
「……俺の居場所、少しずつできてきたかな。」
その呟きは誰に向けたものでもなかったが、確かに自分の心を支える言葉となった。彼は静かに歩き出し、次の一日へと向かっていった。
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