神馬の花嫁

おりべはるこ

序章 雪の中の出会い

「おねがい! 離して! ましろを殺さないで!!」


 ちらほら雪が降るその日。わたしの友だちは殺されようとしていた。

 ましろを助けようと、わたしを取り押さえる大人たちの腕の隙間から、必死の思いで手を伸ばす。

 けれど……


「ちっ! うるせえ餓鬼だ」

「きゃっ!!」


 ドカっ!!


 わたしを押さえていたひとりの大人の拳が、わたしの顔を殴り付ける。

 口の中で気持ちの悪い感触が広がっていく。歯で口の中が切れ、唇の端から血が滴り落ちる。


「あっ……」


 血が出てきたことに動揺し、わたしは呆然と石畳に落ちる血の滴を眺めている。

 その時だった。


「ひひーーん!!」

「ましろ!!」


 馬のいななきが……ましろの声が聞こえた。

 ましろはわたしの大事な友だち。

 厩で生まれて、厩で育ったわたしは、同じ厩で暮らす白馬のましろが大好きだった。

 

 母さんが死んだ時、郷の人たちは誰もわたしを慰めてくれなかったけれど、ましろはそっとわたしの涙を鼻先で拭ってくれた。

 寂しい時も辛い時も、ましろの優しさがわたしを支えてくれた。


 そんなましろが今、殺されようとしている。この地の柱神はしらがみ様の捧げ物にするために……。


 ましろは高々と前足を上げ、わたしの方へ向かって来ようとする。

 わたしを助けようとしているのだ。

 しかしそれを、手綱を持った大人たちが止める。


「暴れんじゃねえ! このバカ馬!!」

「ましろーーー!!」


 グシャっ!!


 男が持っていた鍬で、ましろの顔を殴り付ける!!

 耳にこびりつくような嫌な鈍い音がして、ましろの白い顔から赤いものが飛び散るのが見えた。

 ましろの大きな体が、柱神様の社の境内に音を立てて倒れる。


「いやぁっっ!!」


 その光景に、わたしは思わず両手で目を覆う。


「もうやめて……ましろにひどいことしないで……」


 ひっくひっくとしゃくり上げながら、わたしは言う。

 これ以上、ましろが傷つくところをわたしは見たくなかった。

 大人のひとりが辟易とした顔で言う。


「おいおい、こっちだってこんなもん、好きでやってるわけじゃねえよ。

 こいつは柱神様の供物だ。なまじ汚しちまったら、ご利益も目減りするって話よ」

「だいたいよぉ、こんな真っ白な馬、国中探したってそうそうお目にかかれねぇぜ?

 柱神様だって『上物よこしたなぁ』って笑ってくれるだろ」


 そんなことはないと、わたしは言いたかった。

 柱神様は生け贄なんて望まない。

 ただ祈ってくれるだけで、神様はきっと幸せになれるのに……。


「ましろ……ごめんね、ましろ……!!」


 わたしは石畳に額をすりつけて泣いた。

 ましろの柔らかなたてがみの感触を思い出しながら。

 幼い頃、わたしの涙を拭ってくれた優しさを思い出しながら。

 ましろのために何もできない自分に、怒りを抱きながら。


 なのにましろはわたしを責めるような目では見ず、いつものように優しく穏やかな瞳で、わたしを見つめてくれていた。


──穂乃花。泣かないで……。


 そう言っているかのような瞳だった。


「おっ。おとなしくなったな」

「じゃあやるか」


 ましろを押さえていた大人のひとりが斧を高々と構え、その刃をましろの首へ振り下ろす。

 ましろの体から首が離れる。吹き出した鮮血が、雪が積もった社の石畳を汚す。

 男たちはその場に座り込み、持ち寄った酒を開けてましろの首を囲み、笑いながら盃を交わし始めた。


 なんで……どうしてこんなことができるの……。


 地に伏せながら、わたしは涙を流す。

 わたし以外の誰も、ましろの死を悲しんでいない。

 そのことが余計にわたしの胸を抉ってくる。

 しかしその時、どこからか小さな泣き声のようなものが聞こえてきた。


──ああ……ぅぁぁぁぁ……


 誰? 誰の声?

 わたしはきょろきょろと辺りを見渡すけれど、その声の主は見当たらない。

 それは声にならない声だったけど、ましろの死を悲しんでくれているように聞こえた……。


※※※※


(わたし……何でこんなところにいるんだろう……)


 白い息がふわりと舞う。

 吐いた息が空に消えていくのを、ぼんやりと目で追いながら、わたしはふらふらとした足取りで雪の降る山道を歩いていた。


 昼だというのに空はどんよりと曇っていて、日差しなんてまったく届かない。

 木々は葉を落とし、骨のような枝が空を引っかくように伸びている。

 その枝の合間から、ちらちらと雪が降ってくる。


 しん……と静まり返った山の中。風すら鳴りを潜めた世界。響くのは、自分の足音と雪を踏みしめる微かな音だけ。

 それが余計に、わたしの孤独感を高めていく。


 ましろの死から八年後の冬。わたしは柱神様の社がある山の中にいた。

 わたしがこの山を彷徨い歩いてもう三日。

 その間、食べたものなんてない。喉の渇きを紛らわせるために、手のひらで雪をすくって口に含んだぐらいだ。


 唇は乾いてひび割れていて、舌が触れると鉄の味がする。

 お腹は空っぽなのに、もう空腹も感じなくなってきていた。

 むしろ、身体の感覚がどんどん薄れていく。まるで、自分の体じゃないみたい。


 捨てられたのが秋だったら良かったのに。落ちた木の実ぐらい、口にできたかもしれない。

 けれど今は冬。すべてが凍てついていて、命の気配すら見えない。


 それに、この格好では動くのもやっとだった。

 わたしが着ているのは、花嫁が纏う白無垢。豪華な衣装のはずなのに、今はその重みがただただ身体に纏わりついて、足を引っ張るばかりだ。


 裾はすっかり泥に染まり、足袋は凍えた土にすれて色も形も変わり果てている。

 雪が染み込んで、つま先の感覚はとっくになくなっていた。


 白無垢の袖が風に揺れるたび、濡れた布が肌に触れて、氷のような冷たさがじわじわと染み込んでくる。

 まるでわたしが雪のように溶けて山に消えていくのを、衣装まで手伝っているみたい。


 でも、それも仕方のないことなのかもしれない。

 だってわたしは、このお山に住む柱神様への捧げ物なんだから……。


「あっ……!」


 ぼんやりと歩いていたわたしの足が、地面から盛り上がった木の根に引っかかる。

 ぐらりと視界が傾いたかと思った瞬間、ドサリと音を立てて冷たい土の上に倒れ込んだ。

 頬が地面に打ちつけられて、じん、と痛みが走る。だけど、苦痛の声をあげる気力もなかった。


 両手をつこうにも、力が入らない。

 雪混じりの土が指の間に入り込んで、冷たさだけが鮮明に伝わってくる。

 起き上がろうとするけど、身体が動かない。

 寒さと空腹で体力がもう残されていないというのが大きな理由だろうけど、心がこれ以上足を動かすことを拒んでいた。


 視界に入るのは、降り積もる白い雪。

 空からひらひらと舞い落ちてくる雪片が、まるで誰かの手のひらのようにやさしく見えて、思わず目を細めた。


 ──穂乃花、駄目よ。こんなところで眠っては、風邪を引いてしまうわ。


 耳の奥で、懐かしい声がした。

 それは、厩の片隅でうとうとしていた幼いわたしを、優しく抱き上げて敷き藁の上へ運んでくれた、母さんの声だった。


 けれど、その母さんはもういない。父さんも、わたしが生まれる前に死んでいる。

 わたしを優しく抱き締めてくれる人も、名を呼んでくれる人も、もう誰もいない。家族も、友達も、支えてくれる誰かも……。


 この世界で、わたしはひとりぼっち。

 だったら、このまま目を閉じて、母さんのいるところに行った方が楽なんじゃないかな。

 ゆっくりと、瞼を閉じる。そしてそのまま深く、眠りに落ちていこうとしたとき……。


 ちらりと、雪の向こうに揺れる人影が見えた。男の人だ。

 わたしを見つめるその人の髪は雪よりも白く、月の光を紡いで糸にしたような銀色をしていた。

 その姿が近づくにつれて、わたしの視界は夢の中のようにぼやけていく。

 けれど、その人だけは――白い世界の中でただ一人、色鮮やかに浮かび上がっていた。


 長い銀の髪は高く結われ、雪の中にあっても凛として乱れない。

 目元は切れ長で整っていて、薄い唇は引き結ばれ、どこか寂しげな影を宿している。

 白い肌はかすかな光を帯び、まるで月がそのまま人の姿をとったかのようだった。


 その姿は、美しいなどという言葉では言い尽くせなかった。

 美貌というにはあまりにも神々しく気高くて、見る者の心を一瞬で奪ってしまう。

 そんな存在だった。


 纏っていた衣もまた、今まで見たことがないような美しい生地で作られている。

 墨染めの衣の上に重ねられた白銀の羽織は、まるで星の砂が散りばめられているように輝いていた。


 なんてきれいな人……。 


 神々しいほどの光を纏った男の人を見て、閉じかけていた瞼がまた開いていく。


 意識が遠のく中、その人は駆け足でわたしに向かってくる。

 その顔は何故か焦りに満ちていた。

 その人が歩み寄るたびに、雪の上に淡い光が灯ったように見えた。

 サクサクという足音とともに、わたしの鼓動も高鳴っていく。


 その人はわたしの前に来ると、衣が汚れるのことを気にかけずその場に膝をついて、わたしを抱き起こす。

 袖口から覗く指先は長く、冷たいはずなのに、わたしの手を取るその指先は暖かくとても優しい。


「穂乃花。どうして君がこんなところに……」


 えっ……この人。わたしの名前を知っているの?


 銀色の水晶のような澄んだ瞳に、わたしの顔が映っている。

 黒い髪に、茶色の瞳。髪はただでさえ癖っ毛なのに、この三日間まともに手入れもしていないこともあって、余計ぼさぼさに荒れ果てていた。

 こんな格好を郷の人たちに見られたら、なんてみすぼらしいと言われて笑われるに決まっている。


 けれどその銀の瞳には、嘲笑の色は一つもなかった。ただひたすらに、わたしを気遣う温もりだけが宿っていた。

 銀の鈴が鳴るような涼やかな声色も、わたしを思う優しさに満ちている。

 こんな風に誰かに見つめられて、名前を呼ばれたのは何年ぶりだろう。


 あれ? でも、この瞳……。


 その瞳を、わたしは知っていた。

 遠い昔に、わたしはこの瞳と出会っている。


 どこだろう。どこで出会ったんだっけ……。


 薄れゆく意識の中で記憶を遡り、その瞳と出会った日のことを思い出そうとする。

 必死でそれを思い出そうとするけれど、寒さと疲れでまぶたが無意識に下りてくる。


 眠りたくない。もっとこの瞳の中にいたい。


 母さんのいるところに行けるのなら、それでもいいと思っていた。

 けれど今は、違う。

 この人に見つめられていると、不思議と安心して、もう少しだけここにいたいと思ってしまう。


 そう思い、必死に瞼を開けようとするけれど、わたしの意識は深い眠りに落ちていた……。

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