青い夏、琥珀色の瞳に、私は二度目の恋をした

和尚

1章 再会は雨の音と共に

1章1話 琥珀色の記憶


 記憶というのは不思議なもので、思い出す場面の窓の外には、いつも雨が降っていた。

 古い紙の匂いと、雨の音。そして、こちらを見つめる琥珀色。

 それが私の中における幸せの要素で、ただそれだけで満たされる心と穏やかな時間が、このままずっと続くのだと、無邪気に信じていたあの頃。



 ◇◆



「俺みたいなのにお菓子をくれたり、構ってくれて。かえではさ、ほんとにお人好しってやつだよな」


 私が「お裾分けよ」とお菓子を前のテーブルに置くと、静流しずるは本から顔を上げてそう言った。

 市民図書館の二階の窓際。そこは、私と静流の、週に一度の逢瀬の場所だった。

 飲食は禁止だけれど、水分補給と塩分補給程度のお菓子は黙認されている。


「感謝しなさい」


「楓様に感謝多謝ですよっと……んで、これの名前は?」


「シガールよ。貴方、この間読んでいた本で出てきて食べたそうにしてたじゃない」


 静流は、私が当たり前に知っているようなお菓子の名前を、いつも知らなかった。

 そして、とても丁寧に、ご馳走のように、ゆっくりと味わいながら食べる。

 私は静流の食べた後の、幸福が滲み出ているような笑みが好きだ。


「……ごちそうさま」


「相変わらず、幸せそうに食べるわね」


「甘いものを発明した人たちは、すべからくノーベル賞をもらうべきだと思う」


「尊敬するのは同意だけど、ノーベル賞はそういうものじゃないわ、きっと」


 家庭事情は知らないが、静流はいつもこの場所にいる。

 私が面白そうだと思った本の貸出カードには、ほぼ全てと言っていいほど、静流の名前が先にあった。

 使い古されたトレーナーに短パン。後ろに縛った長髪に粗野な言葉遣い。一見すると本など読まなさそうな外見。だが、驚くほど綺麗な琥珀色の瞳には、理知と、諦観が宿っていた。


「おすすめは?」


「これ、今三巻目だけど面白い」


「じゃあそれにするわ」


 毎週水曜日。習い事の合間に私は祖母が寄贈したこの図書館に来ている。

 本を読むという目的が、いつしか彼に会うという目的よりも小さくなったのはいつ頃からだっただろうか。


 貸出手続きをして、私は静流の向かい側に腰掛けた。

 そして、本を読み始めるふりをして、同じように本を目を落とす静流の顔を見つめる。最近海外の児童文学コーナーにハマっている静流は今日も外見に似合わぬ静けさと共に、本をめくっていた。


 ほう、と私はこっそりとため息を漏らす。

 この、どこかやさぐれた、ともすれば皮肉にも聞こえる言葉を、でも優しさを含めて話す彼のことが、私は好きだった。よく見ると整っている容姿も、日本人には珍しい琥珀色の瞳も。

 そして何より、この二人の静かな時間を、愛していた。


「どうかしたか?」


「……黙ってれば絵になるなと思って鑑賞してるんだから、喋り始めないで、イメージが崩れるでしょう」


「理不尽すぎやしねぇ?」


「黙ってりゃカッコいいって褒めてんのよ? 光栄に思いなさい」


「お前段々と口悪くなってきたよな、最初はもっとお嬢様口調だったのに」


「悪い男に影響されたわね」


 不意に、静流が笑った。

 何よ、と私が睨むと、ぽつりと言う。


「不思議だな、楓とこうしてぽんぽんと話している時だけは、野良犬みたいな自分が、随分上等なもんに思える。服も古着で、髪の毛もぼさぼさで」


 寂しそうに、伸ばしたではなく伸びた髪を掬いながら言うのに、私は少しだけイラッとして、余計なことを言った。


「あんたはあんたよ。この私がカッコいいと言っているの。それに、本の趣味も悪くない。もっと大人になって、服装と言葉遣いを改めたら、野良犬どころか御曹司にだってなれるわ」


「……らしくない、急に褒め殺しだな」


「いい死に方じゃない」


「たしかに」


 静流が笑って、私も笑う。そして、再び静かに、本を読み始めた。

 長く生きていない人生だけど、間違いなく言える。確かにそこには、幸せがあった。そのはずだった。



 ◇◆



 周囲からの拍手の音に、私はふっと我に返った。

 白昼夢はくちゅうむとでも言うのだろうか。一瞬、意識が過去に飛んでいたようだった。気づけば、先程まで話されていた学園長の祝辞は終わっており、生徒たちの心のもっていない拍手の音が響いていた。


 外では雨がしとしとと降り、配られた、雨音学院高校入学式と大きな表紙が書かれた冊子からは独特の印刷紙の匂いが鼻をくすぐっている。だからだろうか、あんな情景を思い起こしたのは。


 式が行われている、学院併設の広いチャペルでは、讃美歌の代わりにざわざわと生徒たちの声が響いていた。それが一瞬静かになって、また再び違うざわめきが生まれる。


「挨拶って首席がやるんだよな? うわぁ、あので頭もいいのかよ」

「え、カッコよくない?」


 背後で、他の生徒達が囁くのが聞こえた。

 その言葉は耳に入っていたのに、私の意識は、釘付けになってしまう。


 慣例として、入学試験の成績が首席のものが行うことになっている。そして、その挨拶は、結果が出るまでは、私がやるのだと思っていた。

 中学でも何度も立った壇上。だが、今入学挨拶の壇上には、私ではない一人の男子生徒が立っている。


 まるでモデルをしている芸能人がゲストに来たといわれても頷けるような、華がある容姿だった。だが、それだけで、こんなに目を奪われたりはしない。


(え……?)


 戸惑う私を、不意に、不思議なほど金髪が似合っている青年がまっすぐに見つめた気がした。どきり、と心臓が跳ねる。


(しず……る?)


 名前を心のなかで呼ぶと、今度はズキリと、胸の中がきしんだ。

 遠目からでもはっきりと見えた琥珀色の瞳が、かつて失ってしまった初恋の色と、重なっていく。

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