第2話


私、レイラ=クロフォードはついさっき退院した。

搬送直後は酷く混乱していたものの、

当初、医師が危惧していたほどの状態悪化はその後見られず、数日後には精神的に安定していると判断された。


退院の際、主治医から告げられた言葉が脳裏に過ぎる。

『いいかい?その記憶は君をいじめる為に誰かが見せた悪い夢みたいな物なんだ。君は実際にそんな目に遭っていない。その事を忘れないで』


悪い夢……そうなのかもしれない。

『あの記憶』の中で居なくなってしまった家族は今、目の前に居る。

夢のように消え去る事もなく、あれからもう1週間近く経過していた。


精神魔術を用いた治療に精通しているあの病院の医師は『あの記憶』を消さなかった。

記憶の削除にはリスクが伴う。

前例がないほど膨大な量の記憶を削除するとなると、その影響は計り知れない。

私の容体は安定しており、リスクを冒してまで消す必要は無いと判断した。

主治医は両親に対し、時間が経てばあの記憶の事を受け入れられる様になると説明していたが、祖父母や両親は不服そうだった。

そして憐れみの視線を私に向ける様になった。

私、6月20日以後のレイラ=クロフォードの人柄と6月19日以前のレイラ=クロフォードの人柄は大きく変わってしまっていた。



病院から退院した私は車に乗せられ、自宅への帰路に着いていた。


時刻は午後2時35分、天候は晴れ。

幹線道路沿いを走る車の中から窓の外を覗けばビル街が見えてくる。歩道にはスーツ姿のビジネスマンや買い物帰りの家族、若いカップル。

車道を見てみれば、様々な種類の自動車、時折り馬車や馬に乗った人の姿も見られる。

様々な人々がこの通りを行き交っていた。


『……レイラ、こっちにおいで』

しばらく走っていると突然、隣に座っていた母から優しい言葉と共に抱きしめられた。

私は分かっていた。此処から先にはスラム地区が幹線道路沿いに存在した。

娘にそんな物を見て欲しくないんだ。

私の家は市民階級ではあるものの、貴族との繋がりを持つ程度には比較的裕福な家系だった。

良家と言っていいだろう。

だから祖父母も両親もスラムに対し、多少なりとも忌避感があった。


私は母に大人しく抱かれた。

母は今思い出したかの様にわざとらしく言った。

『そうだ、明日おじいちゃんがレイラの退院祝いに遊園地に連れて行ってくれるんだって』

『遊園地…?』

『そう、遊園地。シノお兄ちゃんとユナお姉ちゃんも楽しみにしていたわ』


遊園地……少しだけ気持ちが高鳴った。

以前の私ならテンション爆上がりだったのだろうけど、今では嬉しさより懐かしむ気持ちの方が遥かに強くなってしまっていた。

それでも嬉しい気持ちには変わりない。


『やったー!はやく遊園地行きたい!』


私は出来る限り明るい声で運転席にいる父や母に気持ちを伝えた。


言われた通りに悪夢の事は忘れよう。全て終わったのだから、私にはもう関係ないのだから。







翌朝、私達家族7人はヴィアースブルク郊外にある遊園地に来ていたが、ちょっとしたトラブルに巻き込まれた。

迷子である。

私は人混みに揉まれて他の家族と逸れてしまったのだ。

幸いにもこういう時にどう対応すればいいのか、私は知っていた。

だから遊園地の従業員がいるであろう場所に向かってる。

これはその最中で起きた出来事の話だ。







『…あいた』『うわっ!』

私は何かにぶつかった。

顔を上げてみるとアイスクリームのコーンを持った黒髪の少女……多分私と同じくらいの歳の子がまるで世界の終わりの瞬間を見た様な表情で固まっていた。


『私のアイス……』

そして、再び視線を下げれば、元は少女の物であったであろう溶けかけアイスクリームが、私のワンピースにへばり付いていた。





『こら!だから走ってはいけないと言ったんだ!』


ジュリアと呼ばれた少女の背後から彼女の父親と思われる男性が駆け寄ってきて私の服に着いたアイスクリームをハンカチで拭おうとする。


『大丈夫?ジュリアがごめんね?』

『これくらいなら大丈夫です。

近くの水道で洗って来ますから』


アイスの跡に向けていた視線を上げると男性と視線が合う。

20代後半と思われる男性は私の視線に気がつくと微笑み掛けた。


私はこの男性に好感を持った。

恐らく世の中の多くの人は私と同じ感想を持った筈だ。

優しげな好青年

でも……事後だからこその付け加えかもしれないけど、私は同時になんとも言えない違和感に襲われていた。

何処かで見た事がある様な…


『そうかい?ならいいんだけど……ところで君は1人で遊園地に?』

男性が言った。


『あ、いえ、家族と一緒に来たんだけど逸れちゃって…!!』


『なら一緒に探してあげようか?』

男性は手を差し伸べる。

私は一歩後退してこう言った。

『大丈夫です。近くの従業員さんに迷子のアナウンスして貰いますから…!』


男性はゆっくりと立ち上がるとジュリアの手を握る。

『そうかい?……ならいいんだけど、なら私達もそろそろ行こうか、ね?ジュリア』

『うん……さっきはごめんなさい』



『私は大丈夫だから気にしない気にしない、じゃあね!』

私は二人に対して手を振った。

それを見たジュリアも手を振り返した。


二人の姿が見えなくなると、近くに設置されている遊園地の迷子センターに向かった。



迷子センターには私と同じように迷子になった子供や子供を探している親が多く詰め掛けていた。


『すみませーん!私、パパ達とはぐれちゃってー!』

長い時間待たなければならないかもしれないが兎に角、自分の存在だけでも認識してもらおうと、近くに居た従業員に話しかける。


『ああ、お嬢ちゃんも迷子なんだね。ちょっと待っててね……シリカさん。この子は違う?』


シリカ……誰の事だろうか?そう思いつつ待合室の片隅で待っていたであろう夫婦が二人がこちらに近づいて来る。

二人は私の事を見たが、直ぐに首を横に振った


『いいや違う。その子はジュリアじゃない』

ジュリア……今ジュリアと言った?


従業員は夫婦の言葉を聞くと言った

『そうですか……ごめんね、おじさんの勘違いだったみたい』


でも私の会ったジュリアにはこの夫婦とは違う大人が付いていて……まさか


『あの……!ジュリアちゃんはどんな子だったの?』

席に再び戻ろうとしていた夫婦は、突然の出来事にきょとんとしたが、その質問に答えてくれた。


『お嬢ちゃんと同じくらいの歳の子で、少し燻んだ黒髪の子なんだけど……『三人で此処に来たの?』…あ、ああ。私とアンナ………妻とジュリアの三人だよ』


その瞬間、途端に全身の血が引いたのを感じた。

ジュリアの特徴は同じだった…。

じゃあ、ジュリアと一緒に居たアイツは誰……。

脳裏にあの優しそうな微笑みが浮かぶ。

ジュリアの顔……アイツの顔……何処かで……









14歳の頃の出来事だった。


記憶の中の私は授業終わりに友達と一緒にすっかり常連になりつつあるカフェに門限ギリギリまで入り浸る日々を過ごしていた。


ある日の出来事だった。

私はその日、とても不満だった。

そのカフェにはまだまだ高価なテレビが存在し、それを目当てに私はそのカフェに入り浸っていた訳だが、その日に限って、どのチャンネルも『つまらない物』ばかりを取り扱っていたのだ。


『おじさーん……他になんか面白いチャンネルないの?』


カフェの店主はチャンネルを何度も切り替えてくれるが、どの番組も全く同じ内容を伝えて来るばかり。


『悪いが、今日は諦めてくれ。

どの局も同じだ。』


テーブルに突っ伏していた私は店主の言葉を聞き、忌々しげに画面に映っている映像を見た。



『10年前から計16人の児童を誘拐した疑いで逮捕されたダニエル=ブータル容疑者は容疑を否認しており、その被害者の行方も現在のところ全く分かっていません』

そこにはあの男の顔が映し出されており、その次の瞬間には誘拐された子供の顔写真が映し出される。

……2番目に映し出された燻んだ黒髪少女の写真は家族写真の一部のようで、とても幸せそうだった。










眩暈、吐き気、頭痛、悪寒、動悸。

私は様々な症状が一気に襲いかかって来るのを感じた。

アイツ誘拐犯だ。

あの子が危ない。

でも……なんで………私は……


……あの記憶は本当なの……?



『お嬢ちゃん……大丈夫?顔色悪いよ?』

従業員の人が私の変化を感じ取ったのか私の心配をしてくれる。

でも心配すべきなのは私じゃない。


『……警察呼んで!』


『ちょっと!お嬢ちゃん!?』


気が付いた時には私は迷子センターから飛び出していた。





私は遊園地の人混みの中を走る。

アイツは遊園地の出入り口の方に向かっていた。

多分、そのまま遊園地から出てあの子を連れて行く気だ。


今ならまだ間に合う。

出入り口付近なら遊園地の警備員も人目もある。

そこでなんとかしないと……手遅れに……!


『はぁ……!はぁ……!』


2分くらい走ったところで遠くを歩くアイツの後ろ姿を見つけた。


『待って……!!』


走りながら呼び止める私の姿に気がついたのか、アイツは一瞬ぎょっとしたが、直ぐに和かな笑顔で私に話しかけて来た。


『どうしたんだい?ひょっとしてジュリアが何か落としていたとか?』


『あ、さっきの子…どうしたの?』


『はぁ……はぁ……』

入場ゲート手前の広場で私は呼吸を整える。

視界に映る地面には自分の影と汗が滲んだ跡が広がっていた。


少しだけ呼吸が落ち着いて来た。

私はゆっくりとジュリアに近づくと腕を掴んだ。


『ん?』


『っと……』

突然、私に腕を掴まれたジュリアは不思議そうに目を瞬かせた。

視線をアイツに合わせてみれば、目を細め、訝しむ様に私の顔を見ている。


私はアイツの顔を睨み付けながら、大声で叫んだ。


『きゃーー!!!ゆうかい!!!』


周囲にざわめきが広がっていくのを感じる。

周囲の視線に気が付いたアイツがハッとした表情で周囲を見回せば、悲鳴を聞いた人々は悲鳴の元へと好奇の視線をチラリと向け、リラックスしていた警備員や遊園地の従業員には緊張感が走ったのか、訝しむようにこちらにゆっくりと近づいて来る。


私の後を追っていた迷子センターの従業員も警備員を何人か引き連れて、広場にやって来た。

数秒前まで家族連れやカップルで賑わっていた広場は、あっという間に物々しい雰囲気を醸し出し始めていた。



『ジュリアちゃん離れて!』

『えっ?きゃっ!な、なに?!』

私はアイツの手から状況を飲み込めていないジュリアを引き剥がそうと引っ張ろうとした瞬間、頭上から視線を感じた。


視線を上げるとそこにはアイツ……あの誘拐犯が私に視線を戻していた。


虫も殺せなさそうな好青年の優しい微笑みはそこには無く、無実の罪を着せられたことに対する困惑も無く、企てを妨害された事に対する怒りの様な激情も無かった。

ただ……道端に転がっているゴミを見るかの様に、感情の籠っていない視線を私に向けていた。


『アナ……ゔぐッ…ぁ…』

アイツを非難しようとした次の瞬間、私は腹部に強い衝撃を感じた。

体が宙を舞い、そのまま十数メートル後方に叩きつけられる。



『ぅ……はぁ……はぁ……ぅぁ……』

擦り傷と腹部から伝わって来る痛みと吐き気を堪えながら身体を起こそうとするが、堪えきれず、血の混じった胃液が少量吐き出した。

意識がぼやける。

何か考えようとするが、なにも考えられない。

鈍痛と吐き気が私の身体を支配していた。


誰かの悲鳴が聞こえた気がする……ぼやける意識の中、力を振り絞って周りを確認すると、周囲は阿鼻叫喚の地獄へと変貌していた。

先程まで楽しい時間を過ごしていた来場者は『何か』から逃れようと脱兎の如くバラバラに走り始め、注意深く私達を見ていた15人ほどの警備員達は警棒を片手に『何か』に対して立ち向かおうとしていた。


……15人の内の1人の身体が建物の2階の壁に叩きつけられた。

ペしゃりと、水風船が叩きつけられた様な音が広場に響いた。

私は視線を警備員達の悲鳴の方へ向けた。

また1人、警備員が倒れた。

その1人は手足が異常な方向に折れ曲がっており、激痛で叫び声を上げている。

レンガや看板、標識や街灯の一部が渦を巻く様に空を舞い、それらの瓦礫は有機的な動きでその軌道を変え、警備員に襲いかかった。

警備員3人が飛来する瓦礫の餌食になったところで、勝ち目が無い事を悟った警備員達は『何か』を取り押さえる事を諦め、物陰に隠れながら現状の維持に努めようとした。



『お嬢ちゃん!こっちに『うがっ…』

警備員の1人が地面に蹲っていた私の身体を抱き抱え逃げようとするが、頭にレンガの塊が直撃すると、私の上に覆い被さるように意識を失ってしまった。


比較的体格の良い大人の下敷きになった私は踠くが、幼い私の力ではまるで歯が立たなかった。


瓦礫の風切り音と共に足音が近づいて来ている事に気が付いた。


警備員の身体と地面の隙間から足音の方を見れば、アイツが周囲の喧騒を尻目に悠々とこちらに近づいて来ている。


アイツと怯えた表情のジュリアの周囲を守るかの様に瓦礫が飛び交い、風が唸り声を上げ、アイツの背後には倒れ伏した警備員が転がっている。


『あの記憶』の中で私は同じ光景を何度も見た事があった。

古くからその存在を知られ、人類文明の発展を支えた人間に備わっている力。

中世になるとその存在を否定されて大きく衰退したが、今日に至るまで受け継がれ続けた技。



私は朦朧とする意識の中、静かに呟いた。

『……魔術師』

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