第二章「ふたりだけの一日を、百回くりかえしても」
「……ねえ、律くん。きみって、誰かを待ってるの?」
放課後の図書室。
カーテン越しに落ちる斜陽のなか、わたしは律くんの横顔を見つめながら問いかけた。
「ん? なんで?」
「わかんない……でも、そんな顔してる」
わたしの言葉に、律くんは少し考えこむように眉をひそめて、それから小さく笑った。
その笑みは、どこか苦しそうで、でも優しくて。
「たぶん……そうなのかもね。自分でもよくわからないけど」
その返事が、昨日と違っていた。
――そう、昨日と違う。
律くんは、“少しずつ変わってきてる”。
わたしが何度もこの一日を繰り返しているうちに、
律くんの言葉が、仕草が、視線が、少しずつ――わたしの記憶と“ズレてきた”。
最初の頃は、完全に同じだったのに。
わたしの行動が変わることで、律くんの反応も変わっていく。
「……ほんとうに、変えられるのかな。この一日」
ポツリとこぼれたつぶやきに、律くんは首を傾げた。
「なにか言った?」
「ううん。……ちょっと、夢みたいな話」
ほんとうは夢じゃない。
何度も繰り返している八月七日。
カメラの中の記録も、朝になれば消えてしまう。
でも――心は、忘れてくれなかった。
律くんとの時間。
ふたりだけのこの一日。
どんな未来も残らなくても、
この気持ちだけは、何百回だって、真実になる。
「……はい、あーん」
「えっ、ほんとにいいの?」
「桃の缶詰だもん。だいじな人にしか、あげないよ?」
屋上にふたりで座って、お昼休みの残り時間をわけ合った。
缶詰のピンク色の果肉を、スプーンですくって律くんの口元へ差し出すと、
彼はちょっと照れくさそうに口をあけた。
「……うん、あまい。ここねに似てる」
「わ、ずるい。それ、ずるいセリフだよ……」
わたしは顔が赤くなるのがわかって、両手で頬を押さえた。
たぶん、もう十回くらい同じ会話をしてるのに――こんなにドキドキするの、初めて。
時間って、不思議。
同じようで、ぜんぜん違う。
この世界に、律くんとわたしだけしかいないなら――
どこまで好きになっても、いい気がしてしまう。
「……今日、さ。夜、こっそり校舎に残ってみない?」
律くんのその言葉に、わたしは目を見開いた。
「えっ、なんで……?」
「なんとなく。ここねと、もっと話したいし……なにか、わかるかもしれないから」
彼も、気づいてるんだ。
自分の中に、なにかが違うってことに。
「うん……行く」
夜の校舎は、しんとしていた。
夏の虫の声と、窓から吹き込む風の音だけ。
わたしたちは理科室の窓から忍び込んで、そっと歩きながら、
いちばん奥の音楽室まで来た。
「ここ……ピアノ、あるんだね」
「うん。誰も弾かないけど、音はまだ生きてるよ」
わたしがそっと鍵盤を押すと、ひとつ、淡い音が部屋に響いた。
律くんがその隣に座る。
わたしたちは肩を並べて、少し黙ったまま鍵盤をなぞった。
「……ここね。きみって、ほんとは何者なの?」
「え?」
「……さっきのこととか、毎日がなんとなく既視感あるとか。
君と話してると、頭の奥がうずく感じがする。
それって、なんなんだろうって」
わたしは――すこしだけ、勇気を出した。
「……律くん。わたしね、この日を……何度も繰り返してるの」
律くんの表情が、止まった。
「……うそ、だよね?」
「ほんとうだよ。最初に、水たまりを踏んだ朝から……
何度もこの一日をやりなおしてる。律くんに、会うために」
律くんは、信じられないような目でわたしを見つめていた。
でも、その奥に――ほんの少し、やさしさがあった。
「……そんなこと、言われたの、初めてなのに……変だね。
いま、なんかすごく……泣きそうだ」
「律くん……」
次の瞬間、律くんの手が、わたしの頬にそっとふれた。
「この感覚も……忘れたくない」
指先が頬をなぞり、唇が……触れそうな距離に落ちてくる。
そのとき、時間が――止まった気がした。
その夜、ふたりはそっと唇を重ねた。
明日には消えてしまう記憶でも、
この気持ちは、永遠に生きている。
もし、これが百回目の八月七日でも。
わたしは、きみを選ぶ。
そして朝が来る。
また、通学路。
蝉の声。
あの水たまりが、
きらり、と陽を映した。
わたしは、そこを避けなかった。
もう一度、きみに会うために――
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