欠ける彫像
夏休みに入ってから、私は駅前の学習塾に入り浸るようになった。部活動を言い訳にして、勉学を疎かにしていた凡人には人一倍の努力に迫られた。
勉強により時間は圧迫され、友人と遊ぶ機会(通っていた塾には、同じ中学の同級生も幾らか通っており、彼らとは雑談やちょっとした息抜きに興じていた)は減少した。ことさら、「自分で勉強できない馬鹿が行く場所だ」と学校で吹聴し、それを証明するかのように模試では誰よりも良い点数を取っていた彼とは顔を合わせることすら稀になった。
中学三年生の夏休みにおいて、彼と顔を合わせたのは三者面談の日だけであった。
夏休み中盤の午後。
私は一人(父親とは学校で合流する予定となっていた)、面談用の教室が空くのを冷房の利いた図書室(ここが待機室となっていた)で待っていた。
私は三者面談を言い訳に勉強道具を持参しなかったうえに、活字も疎んでいた。そんな私には、面談の順番が回ってくるまで三十分程度の暇が与えられた。
幾人かが黙って受験勉強にいそしむ図書室は快適であったが、その光景は『何もしていない』私に焦りを覚えさせた。
私は焦燥感から目を逸らすために廊下に出て、鋭い陽光があちらこちらに刺さる人気のない校舎を散策することにしたのだ。
校舎内は驚くほど静かで、私の運動靴のゴム底がリノリウム張りの床に擦れる音が聞こえるばかりであった。
私は普段の経路を上機嫌な足取りで辿った。気だるげな「おはよう」に「さよなら」、猥雑でくだらない雑談が交わされていた場所には蝉の鳴き声が響いていた。
非日常感に溺れていた私の胸中には何気ない悪戯心が芽生えた。それは面談場所の自教室の前で私を立ち止まらせた。先生のほかに誰も知ることの出来ない事柄を知れる機会は私を突き動かした。
抜き足差し足、足音を立てずに自教室に接近し、腰を屈め、引き戸に左耳をつけた。すると、「だから、俺はここに行くって言ってるでしょ」と、久しく耳にしていなかった友人の声が鼓膜を震わせた。
私は間接的な彼との遭遇に「わっ」と、声を漏らしてしまいそうになった。
だが、慌てて口に手をあてがったおかげで助かった。
「成績がいいんだから、レベルの低い公立じゃなくて、ご両親が勧めているこの私立にした方が良い」
当時、四十代半ばの担任は彼に哀願するようにそう言った。私たちよりも二回りも上の男が、少年に平伏している様は無邪気だった私に笑みをもたらした。
「どうして?」
「公立は学習の進行も遅いし、生徒の質も私立と比べれば良くない。それはお前の進路を狭めることだ」
「それじゃあ、俺にぴったりだ」
彼はどこか投げやりにそう言い捨てた。
「『仕事で親が来れない家庭』の一人息子には、そっちの方があってる」
「河野! 一生懸命、働いている親御さんに失礼だろ!」
面目を保つための弱さを見せていた担任も、彼の発言に大人として声を荒げた。
他方、彼と言えば「失礼なのは、あっちの方だ」と、冷たく吐き捨てた。そこには自身への嘲りが含まれているように聞こえた。
傍若無人の才人として彼を認識していた私は扉から耳を離した。興味は依然として彼に向けられていたが、私はそれを無視して図書室に戻った。
私の成績は芳しくなかったが、勉強の甲斐あって直近の模試ではそれなりの点数を取れていた。その点数はこれまでの努力を続ければ、志望していた都立高校に余裕をもって受かる点数であった。
これは三者面談を順調に進めた。
父との相互理解もあってか、私の人生を決める時間の半分は雑談に費やされた。私はその雑談の間、小一時間前に聞いた声から才人の表情を想像していた。
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