第6話

 文化祭準備が佳境を迎えたある日の昼休み、ヒナが満面の笑みで私の席にやってきた。


「リコ! 絶好のチャンスよ!」


 彼女の瞳が異様にキラキラと輝いている。この表情は、彼女が何か企んでいる時の典型的なサインだった。私は警戒心を抱きながら、手元の設計図から顔を上げた。


「何のことでしょうか」


「実行委員会で予算管理の補佐を募集してるのよ! リコにぴったりの役職じゃない? 数字に強いし、几帳面だし、絶対に適任よ!」


 ヒナの提案を聞きながら、私は彼女の真の意図を分析してみた。実行委員会の委員長は高橋君だ。つまり、これは私と彼の接点を強制的に作り出すための、ヒナによる巧妙な策略だと推測された。


「申し訳ありませんが、現在は模型製作に専念したいので――」


「だめよ! クラスの代表として、みんなのために頑張ってもらわないと!」


 ヒナは私の返事を聞く気がないようだった。この状態になった彼女は、もう誰にも止められないだろう。

 私はため息をつくしかなかった。

 そして案の定、ヒナの行動力は終礼のホームルームで遺憾なく発揮された。


「――というわけで、企画内容の精査および予算管理の補佐として、桜井さんを推薦します! 彼女はクラスで一番のしっかり者ですし、数字にも強いですから、絶対にこの役目にふさわしいと思います!」

 

 ヒナが満面の笑みでそう高らかに宣言した瞬間、私は思考が停止した。


「ヒナ、お昼休みの話は……」


「大丈夫、大丈夫! リコなら絶対にできるって! それに、ハルト君も実行委員長なんだから、何かと相談に乗ってもらえるわよ!」


 彼女は私の耳元で悪戯っぽく囁いた。やはり、昼休みに分析した通りの展開だった。

 周囲のクラスメイトたちも「それ、いいね!」「リコなら安心だ!」と次々に賛同の声を上げる。この状況で論理的な反論を試みても、クラス全体の和を乱す非協調的な行動と見なされる可能性が高い。

 こうして私は半ば強制的に、文化祭実行委員会の末席に名を連ねることになってしまった。


 そして今日、私は初めてその実行委員会の定例会議に出席していた。

 放課後の第一会議室。長テーブルを囲むように、各クラスや部活動から選出された委員たちが席に着いている。その雰囲気は普段の教室とは異なり、どこか緊張感を帯びていた。


 内心、私は穏やかではなかった。この会議に出席している一時間があれば、ジオラマの格納庫の壁を少なくとも三枚は組み立てることができたはずだ。あるいは管制塔の窓枠の精密な切り出し作業を進めることもできた。


 時間という有限な資源の極めて非効率的な浪費。それがこの会議に対する私の率直な評価だった。


「――以上が現時点での各企画の進捗状況です。次に、予算の第一次配分についてですが……」


 議長席に座る高橋君が流暢な口調で会議を進行していく。彼の声は自信に満ち、心地よく会議室に広がる。配付された資料は完璧に整理されており、議題の進行にも一切の無駄がない。


 しかし私の分析では、この会議にはいくつかの構造的な問題点が存在した。議題に対する議論は論理的な正しさよりも、声の大きい者の意見やその場の感情的な空気に流される傾向がある。意思決定の過程が極めて非合理的だった。


 私はそんな思考を巡らせながらも、手元の資料に淡々と目を通していた。私の役割は各企画から提出された予算申請書の内容を精査し、不備や矛盾がないかを確認すること。その作業自体は私の得意とするところではある。


 会議の途中、高橋君が私に直接質問を投げかけてきた。


「桜井さん。君たちの企画の申請書、確認させてもらったよ。興味深い内容だね。それで、いくつか確認したい点があるんだけど、この資材の項目、もう少し詳細な内訳を提出してもらうことは可能かな?」


「はい、問題ありません。本日中に再提出します」


「ありがとう。助かるよ」


 彼が私に話しかけた瞬間、会議室にいた数人の女子委員たちが一斉にこちらに視線を向けたのが分かった。その視線には羨望のような感情の色が浮かんでいるように見えた。


 しかし、私の意識は既にこの会議室にはなかった。


 彼の言葉は鼓膜を通過し、言語中枢で意味のある情報として処理されてはいる。だがそれと同時に、私の脳の別の領域では全く異なるシミュレーションが高速で実行されていた。


 (……ソウタ君が昨日提案してくれた地形の塗装技法。アクリル塗料の上にエナメル塗料でウォッシングを施すという手法。確かにリアルな質感を表現できる可能性は高い。だがエナメル溶剤が下地のアクリル塗料を侵食するリスクも考慮しなければならない。トップコートによる保護は必須だが、その膜厚はどの程度が最適か……)


 私の思考は完全に、教室の片隅にある私たちの作業場へと飛んでいた。高橋君の言葉はまるで遠い国のラジオ放送のように、私の意識の表面を滑っていくだけだった。


 会議が終わり、各委員が席を立ち始めた時、高橋君が再び私の席へとやってきた。その手には分厚いファイルが数冊抱えられている。


「桜井さん、お疲れさま。少し、いいかな?」


「はい。何か問題でもありましたか?」


「いや、問題というわけじゃないんだ。ただ、君たちの企画は他のどの企画よりも独創的だ。だから実行委員長として、できる限りのサポートをしたいと思ってね」


 彼はそう言うと、隣の椅子を引き、私の向かいに座った。そして企画申請書のファイルを開き、いくつかの項目を指さしながら話し始めた。


 展示スペースの確保の問題、電源の利用に関する規定、そして来場者への効果的なアピール方法。そのどれもが実行委員長としての的確で実用的なアドバイスだった。


「展示場所については、他の企画との兼ね合いもあるから、第一希望が通らない可能性も考えておいてほしい。その場合の第二、第三希望も早めに提出してくれると助かる」


「分かりました。ソウタ君と相談の上、明日中に提出します」


「ありがとう。……君たちの作業、時々見させてもらっているよ。本当に、集中して取り組んでいるね」


 彼の言葉に、私は顔を上げた。


「効率的な作業進行を心がけています」


「そうだね。君らしい、と思う」


 私は彼の言葉を聞きながらも、思考の大部分をジオラマの次の工程へと注いでいた。


 格納庫の屋根に使用するトタン板の錆の表現はどうするか。ソウタ君は塩を使ったチッピング技法を提案していた。その具体的な手順と必要な材料をもう一度頭の中で整理する必要がある。


 高橋君との会話を終え、会議室を出た時、私の足は自然と自分の教室へと向かっていた。実行委員の仕事は私にとってはあくまで義務だ。しかしジオラマ製作は私の情熱そのもの。私の心が本当に帰るべき場所は、あの教室の片隅にある私たちの作業場なのだ。


 教室のドアを開けると、ソウタ君が一人で黙々と作業を進めていた。私が戻ってきたことに気づくと、彼は顔を上げ、小さく頷いた。


「会議、終わったのか」


「はい。今終わりました」


「……そうか」


 たったそれだけの短い会話。必要以上の言葉は交わさない。それが私たちの効率的な関係性だった。


 私は自分の作業台の前に座ると、カバンから工具を取り出した。


「高橋君から、展示場所の第二希望、第三希望を提出するようにと指示がありました」


「……分かった。後で考えよう」


「はい。それと、先ほど考えていたのですが、格納庫の錆の表現について……」


 私は自分の考えをソウタ君に伝えた。彼は私の言葉を静かに聞き、そして的確なアドバイスを返してくれる。この純粋に技術的な対話。これこそが今の私にとって最も価値のある時間だった。


 高橋君がなぜ私にあれほどの関心を示すのか。そんなことはもはやどうでもいいことのように思えた。私には完成させなければならない作品がある。そしてその作品を最高品質で仕上げるための作業に集中する必要がある。


 それだけで十分だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る