第一章:鉄の女、墜つ
深夜のモンテネグロ中央医療院は、死の天使が舞い降りる前の、静かな舞台のようだった。
「ドクトル! 大臣閣下の意識レベルが低下!」
張り詰めた看護師の声に、ニーナ・ペトロヴィッチは弾丸のように駆けつけた。研修医として二年目。その猪突猛進ぶりと、誰にでも噛みつく様から、付いたあだ名は「狂犬ニーナ」。理想と現実の醜い口づけに、彼女の神経はとっくに焼き切れていたのだ。
VIPルームの豪奢なベッドの上で、ソフィア・ストヤノヴィッチ国防大臣が、見えない敵と戦っていた。五十代、この男社会の小国で「鉄の女」とまで呼ばれた彼女の威厳は、もはや見る影もない。その体は硬く強張り、シーツを濡らす脂汗は、恐怖と腐敗の匂いを放っていた。
「壁が……壁が歪んで私を飲み込もうとしている! やめなさい、私はモンテネグロの盾よ!」
振戦せん妄。アルコールという悪魔との契約を、一方的に破棄した者への罰。三日前、公務中に倒れ、緊急搬送されてきた彼女は、強制的な断酒によって、体内の均衡という名のパンドラの箱を開けてしまったのだ。
「ジアゼパムをさらに追加投与します!」
「待ちなさい、ペトロヴィッチ研修医」
ニーナを制したのは、指導医であるドクトル・イレーナ・イヴァノヴィッチだった。鉄のように硬い黒髪を寸分の乱れもなく結い上げ、その瞳には一切の感情が浮かばない。彼女こそが、この医療院の規律とエビデンスの化身だった。
「プロトコル以上の投与は、呼吸抑制のリスクを高めるだけ。それは
「しかし、このままでは閣下の交感神経が、自らの心臓を破壊します! ブレーキの壊れた軍用列車が、崖に向かって暴走しているようなものです!」
「それが依存の終着駅です。我々は医者であって、魔法使いではない。教科書に書かれていること以外は、してはならない」
イレーナの言葉は、氷のように冷たい真理だった。だが、ニーナは目の前の「鉄の女」が、ただの弱い一人の人間として崩れ落ちていくのを見ていることなどできなかった。鎮静剤という薄いベールで覆い隠そうとしても、内側から吹き出す狂気の嵐は、それをビリビリに引き裂いてしまう。
なぜ、人間の身体はこうも裏切るのか。なぜ、意志の力は、分子の力学の前でかくも無力なのか。その理不尽さが、ハンマーのようにニーナの頭を殴りつけた。
夜が明けても、ソフィア大臣の容態は安定しない。いつまた狂気の嵐が吹き荒れるか、誰も予測できなかった。疲労困憊で医局の硬い椅子に身を沈めたニーナの耳に、同僚たちがひそひそと交わす、禁忌の噂が流れ込んできた。
「聞いたか? 鐘楼の魔女が、また修道院から『ネグラ』を月に三十本も取り寄せているそうだ」
「ドクトル・ヴォルコワのことか……。あの天才が、どうしてあんなことに。悪魔に魂でも売ったのかしら」
ドクトル・アリア・ヴォルコワ。
ニーナも、その名は知っていた。かつて、この国の学問の世界に、彗星のように現れた魔女。彼女が二十八歳で発表した、神経可塑性におけるタンパク質分解系の役割に関する論文は、あまりに独創的で、当時のニーナには詩か魔法の呪文のようにしか読めなかった。だが、三年前、彼女は全ての舞台から姿を消した。そして今では、鐘楼のてっぺんで、悪魔の酒に溺れる狂人として、その存在を囁かれるだけだ。
「噂では、一日一本を飲み干しても、全く酔わないらしいわ。肝臓が悪魔の錬金術でも起こしているのよ」
「人間じゃないわね。狂った芸術品よ」
その言葉が、雷となってニーナを撃った。
(狂った、芸術品……?)
そうだ。国防大臣の体内で起きている狂気と、あの魔女の体内で起きている奇跡。それは、同じ「アルコール」という名の指揮者が奏でる、協奏曲の、最も激しい楽章と、最も静かな楽章なのではないか。
片や、アルコールが消えたことで地獄の不協和音に苦しむ肉体。
片や、致死量のアルコールを完璧なハーモニーで受け入れる肉体。
この両極端な現象の根底には、きっと同じ楽譜が隠されている。だとしたら、その禁断の楽譜を読み解けるのは、イレーナの持つ教科書ではなく、あの「魔女」だけではないのか。
常識で考えれば、狂気の沙汰だ。だが、今のニーナに、常識などという眠たい子守唄は必要なかった。目の前の命を救える可能性があるなら、地獄の悪魔にだって魂を売ってやる。
ニーナは立ち上がった。その足は、まっすぐに、古い教会の鐘楼へと向かっていた。扉の向こうに待つのが、狂気か、真理か、あるいはその両方か。もはや、どうでもよかった。彼女は、この危険極まりない舞台を降りる気など、毛頭ないのだから。
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