「9月1日を知らないで」
@under_the_rose
鈴のように、あなたが笑っていた。
8月31日、午前10時、一緒に選んだカーテンの隙間から差し込む鋭い光が、朝の訪れを告げる。
サイドテーブルに乱雑に置かれた咳止めの空箱に、今日も目をそらし、あなたを起こさないようにそっと体を起こす。
静かな部屋に響く、シーツの擦れる音がやけに耳につき、嫌気が差した。
白いシーツに横たわる、きれいな横顔に惹かれて、消えそうな白肌にそっと手を伸ばす。
あなたの少し冷たい頬が、私の温もりを静かに奪っていく。
まるで、私の気持ちがバレてしまうような気がして、慌てて手を引っ込めた。
どうすることもできずに、ぼんやりと宙を見つめていた私を、あなたの声が引き戻す。
起き抜けの、少しかすれた中低音が耳に馴染む。
心配の色をにじませた、やさしい声が問いかける。
「おいで。どうしたの?」
顔を上げると、広げられた両腕。
その温もりに吸い込まれるように抱きつき、きれいに浮かんだ鎖骨をそっと撫でた。
「なにも。起こしちゃって、ごめんね。」
やさしく抱き寄せられたまま、私は曖昧に答える。
小さく首を振ると、あなたは囁くように言った。
「大丈夫だよ、ここにいるから。」
あなたの手が、私の頭を静かに撫でる。ずっと、ずっと。
どれくらいの時間が流れただろうか。もう一度、眠ってしまいそうになるほどの、やわらかい沈黙のなかで。
私は小さく「おはよう。」と声をかける。
やっと朝が始まった。
*
午後6時
黒い涙跡を拭き取ったティッシュと綿棒で溢れたドレッサーの鏡越しに
身支度を終えた私は、あなたを呼んだ。
「これ、つけてくれない?」
差し出したのは、控えめなハートモチーフのシルバーネックレス。
昔、母にもらった大切なもの。
「もちろん。」
あなたはそう言って立ち上がり、そっと私の長い髪を持ち上げて、ネックレスを首元に巻きつけてくれる。
「今日も可愛い。」
心から幸せそうに微笑むあなたに、私は少し首を傾げた。
「ありがとう。……可愛くなれたかな。」
そう言いながら、目の前の真っ白なドレッサーに触れる。
普段は気にならない小さな染みが、今日は妙に目について離れなかった。
「うん、可愛いよ。」
あなたは表情を変えずに、まっすぐ私の顔を覗き込んで言った。
私は小さく微笑んで、バックを手に取り、振り返らずに玄関まで歩いた。
「今日は歩くから、スニーカーにしようかな。」
お気に入りのスニーカー。
厚底で、リボンがたっぷりついた、ショートケーキみたいな靴。
これなら、歩くのもきっと嫌じゃない。
夏の日差しは強いから、日傘も持って出かけた。
「今日は、どこに行くの?」
私の少し後ろを歩きながら、あなたがたずねる。
「今日は、海に行くの。あなたも好きでしょ?」
私のわがままで沿岸部に家を借りたから、海まではそう遠くない。
普段は歩かないけど、今日は特別な日だから。
海が、好き。
キラキラと日差しに反射する水面。
白く乾いた砂の上をすり抜ける、心地よい波の音。
夜になれば、月の光を映して、すべてを静かに飲み込むような、別の顔を見せる海が好き。
しばらく、つまらないグレーの景色を眺めていると、やがて水平線が見えてきた。
その瞬間、自然と足が早まる。
——早く、あの青に触れたくて。
*
午後11時50分。
暗くなった海辺で、スマホの青白い光だけがぼんやりと揺れていた。
月の下、海を見つめるあなたに声をかける。
「もう、8月も終わりだね。」
じんわりと滲む汗の感覚から逃げるように、私は波打ち際へ向かった。
足を海に浸すと、さらわれるような感覚に、どこか安心してしまう。
「溺れにいかない?」
私の問いにあなたは儚く微笑んで、小さく頷いた。
生ぬるい風が、月明かりに照らされた影を揺らす。
冷たく暗い海を、私は一人で歩いていく。
ふわりと浮かぶチュールスカートは、まるでクラゲのよう。
クラゲのように、もしこのまま、溶けて消えることができたなら——
どれだけよかっただろうか。
黒い涙が、頬を伝って跡を残す。
あなたはよく言っていた。可愛いねって。
「一緒にいたときのほうが、…私、可愛かったなあ。」
声が震えて上擦った。
私は膝から崩れるようにからだを海に沈めた。
——ずっと一緒だよ。
溺れていくその手に、そっと口吻をした。
静かな海は今日も波の音を響かせる、今日は9月1日。
「9月1日を知らないで」 @under_the_rose
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